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第11話:懐かしい申し送り

「――最後は、赤城あかぎ洋二ようじさん、56歳、男性。統合失調症。金曜日の一件目の人ね。もともと幻覚・妄想から近隣トラブルになることが多かったんだけど、月1デポ剤にしてからだいぶ落ち着いている。受診も今はその月1に減ったけど、状態観察のために訪問看護で週1フォロー中。デポ剤始めてから内服は切ったので、訪問での服薬管理はなし。妄想と現実が曖昧な日があるので、ちょっとその辺をお話聞きつつ観察かな」

 デポ剤とは、統合失調症の治療に使う注射薬だ。病院やクリニックで一度注射するだけで、数週間~1か月程度の長い薬効が期待できる。毎日薬を内服することが難しい人に用いられている。

 伊倉さんの申し送りに、わたしは久しぶりに心が湧き立つのを感じた。――この感覚だ。わたしが待ち望んでたのは、この淡々とした情報の文字列の中に端緒を見出すことだった。病気や障がいに悩める人々に、これからわたしは何ができるのかを考える。

 赤城さんはどうして内服をできなかったのか。薬を飲むことをどう感じているのか。飲むつもりがあっても忘れてしまうのか、誰かのサポートがあればできたのか。何か個別性があればあるほど、やりがいに燃えた。

「もう退勤時間かな? じゃあ今日はこの辺で終わりましょう。瀬野さんはもともとバリバリの人だし、何でもできるだろうから、次の金曜日からはもう一緒に回ってもらうね!」

 椅子から立ち上がる伊倉さんは大きなお腹に手を添え、脇のテーブルをぐいっと押す。反動で立ち上がると、肩で軽く息をした。

「全然。もう忘れちゃいましたよ」

 大学病院の救急外来は忙しい。確かにそこに6年もいれば、大方のことは嫌でもテキパキとできるようになる。一挙手一投足にエビデンスを持ち、無意識に無駄な動きを省くようになる。それはその一瞬一瞬が、命に直結していたからだ。

 できなくなったことはひとつだけだった。それなのにすべてを失ってしまった。

 ――いや、それは本当なのか。

 最近のわたしは、その真偽を自身に問えるようになっていた。変わってしまった過去を噛み潰すだけはもう嫌なのだと、この1年をかけ、やっと思えるようになった。

 デイサービスも保育園も働きやすい職場だった。浮遊物のように生きていた時期に、子どもたちやトキさんたちの温かさには力をもらっていた。支えられていたのは自分の方だった。そんな中で、ひとつのピースははっきりとした輪郭を持ち始めた。医療処置をやってこそ、という思いが、どんどん凝り固まってゆくのを感じた。殺伐とした大学病院の救急外来で、新人が技術を身につけることは容易ではない。がむしゃらに、そしてとても苦労して身に付けた技術だ。そんなものを簡単には諦められない。

「謙遜しないで。わたしはずっと精神科一本だったから、外科には憧れるの!」

 伊倉さんは、退勤後にクリニックの裏にあるカフェで少しだけお茶をしないかと誘ってきた。旦那さんが迎えに来るまで、30分ほど時間があるらしい。わたしは快諾し、伊倉さんに続いて退勤を押すと、ともにクリニックを後にした。

 伊倉さんはクリニックを出て裏通りへ入ると、細い道の角をさらに住宅地の方に入っていく。その奥の突き当りに、クラシックな様相の小さい建物があった。

「こんなところに」

 知らなかったです、とつぶやくと、伊倉さんは意気揚々と言った。

「そうでしょ? いつも空いてて穴場なの! クリニックの患者さんにも会ったことない」

 カフェと言うよりは、個人経営のクラシックな喫茶店だった。お店に入り、テーブルにつくと、マスターがおしぼりと年季の入った茶色いカバーのメニューを持ってきた。彼女はカフェインレスのアイスティーを頼んだ。わたしも同じものをお願いすると、数分もせず飲み物はテーブルへ運ばれてきた。

「いつも旦那さん、迎えに来てくれるんですか」

 わたしはガムシロップをアイスティーに注ぎながら彼女に質問をした。

「ううん、今日はたまたま。出張の帰りなの。そのままご飯行こうって話で」

 彼女はお腹のてっぺんに手を置いた。まるで肘置きのようにせり出たお腹は、座ると余計に目立った。

「瀬野さんは精神科、嫌じゃない?」

 急に踏み込んだ質問が飛んできて、わたしはアイスティーを飲むのを止め、ストローから口を離した。

「いやね、外科の人って本当に合わない人多いから」

 そこに嫌味たらしさはない。単純な適正、好みの話らしい。

「合うか合わないかも分かんないレベルです、正直。クリニックの雰囲気とか、やっぱり独特ですし。それに、精神の患者さんとそこまで長いお付き合いをしたこともなくて」

 彼女は、「そうだよね」とだけ言って少しビターな微笑みを見せる。

「伊倉さんはずっと精神科なんですよね。すごいです」

 大雑把な尊敬を向けながら、わたしは再びストローを口に含んだ。

「でも早々に訪問看護に来ちゃったからさ。もう10年目だけど、いまだに心マしたことないもの!」

 あっけらかんとした態度で、未経験の技術を語る。確かに、心臓マッサージをする機会は限られていた。病院と言えど、案外どこにでも転がっている話ではない。うふふ、と笑う彼女からは染みついた汚いものが一切見えなかった。経験がないことを受け入れていた。

「使う技術って、職場によりけりですよ」

 わたしはもう1年は心臓マッサージをしていない。保育園やデイサービスでする機会があったら、逆に大ごとだった。

「まあ、そうなんだけど。でもやっぱり『実際の現場で咄嗟とっさにできないかも』って思うと、ずうっと頭の片隅に不安が残るんだよね」

 彼女は力が抜けたように、語尾を緩めて話した。間延びした言葉はするりと入り込み、わたしの奥底を刺激する。

「分かります! それってどうしたらいいんですかね」

 珍しく食いついたわたしに、彼女はぎょろりと大きな目玉を動かした。

「救外育ちの人が、どんなできないことがあるって? そっちの方が気になる!」

 彼女は信じられないといった表情で、どっと笑った。

 わたしは自分の問題を打ち明けた。業務中に迷惑がかかるようなことになってはいけないし、あわよくば、精神科的な助言をもらえるかもしれないと考えたのだ。

「針刺し業務です。色々あって、急に刺せなくなっちゃって。トラウマを拗らせたみたいで」

 彼女は、急に顔の色を失くした。お腹の上に重ねて置いていた手を握り直す。

「ああ、それは大変だったね。……病院は」

「行ってないです。やっぱり行った方がいいですかね。……でも、生活するには困ってなくて。寝れないこともないし、急にどこかでパニックを起こすこともないんです。針刺し業務《だけ》ができない。しかも、針には全然触れるんです。刺せないだけで」

 彼女は、受診や生活状況を訊ねてきた。わたしは患者になっていた。

「うーん、難しいね。その感じだと、薬は頓服がいるかいらないかだろうし。どちらかと言えば、カウンセリングとかそっちになるのかなぁ」

 彼女は頭をひねりながら話した。

「先生に聞いてみたらいいのに」

「いや、面接のときに言ってあるので知ってはいますが、何となく気まずいですよ。今じゃ、雇っていただいた上司ですし」

 彼女は、確かに、と言ってふたたび眉間にしわを寄せ、天井からぶら下がる傘の発色のいいランプを眺めた。

「触ることができるなら、結構あと一歩な気はするけどねえ」

 彼女の言葉で、心の動きが変わる。治しようがないと塞ぎ込んだわたしはもういなかったが、それでも彼女の言葉は先を照らしていた。

「こういうのはタイミングもあるから。焦ってはいけない。気長に!」

 そうですね、と言葉少なく返すわたしに、彼女は言葉を続けた。

「でも、ここの訪問看護では心配しなくて大丈夫だよ。往診じゃないから採血もないし」

「精神科でも『待つ』ことが大事なの」

 「あとで必ず役に立つから!」と言って終始和やかな雰囲気を醸す彼女は、自分の世界に相手を引き込む力を持っていた。それは彼女のペースに飲まれているとも言えたが、この強力な力が、訪問看護の利用者と1対1でやっていけている秘訣なのかもしれない。

「あと3ヶ月もないけれど、よろしくね」

 彼女はスマホを見て、「着いたみたい」と言った。旦那さんが近くまで迎えに来たようだ。彼女はわたしの分までお会計を済ませると、先にお店を出た。

 伊倉さんを見送ったあと、わたしはひとり駅へ向かう。非常勤の4時間勤務では疲れもしない。特に共有事項やクリニック内での仕事が主だった今日は、これ以上ないほど時間の流れがゆっくりとしていた。不安を覚えるほどに。

 しかし、そんな中でも希望はあった。伊倉さんと話をして、ここで働くことは今の自分にとって有益なのではないかと思えたのだ。

 教科書に書いてあることをよく読んでも、精神科という分野はすんなり落ちてこない。三者三様の展開があり、解決手段がある。王道の治療法が効かないことも珍しくない。1日で解決するものはないし、それでもみな1日も早く今の状況を脱したいと願っている。分かりやすく過程が見える外科とは異なる味がきっとある。

 駅までの道は、アスファルトが濡れて色濃くなっていた。しかしもう雨は止んでいる。傘は必要なくなっていた。

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