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第4話:マティーニのおしゃべり

「何してる人? こんな時間にその格好って」

 香月さんは手元のカクテルに手を伸ばし、無色透明の液体を口元から流し込んだ。わたしは狼狽えて言葉に詰まる。この繁華街はビジネス街から離れている。スーツの人たちがこの通りやってくるのはもう少しあとの時間帯だろう。

「看護師です。今はちょうど面接の帰りで……」

 わたしはスーツの理由を伝えた。見ず知らずの人に教える義理などなかったが、ここはバーだ。後腐れない一夜を楽しむべきだとわたしの直感が言う。

「看護師さんかあ。いいねえ、何科?」

「精神科です」

 フランクと言うのか、遠慮がないと言うのか分からないが、彼は話を続けた。半年ぶりに来たスーツはまだ身体に馴染まない。入職が決まっただけの職場を口にするのは、どこか心がざわついた。

「面白いね。精神科だと、やっぱり人の気持ちが分かったりするわけ?」

「分かるわけないじゃないですか。それに、勤務は来週からで……」

 まだ1杯目のはずだが、やたらに舌の回りがいい。彼のカクテルグラスは2/3ほどなくなり、グラスに沈んでいたオリーブが顔を出していた。

「でもさあ、なんかあるじゃん? こういう人にはこうしとけ、みたいな。結構興味あるの、俺」

 香月さんは、いやにわたしの話を聞きたがった。「別に他の科の話でもいいんだけどさ」と言って、厄介な患者の話を求める。

「香月さんさんはやっぱり接客業なんですか」

「ああ、そうだよ。お店やってる」

 香月さんは、今いる店からさらに奥へ行った通りにあるカフェ&バー「Toute La Journée」のオーナー兼経営者をしていた。ひとつのテナントが昼はカフェになり、夜はバーに変貌を遂げる。

「トット……えーっと、ごめんなさい、何でしたっけ」

「トゥット・ラ・ジュルネ。フランス語で『一日中』って意味。かみさんが付けたの」

 外国語のおしゃれな名前はどうしても覚えられない。英語でギリギリ、その他の国の言葉はわたしには難しすぎる。音を聞いただけでは、どこで単語を区切っていいのかも分からなかった。

「お店の愛称とかあるんですか」

 ニックネーム作戦だ。これは、海外からの患者さんから教わったものだった。お国柄、フルネームが比較的長い人は、名前の一部あるいは名前をもじったニックネームを持っている。そうは言っても病院ではフルネームで患者を確認する。結局使うことはなかったが、その手法はわたしの生活の中で密かに生きている。

 香月さんはけろっとして言った。

「あるよ。トットちゃん」

 嘘か本当かわからない話に、わたしは腹の奥底から笑いがこみあげた。フランス語の気品溢れる風貌はどこへ行ってしまったのか。それに、「トットちゃん」はわたしが通った小学校で飼っていた鶏の名前だ。毎朝、生き物係の生徒は鶏が卵を産んだか確認しに行く。もみ殻や落ち葉の上で何羽か一緒に飼っていたが、薄茶色のトットちゃんはいつも一番にこちらに気づき、じーっと見つめるのだった。そんな古い情景にまで到達すると、次第に涙まで出てきて息をすることもままならない。

 こんなに今時なカフェ&バーの愛称がまさか鶏だなんて。

 アルコールが入ってしまえば、なんだって面白かった。

「お待たせいたしました」

 バーテンダーの男性が目の前にやってきて、カウンターからフレンチトーストを差し出した。もうそんなに時間が経ったのかと思いながら、わたしは自分の目の前にスペースを作る。こつんと置かれた白い皿の上で、くたくたに卵液が浸みたバケットがしっとりと横たわっていた。わたしの目の高さでメープルシロップがとろりと垂らされる。バーテンダーの男性は、「あとはお好みでどうぞ」と言って皿の脇にシロップポットを置いた。

 わたしは香月さんさんの前にフレンチトーストが置かれたのを確認してから、「いただきます」と言ってナイフとフォークを握った。パンを切り分けて口元へ運ぶ。ふっくらと焼き上げられた生地にムラのない素朴な甘さが閉じ込められていた。

「これ、おいひいな!」

 先に声を発したのは香月さんだった。口の中のものをごくりと飲み込むと、空っぽになった口で「こんなメニューあるなら教えてよ」と再び駄々をこねた。

「でさ、看護師に楯突くやついるでしょ。怒鳴ってくるやつとかどうしてんの」

 香月さんはフレンチトーストを頬張りながら、こちらを振り返り、話を続けた。

「複数名で対応しますよ。男性がいれば、行ってもらいますし。どんなに失礼なこと言われても、一緒になって声を荒げたりはしません。余計、向こうが興奮するので」

 すべてにマニュアルがある。逆に言えば、それ以外の対応はできない。トラブル時こそマニュアル通りに動かなければ、どこで足を取られるか分からない。

「ムカつかないの」

「まあ、患者だと思えば」

 病院に来る人はどこかかしら調子が悪い。身体とこころは相関性があり、身体の調子が悪ければ、気分が落ち込んだり、些細なことで気が立ったりする。それに、精神疾患の持病を抱えた人が身体疾患で受診することも珍しくない。その場合は持病悪化の可能性も考慮して対応しなければならない。一見、面倒に思えるこの過程だが、人の持つ背景を理解することは、自分自身を落ち着かせる魔法でもあった。

「じゃあ、一番衝撃的だった患者は」

 香月さんは1杯目を飲み干してから、こちらに視線を向けた。にやりと笑い、酒の肴を期待している。わたしは、「うーん……」と唸りながら記憶の隅々まで探し回ったあと、新人のときにあった話をすることにした。

「……アレに、シリコンボールをいくつも入れているおじいさんですかね」

 香月さんはフォークを持つ左手を止め、ぎょっとした顔でこちらを見た。「アレって、アレ?」と聞くので、わたしはその顔を真正面から捕らえて、「アレです」と力強く返した。

「わたし、知らなくて。何か皮膚トラブルでも起こしたんだと思って騒いじゃったんです」

 新人時代のとても衝撃的で、一番恥ずかしい思い出だ。香月さんは大笑いして、「それで、それで」と話の続きを急かした。

「新人だったので、すぐに先輩看護師を呼びました。それで、ふたりしてまじまじアレを見て。でも、何となく先輩の歯切れが悪くって。そのまま先輩は、黙っておじいさんのおむつを閉じたんです」

「20やそこらじゃ知らないよなあ」

 理解を示すふりをして、香月さんはクスクスとした笑いをしばらく止められなかった。わたしも釣られて顔が綻ぶ。もう6~7年ほど昔の話だ。教科書に載っていない、既往歴にも載らない、トラップのような出来事だった。どこかで話すことはないと思っていた話だったが、香月さんは、人に「話してもいいかな」と思わせるのが上手かった。

「結局、そのの用途を教えてくれたのは看護助手のママさんでした。今思い返しても、とてもシンプルで分かりやすい説明で……」

 どんな顔をすればいいのか分からなくなり、眉を下げる。わたしは逃げるように看護助手のママさんを思い出していた。彼女はいわゆるヤンママだった。明るめの髪色で、顔立ちがはっきりした綺麗な人だった。彼女のさっぱりとした語り口は、変ないやらしさを微塵も感じさせない。

 しかし、社会勉強を終えたわたしは、しばらく先輩看護師と気まずくなってしまった。

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