そのあとも、バーで香月さんとの話は続いた。
「なんだ、じゃあ転職活動終わっちゃったのか」
ちょうどカフェのバイトが飛んだところだったらしい。残念がる香月さんは、来たばかりのグラスに手を伸ばす。2杯目も同じものだった。オリーブが刺さる金色のピックがグラスの口で揺れる。
あ、いや、と一度は口ごもるものの、わたしにもお酒が入っている。正社員で採用してもらえなかったことをつい話してしまった。肝心の理由は、「苦手な手技があって」とぼやかした。
「バイト探してるなら、うちで働かない? 昼ならフルタイムでも短時間でもどっちでもいい。カフェはとりあえず人が足りない。夜のバーも、まあ、たまに手伝ってはほしいけどマストではないよ」
時給は昼1200円、夜2000円。この辺りでは頭ひとつ抜けていた。
わたしにも生活がある。今日決まった非常勤の仕事では、家賃を払ったらほとんど手元に残らない。カフェのバイトをして、やっと生活が営めるほどだろうか。しかし社会保険料や税金を支払ったら、手取りはもっと少なくなる。訪問看護の業務が終わったあとでも仕事にありつけるのは、願ってもない好条件だった。
「でもわたし、飲食の経験ないんです」
不安があるとすれば、勤務経験がないことだ。看護学生のころは実習と勉強で手一杯で、まともにアルバイトをした経験がなかった。わたしはグラスを両手で握った。結露した水滴で指先が濡れる。
「人間に針刺して血抜いたりしてるくせに? そんなん、全然大丈夫っしょ」
そう言うと、カクテルグラスから金色のピックを引き抜いて、先に刺さっているオリーブに噛り付いた。香月さんはさして気にしていないようだった。酔いが回り、口調がさらに大雑把になる。
「そんな、人を吸血鬼みたいに」
わたしは引っ掛かりを感じつつも、思いがけない言葉に驚きと笑いを隠せなかった。
「軽食は作ってもらうけど、レシピはキッチンに貼ってあるし、飲み物も見ながら作ってくれていいからさ」
不安はあるが、背に腹は代えられない。わたしは、香月さんからの誘いを受けることにした。
バッグからスマホを取り出し、香月さんと連絡先を交換する。
「このあと時間ある? 俺、明日は一日中いないから、店の場所だけ教えときたいんだけど」
「いいですよ。もう行きますか」
わたしはグラスに3㎝ほどだけ残っていたお酒を何回かに分け、急いで飲み切る。カウンターの端にあるレジへ向かい、お金を払おうとすると、香月さんがすでに払っていた。
「すみません、ご馳走になってしまって」
「新しいバイトちゃんだからね。うち、人がいなくて歓迎会もないから」
そう言って、香月さんはバーのドアに手をかけた。「ありがとうございました」というバーテンダーの男性に、小さく手を上げて指先をなびかせる。わたしはその後ろにつく。
「ご馳走さまでした」
「またお待ちしております」
わたしは、香月さんとともにバーをあとにした。
外はすっかり夜になっていて、街灯が煌々とついていた。人がまばらだった17時台とは違い、あちらこちらで人だかりができている。わたしは香月さんとともにその隙間を縫って歩く。
「バーは何時からやってるんですか」
「18時だよ。バーは昼より席数を減らしてるから、スタッフはひとりかふたりで回してる。俺かもう一人の子と入る形になるかな」
夜風が酔いを心地よく覚ます。奥の通りを右に曲がると、一際ムーディーな雰囲気が漂う通りに出た。立ち並ぶのはバーまたはバー&レストランで、歩道のすぐ脇には数席ほどテラス席がある店も多い。背の低い生垣で区切られたテーブルにはすでに何人か人が座り、ワインと食事を嗜んでいる。
「今日はひとりなんですか」
「そう。アンに任せてる」
先ほどバーテンダーの男性との会話にも出てきた、香月さんの言う「アン」とは一体どんな人なんだろうか。お店の名前も奥さんが決めたと言っていたし、やはり奥さんの名前なのだろうか。
道なりにまっすぐ歩いていくと、香月さんは下に降りる階段の前で止まった。黒地のスタンド看板には、「Toute La Journée」と確かに書いてある。どうやらお店は半地下になっているようだった。通りに面した窓はあるものの、地上から40㎝ほどがガラス張りになっているだけで、外を歩く人たちにとっては足元だ。店内の様子を伺うには適さない。
香月さんは緩くカーブした螺旋階段を下りていく。わたしもそのあとを降りていくと、ヴィンテージ感漂う金属でできたドアが現れた。中が見えないせいか、少々威圧感を感じる。
「ここ」
そう言って、香月さんはドアを開けた。バンブーチャイムの乾いた音が店内に響く。青みがかったグレーの内装が飛び込んできた。カウンターを囲む座席は、シルバーとブルーのツートーンでお淑やかにまとまる。そしてカウンターの隅には、大きな透明の花瓶にドライフラワーが溢れんばかりに飾られていた。紫、青、水色と同系色の花々に、時折さし色のベビーピンクの薔薇が何本か差し込まれている。
「あれ、忘れ物ですか」
カウンターの奥に若い男性が立っていた。長身で細身の彼は、シェイカーを開け、お酒をゆっくりとカクテルグラスへ注ぐところだ。ゆるくかかったパーマがくっきりとした横顔の輪郭をさらに浮き立たせる。どこか東南アジアの香りがした。
彼は香月さんの背後にわたしを見つけると、手元を動かしたまま「いらっしゃいませ」と付け加えた。先ほどの店のバーテンダーとは正反対の愛想のなさだ。その目は、わたしが何者なのか疑っていた。