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第12話:ある部屋

「洋二さーん、こんにちはー!」

 古いアパートの外廊下に、伊倉さんの明るい声が響く。窓は鉄柵がついている。よく見ると窓は10㎝ほど開いていたが、衝立ついたてのようなものがされており部屋の中の様子は分からない。インターホンはすでに押した。数分経つかというころ、遅れて銀のドアノブが回った。

「はい」

 出てきたのは、くたびれたカーキのシャツを着た中年の男性だった。ぎょろりとした目がこちらを向いている。彼が玄関より外に出てくることはなかった。

「洋二さん、こんにちは。まなべ精神科クリニックの伊倉です」

 彼女は、「今日も入って大丈夫ですか」と小さい声で聞いた。彼は瞬きをしなかったが、黒目が揺らいだように見えた。

「いいですよ。少し汚れたかもしれないけど」

「大丈夫ですよ。ありがとうございます」

 そのまま赤城さんは木目柄の古い扉から手を離し、室内に戻ろうとする。閉まりかけた扉を掴み、伊倉さんは部屋に入った。

「今日はね、もうひとり看護師さんを連れてきたんです。一緒にいいですか」

 玄関からは、居間の入口ガラス戸に手をかけている赤城さんが見えた。そこで振り返り、わたしをじっと見ている。彼は一切表情を変えず、「いい」とも「だめだ」とも言わなかった。

「瀬野さんって言うんです。前に、桜谷大学病院で働いていたんですよ。ね! 瀬野さん」

「あ、ええ……」

 赤城さんの視線は伊倉さんへ戻っていった。

 突然聞こえた懐かしい名前に、わたしは驚いて伊倉さんを見た。それが今、一体何だと言うのか。彼女は、赤城さんに向かってにっこりと微笑んだまま玄関先に立っている。

 いくらかの沈黙のあと、赤城さんの固く結ばれていた唇がゆっくりと動き始めた。

「……桜谷大学病院?」

「そう。洋二さんの前の病院!」

 すると、赤城さんは再びわたしを見て言った。

「セイシンシンケイカのハヤシダセンセイ、知ってる?」

 彼は急に驚くほど饒舌じょうぜつになった。伊倉さんによると、赤城さんは、桜谷大学病院の精神神経科に長く通院していたらしい。現在でも調子が悪くなった際の入院先はその病院だ。わたしは彼女がわざと病院の名前を出したのだと悟った。

「はい。少しだけ」

 それは咄嗟とっさについた嘘だった。精神神経科の先生とも多少は関わりがあったが、そう多くはない。それに「ハヤシダ」という名前は聞いたことがなかった。外来で決まった曜日にだけ来ている先生なのかもしれない。しかし、どうしてものがしてはいけないパスに思えて仕方なかった。

「ふーん。……どうぞ」

 赤城さんはそう言うと、自身はガラス戸を開けて奥の部屋に入って行ってしまった。どうにか家に入る許可を得たが、のっけから嘘をついてしまったことに静かに心を痛める。

「洋二さんは警戒心が少し強いから、受け入れに若干苦戦するかも。でも、大学病院の先生にはすごく感謝しているんだよね」

 そう言って、彼女は玄関で靴を脱いだ。靴の向きを整え、俯いていた身体を起こすと、ふう、と大きく息を吐いた。身重の身体には屈む動作も一苦労だ。靴はそのままでいい、と言うべきだった。

 両サイドに物が積まれて狭くなった廊下を進むと、赤城さんは部屋の奥で座って待っていた。フローリングにじかに座っている。彼の定位置なのか、胡坐あぐらをかいてそこから動かない。

 わたしは伊倉さんの一歩後ろについて座った。伊倉さんは、訪問バッグからバイタルセットを取り出しながら赤城さんに声をかけた。

「体調はいかがですか」

「ふつう、です」

 ポーチのファスナーを開け、体温計を彼に手渡す。自分で腋に挟んでもらっているうちに、伊倉さんは彼に逆の手を借りてパルスオキシメーターを装着した。小さな機械はすぐさま値を示す。〈SpO2 98%、PR 82〉――液晶に表示される数字を、手持ちのタブレットでカルテに記入した。その間に、体温計が鳴る音が聞こえた。

「……鳴りました」

「ありがとうございます。36.4℃ですね。よかった」

 伊倉さんは赤城さんから体温計を受け取ると、準備していたアルコール綿で消毒し、ケースに戻した。そして次に使う血圧計を取り出す。

「今日はいいです」

「血圧はやめておきますか」

「はい」

 赤城さんは、なんてことないといった表情をしている。伊倉さんもまた、理由を追及しなかった。

 眠れているか、食事はとれているか、昨日はお風呂に入ったか、そんなことを一通り尋ねたあと、彼女は声のトーンを落とした。

「……昨日はどうでした?」

 出番がなくなってしまった血圧計を訪問バッグにしまいながら、顔だけは赤城さんを見つめていた。

「昨日は、あんまり。疲れがひどくて。あと、あの人が同じ作業場にいたから……」

 彼もまた、声に張りがなくなる。

 赤城さんは週3日、A型の就労支援事業所に通っている。以前は平日すべて行くことができていたが、続く疲労感や他の利用者との折り合いが悪く、現在は週3回に落ち着いていた。

 カルテには、そういったサービスの利用状況・頻度、本人の困りごとなどが細かに書いてある。精神科は経緯を重要視すると、オリエンテーションの際に言われた。何に困っているのか、なぜそれに困っているのか、今までどう向き合ってきたのか、――挙げればきりがないが、文章で記す記録はどこの科よりも多かった。

「でも早退されなかったんですね」

「うん、そう」

「3週間ぶりですよ! 洋二さん、やりましたね!」

 自分のことのように喜ぶ伊倉さんを見て、赤城さんの頬が緩んだ。

 わたしは、一歩引いたところからこのやり取りを眺めていた。そして「精神科っぽい」というふざけた感想を持つ。中年のいい大人が、週3回出勤できただけで褒められる。作業所の一回の勤務時間は5時間と短い。そして、疲れたとか、誰が嫌だとか、そんな子どもじみたことを看護師に言う。

 病気のせいだと理解していても、このやり取りの中に自分が入っていく実感が湧かなかった。馬鹿にしているわけでも、嫌悪しているわけでもない。ただ、ひどく作り物のような感覚が離れなかった。

「瀬野さんにも説明しながら進めていいですか。これから瀬野さんもお邪魔するので」

 場の雰囲気が上を向いたところで、伊倉さんはわたしを話に混ぜようとした。

「伊倉さんが辞めるの?」

「辞めはしませんよ。ちょっとお休みをいただくだけです」

 彼女は丸みの帯びたお腹をさすりながら言った。

「どれくらい?」

「うーん、まだ決めてないんです」

 赤城さんは「ああ」とだけ言って、それが長くなることを感じ取ったようだった。

「じゃあ、戻ってくるまで訪問看護はやめたい」

 赤城さんはそれっきり、閉口してしまった。

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