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第14話:受け入れる準備

「ではまた来週の金曜日に」

 伊倉さんの挨拶に合わせ、わたしも軽く会釈をする。玄関のドアはすぐにぱたりと閉まった。ガチャガチャと無骨な施錠音が響く。玄関脇にある鉄格子がついた窓の向こうで動く人影は、たちまち見えなくなった。


「ありがとうございました」

 訪問の終わり、わたしは伊倉さんへ同行訪問のお礼を伝えた。

「お疲れさまでした! 瀬野さん、すごいね」

 彼女は玄関のドアから視線をこちらへ移すと、歩き出しながらそう言った。

「どうですかね。赤城さん、結構難しそうです」

 会ってすぐに、嘘をついてしまった。それをひるがえすようにまた大見得を切った。わたしは肩にかけた訪問バッグの紐をぎゅっと握っていた。

「洋二さんは、自分のことを分かってくれる人に来てほしいんだよ。もともと幻聴がひどかった人だから、他人から理解されないことに特段敏感になっている部分はあるのかもしれない」

 赤城さんが患う統合失調症の主症状のひとつに「幻覚・妄想」がある。「幻聴」は幻覚のうちの一症状で、無音の場所で雑音が聞こえたり、いるはずのない人間の声が聞こえたりするものだ。

 当時の赤城さんは、部屋の窓や隣人の部屋に続く壁から日夜声が聞こえていた。初めにかかっていた大学病院からのサマリーは、転院してくる前の状況を知る貴重な情報源だ。それによれば、「お前の行動はずっと見ているぞ」「何にもできないろくでなしが」といった罵倒が聞こえるの日もあれば、クスクスとただ遠くから小馬鹿にするような笑い声が聞こえ続ける日もあったそうだ。

 そのが耳元まで近寄ってきたとき、赤城さんは自分の部屋の壁を何度も叩いて穴をあけ、部屋にあった電気スタンドで窓ガラスを割った。そして近隣住民からの通報により、赤城さんは医療保護入院となった。


 木造アパートの共用廊下をふたりで進んでいく。人の気配はなく、陰った場所にあるせいか野晒しのアスファルトはところどころ苔むしていた。

「今日の訪問、結構身構えていました」

 流れた髪の毛を耳にかける。

「そうだよね。だって初めてだもん。いくら中途とは言え、新しい職場での勤務は緊張するよね」

 伊倉さんはすぐに理解を示してくれる。赤城さんの気持ちはよく分かる。こんな人がいなくなってしまう不安も、新しく知らない人が来る恐怖も、それらは自然に生まれる感覚だ。そんな穴を果たして自分は埋められるのか。

「あのとき、院長のことを思い出したんです」

「眞鍋院長?」

「はい。わたし、転職活動の面接で、院長に『半年で辞めてしまうかもしれない』って言ったんですよね」

 あはは、とから笑いするわたしと対照的に、彼女は黙っていた。あえてこちらを見ず、穏やかな顔をして耳だけ傾ける。あのときの院長と同じだった。

「大学病院を辞めたあとの職場は、どこも半年しか続かなくて……看護師としての自信をすっかり失くしていたんです。自分すらろくに信じられなかった」

 ここではないと思いながら入職し、そして半年ほどで耐えられなくなり退職を繰り返す。保育園とデイサービスに続き、このクリニックで3件目となるかもしれないと、わたしは院長に話したのだった。

「院長はそんなわたしに、『きっと、針が使えなくとも大丈夫だと思えるようになりますよ』って」

 言ったんですよ、と言うところで、言葉が出なくなった。眼球は薄い膜が張られ、潤みを持った。二度、三度と瞬きをして、言いそびれたものを探す。

「へえ! 院長、そんなこと言ったの!」

 うふふ、と伊倉さんは言葉を弾ませた。2段ほどの階段を降り、公道の歩道へと出る。


「赤城さんに、『信じてもいいかな』と思ってもらいたくて。わたしが一歩踏み出せたのは、院長のお陰なんです」

 それであんなに大きく出てしまいました、と言いながらわたしは頬を掻いた。

 賭けだった。ろくに知らない人にあれこれ自分のことを言い当てられるのは気味が悪いだろう。ただ、あの瞬間、彼の無表情な顔の裏側から『自分を知っていてほしい』という願いが溢れ出ていたように見えた。

「院長は不思議な人だよね。でも、あの人が言いたくなる気持ちもちょっと分かる気がする」

目を丸くするわたしをよそに、彼女はまたにっこりと微笑んだ。


「それにしても……太田さんは困っちゃうなぁ。あの人、わたしの名前もいまだに『イタクラちゃん』だもん」

 わたしは呆れ声で眉をひそめる。伊倉さんは「歳はどうにもらないのかもね」と苦笑いしていた。

 わたしのシフトでは、太田さんに会うことはまずない。本当によかった。出会ってしまえば、「患者情報くらいしっかり覚えてください」と食って掛かるところだった。


 ふと、芦谷さんの顔が浮かぶ。

「そういえば最近、似たようなことがありました。もうひとつのバイト先での話なんですけど。つい言ってしまったんですよね。おばさんのパートさんに、歳だから新しいことを受け入れられないのかも、みたいな」

 わたしの代わりに大慌てする伊倉さんを見るのは面白かった。

「言ってはだめよ!」

「わたしもよくないですけど、向こうも結構口が立つんですよ。『まともな看護師ならこんなところで働く暇ないはずだ』みたいなことを初対面で言うんですよ!」

 わたしは芦谷さんとのやり取りを笑い飛ばした。伊倉さんは、思いのほか強い芦谷さんの口撃に驚きつつ笑っている。今思い返しても、確かに派手な出会いだった。

 しかし今は、ほんの少しだけ後悔してもいいかなと思い始めている。あのとき、わたしは芦谷さんに受け入れてもらおうとは微塵も考えてなかった。急にやってきて、それが効果的だ、あれが合理的だと、これまでの環境を変えていく。そんな状態で、芦谷さんもわたしを受け入れる準備が整うわけがなかった。


「その職場へは今度いつ行くの?」

「今日この後行きますよ。その方はいませんけど」

「一度お話してみたら、案外良い仲になれるんじゃないかな。初対面でそんなにやり合えるなんて、なかなかいないもの!」

 伊倉さんはいつもの朗らかな表情で、わたしの背中を押した。


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