部屋の綺麗さはこころの状態を表す。忙しければモップを丸く拭くのが人間というものだ。
フローリングの上に髪の毛1本落ちることすら許せなかった人が、床に物を置き始める。それがコンビニの袋やペットボトルがテーブルの横に佇むようになり、床は次第に遠くなってゆく。
想像には難くない。どこにでもある話だ。大学病院の救急外来に務めていたころも、そうやって運ばれてくる人はいたし、家族の話を聞くこともあった。髪が脂ぎっていることも、衣服が今日、明日付いた汚れでないことも、いまさら驚くことではなかった。
しかし、その人たちが生きている部屋に入るというのは、確かに少々身構えてしまう。
伊倉さんは、多くの人が精神科訪問看護を去る理由について話を続けた。
「あとは、利用者さんと1対1に慣れなかったって話も聞くかなぁ」
彼女は腰に手を当てて、天井を仰ぐ。立ち話などこちらの気が引けるだけだ。わたしは彼女に受付前に並んでいる待合の長椅子を勧めながら言った。
「それって看護師としてどうなんですかね。患者さんと対峙するのが苦手って」
我ながらキツイ性格をしている。間違っていないと確信があるものほど、はっきりと声は乗った。
「そうね。でも家にお邪魔させてもらっている立場だから、病院と違う部分はあるよ」
伊倉さんはゆっくりと長椅子に腰かけると、一息ついている間に言葉を選んでいるようだった。伸ばされた語尾に彼女の微かな迷いが浮かぶ。
わたしは、「お邪魔させてもらっている」という気持ちが謙遜にしか取れなかった。病状観察や内服指導という大義名分があって訪問しているにも関わらず、まるでアポなし営業マンのように語られる。それが看護師のスタンスとして果たして正解なのだろうか。疑問だけでない気持ちまでも湧いてくる。自分自身が一番厄介だった。
「訪問看護は基本的に同じ曜日、同じ時間に、同じお宅へ行くから、嫌な人がいても逃げられないのよね。精神科は若い人が多いし」
学校の時間割のように規則正しく組まれた訪問予定は、病棟や外来とは決定的に異なる部分だった。患者との付き合いは、外来であれば数分から数時間、病棟でも数日から数週間であることが多い。どれほど厄介な患者とも、必ず終わりはやってくる。一方で、訪問看護、特に精神科の訪問看護においては、そうすんなり行く話ではなかった。
そして、医療職が言う「若い」は、大抵「高齢者ではない」くらいの意味しかない。50代、ときには60前半でも、わたしたちはうっかり「若い」と言ってしまう。
伊倉さんは、寿命と呼ぶ「さよなら」の数を言っているような気がして、わたしはふと疑問を感じた。
「死なないんですか」
精神科の患者さんは、希死念慮と戦っていることが多い。自宅は病院のように常に誰かがいるわけでもない。荷物検査もないし、買い物も自由に行ける。刃物も紐も、薬剤も、何もかもが簡単に準備できてしまう。そして
「亡くなることもあるよ。でも、多くはない。そうなる前に対処するのが、わたしたちの役割だからね。緊急コールは24時間受けているし、緊急訪問で行くこともある。それに、地域に帰ってきたと言っても、入院の選択肢もあるから」
そうして彼女は、緊急訪問や訪問日以外の電話の説明をした。状態確認も重要な仕事のひとつだが、一番はその人の話を聴くことだと繰り返した。
傾聴のその先に何があるのか、わたしのイメージはまだぼんやりとしている。学生時代からケアの基本とされてきた「話を聴く」という技術は、中堅になった今でも手ごたえのない難しいものだった。
きっと、彼女が大切そうに言う意味をわたしは半分も理解できていない。
「とりあえず水・金訪問の人たちを覚えてくれればいいよ! 全体の利用者さんはもっといるけど、緊急コールを回しているのは別の常勤さんだし。わたしのポジション業務としては、記録に残して、何かあればクリニックにいる眞鍋先生に状態を伝えてくれれば大丈夫!」
訪問看護は直行・直帰のスタッフばかりだった。全体カンファレンスは大層なことがなければ行われない。その代わり、貸与されたタブレットを使って、スタッフ間が日々情報共有を密にしていた。
それに、利用者さんたちの主治医は漏れなく眞鍋院長だ。大きな病院にかかっている人もいるが、基本は眞鍋院長が診ている。内服調整やカウンセリングなどはクリニックで対応できた。そして必要に応じ、大きな病院へ入院を調整する流れになっていた。
伊倉さんは、「ほかのスタッフも稼働してるけど、この短時間シフトだと会うこともないと思うから」と言って、貸与のスマホを手渡した。アドレス帳にはクリニックの受付と院長直通、そして常勤さんと思われる人たちの電話番号が入っていた。
話が終わると、わたしは検査室の奥にある部屋へ通された。天井から垂れ下がるパーテーションで簡易的に作られた半個室の部屋は、テーブルと椅子、一人暮らし用の背の低い冷蔵庫と小さい流しが備え付けられている。ドアはない。全体的に白っぽい、色味のない部屋だったが、女性ものの小物があちらこちらに散見された。
「ここで記録してもいいし、休憩に使っても大丈夫。冷蔵庫も好きに使って。人数が少ないから何となくみんな誰のか分かってるけど、一応名前書いて入れてね」
彼女は冷蔵庫を開る。「あの100円プリンは眞鍋先生のね」と、右奥に積まれている小ぶりのプリンを指さして笑った。