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第13話:猜疑心の向こう側

 3人がじかに座るフローリングの上は、ひんやりとしていた。座布団の用意があるわけでもない。この古びた1Kのアパートで、赤城さんは一人暮らしをしている。

 伊倉さんは正座したまま、赤城さんの手元を見つめていた。

「少し不安になってしまいましたかね」

 やめるといった赤城さんに、伊倉さんは優しい声で話しかける。

「だって伊倉さんじゃない人が来るんでしょ」

 彼は拗ねてるわけではなかった。不機嫌さを前面に押し出した顔面は、時折わたしの方を向く。クレームのような語気に心細さがにじんでいた。

「しばらくはそうなります。でも以前も別の看護師が来たことを覚えていますか。太田さん。大きな体の、パーマかけたショートヘアーの……」

 彼は、うん、と首を縦に振る。伊倉さんが話していたのは、伊倉さんがつわりのときに代理で来ていた常勤の看護師だった。その時点で精神科の勤務歴は1年弱だったが、50代で看護師歴は長いベテランさんだ。伊倉さんは先日の申し送りの時点で、こうなることを予期していた。わたしに赤城さんが他の看護師の受け入れを拒否した件を共有しながら、あらかじめ「拒否されても気にしないで」と念押ししていたのだ。

 患者の受け入れ拒否は珍しい話ではない。女だから、男だから、若いから、愛想がないから、元カノに似ているから、……病院で勤務していたころにもたくさんあった。その度に「看護師は選べません」と言いつつ、近くにいる他の看護師へ変わってもらう。しかし、訪問看護となればそうはいかない。基本的に訪問看護は少人数で回している。病院やクリニックと違ってすぐに代打を用意することはできない。往診とも異なるため、訪問時は看護師がひとりで行く。ふたりで訪問することもあるが、現在のような研修期間を除けば、複数名訪問の指示を医師からもらう必要があった。

「今回も少しだけお試し期間を設けてみませんか」

 伊倉さんは彼の話を、うん、うん、と頷きながら聞く。その合間に交渉する。口数がどんどん減っていく赤城さんだったが、ある時、ぽつりとこぼした。

「あの人、俺のこと覚えてないんだ」

 哀愁に多少のいらだちが混じる。「どのあたりにそう感じましたか」と聞く伊倉さんに、彼は尻込みしつつもゆっくりと話した。

「まず、俺のことをさんって呼ぶ」

「それはだめですね……」

 伊倉さんは分かりやすく頭を抱えながら、赤城さんへ謝罪する。

「それに毎回、『内服薬は飲めてますか』って聞いてくるんだ。もうなくなって何か月も経つのに。毎回自己紹介みたいなことをして、薬が去年の年末に注射に変わったことを伝えて、少し作業所の話をしたら時間になっている。ばかみたいだ」

 それは完全に看護師側の落ち度だった。伊倉さんもそれを分かっていて、再度謝りながら彼の不快な気持ちを聞き取る。

 わたしはそんな彼の反応を見て、とても気が楽になった。

 精神科と言えど、他の科と異なるところばかりではない。病状によっては疑い深くなっていたり、易怒性が高まっていたりいることはあるものの、根本的な部分は同じだ。そう気づいたとき、いやに入っていた肩の力が抜けるのを感じた。

「結局断ることになる。あまりいろんな人と話したくない」

「今はそのお気持ちなんですね」

 赤城さんは、一回でいいと言わない。伊倉さんも無理に催促することもなく、彼の気持ちを受けとるだけに留まった。


 ふと、先日の面接が頭をよぎる。

「また半年で辞めるかもしれない」と言ったわたしに、眞鍋院長はどうしただろうか。


――きっと、針が使えなくとも大丈夫だと思えるようになりますよ。



 わたしは無意識のうちに赤城さんの手を取っていた。

「……赤城洋二さん、56歳、男性。統合失調症の治療のために、月一の注射薬で経過観察中。内服薬はなし。訪問看護は週一回、金曜日。家族は遠方で、現在一人暮らし。食事は、朝は自炊、昼は通所先のお弁当、夜は宅食サービスをご利用。通所先は『なごやかA型就労支援事業所』、サビ管さんは吉野さん」

 カルテの隅々まで見るのは、大学病院勤務だったころの名残だ。しかし、そのときも大事なところだけを拾った。しかしここは訪問看護だ。来週も、再来週も、一か月後も、何年後も、この人の部屋を訪れるのだ。これまでのような拾い読みではいけないと感じていた。

 急に口を開いたわたしに驚いたふたりがこちらを見る。いぶかしむふたつの顔をものともせず、わたしは続けた。

「相談支援員さんは『相談支援すみれ』の川口さん。金銭管理は地域包括の『金銭管理センターそよ風』の横山さん、……」

 つらつらと、赤城さんの支援者を挙げる。訪問看護のカルテには、病気のことだけが載っているわけではなかった。時に家族情報より詳しく載っているのは、病気や障害を抱えた人々が安心して地域で暮らせるようにサポートする福祉の支援者たちだ。

「赤城さん、わたし……」

 一度視線を外し、俯く。口にする責任の重さに怯んでしまった。しかし、受け入れてもらわなければ仕事は始まらない。そして何より、伊倉さんが産休に入ったあと、彼を看る人がいなくなってしまう。


「赤城さんが“信じたい”と思えるような人になりたいと思っています」



 彼は何も言わなかったが、わたしの手が振り払われることはなかった。


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