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第9話:畏怖が作る戯言

 今日はクリニックへの初出勤の日だ。

 最近はずっと雨だ。今日も玄関を出ると、わたしを待ち受けていたように雨が降り出す。梅雨には早いが、少し肌寒い雨だった。

 大きめの雨粒は辺りを隠す。出勤途中の電車から見える街並みは白く、もやがかっていて、奥まで見渡すことはできない。

 あれから何度かカフェタイムのシフトに入ったが、芦谷さんとはぎくしゃくしたままだ。定休日を挟み、火曜日は1日中一緒だった。業務に必要な会話だけをし、あとは各々個人で動く。お客さんはお昼時に入った5名だけだった。先週練習した料理の腕はほとんど振るわれることなく、明日の準備と片づけ、それが終わるとペンを持って集客の工夫を考えながらコピー用紙とにらめっこして過ごした。

 ふと、学生時代の就職活動真っ只中のころに聞いた言葉を思い出した。

――新人に、を期待する職場はやめておけ。

 それは社内で変えられないまま来た問題を、何も分からない新人に投げる体のいいキャッチフレーズだ。言い方ひとつで、こうも印象は変わる。後悔とは言わないまでも、わたしは安易にアルバイト先を決めてしまったツケに得も言われぬ気持ちになっていた。

 そうは言っても香月さんは人がいいし、誰からも好かれている。彼の大雑把でさっぱりした性格が、下につくスタッフを縛らないからか。自由に、ある意味とても自分らしく。みな働いている。ただ、店の存続を考えたとき、バーは心配ないとしても、カフェが赤字なのは火を見るより明らかだ。どうして悠長にしていられるのか、どうしてカフェを開き続けるのか。わたしはどうしようもなく知りたくなった。だが、彼はのらりくらりと交わし、理由を語らない。わたしに教えてくれるのは、お客を増やしていきたいという願いだけだった。

 電車を降り、傘を差して歩く。短い距離だが、雨粒が想像より大きかった。

 わたしは職員用の裏口からクリニックへ入る。「まなべ精神科クリニック」と書かれた入口のドアをゆっくりと開けた。靴箱にはもう2足の靴がある。男性ものと、女性もの。おそらく受付の佐藤さんと、院長だろう。

 ナースシューズに履き替えすだれをくぐる。誰もいない検査室を横切り、わたしは受付へ向かった。

「おはようございます。本日よりよろしくお願いします」

「どうぞよろしくお願いします。書類の方、お預かりしますね」

 佐藤さんに入職関係の書類を渡す。クリアファイルの口をずらして中身を確認する彼女に、わたしは尋ねた。

「訪問看護担当の方は、今日何時ごろご出勤予定ですか」

 わたしはまだ全体のシフトをもらっていなかったため、引き継ぎを受ける看護師の動きを知らなかった。指定の時間にクリニックへ出勤し、受付の佐藤さんに声をかけるよう言われただけだった。

「瀬野さんが引き継ぐ看護師さんは、伊倉さんという方なんですけれども、もう少しでいらっしゃると思うんですよね」

 佐藤さんは壁に掛けられた丸時計を見ていった。確かにまだ指定の時間より早い。どうやら前残業はないらしい。クリニックのよさを身に染みて感じる。

「オンライン研修は受けていただけましたかね」

「はい。修了証書のコピーを一番後ろに入れてあります」

 彼女は再びクリアファイルをぱらぱらと確認すると、「あ!」と小さく声を上げた。

「ありました。助かります」

 精神科訪問看護は、経験がなければそのままでは働けない。未経験者はまとまった量の講義を受ける必要があった。講義は疾患の理解や保険制度の話だけでなく、精神障がい者が置かれてきた歴史なども改めて学ぶことになっている。パンデミックの影響でオンライン化が進んだが、看護学生に戻ったかのように机に噛り付いて長時間の研修動画を見る羽目になった。それをどうにかして、勤務が始まる前に済ませる。修了証書をもらうと、やっと精神科訪問看護に従事するためのスタートラインに立つことができた。

「おはようございます!」

 活気ある声で受付まで顔を出したのは、始業2分前に到着した伊倉さんだった。お腹はだいぶ前にせり出ており、もう生まれてしまうのではないかと思うほどだった。

「瀬野です」

 わたしは深めに頭を下げた。

 お腹が大きい中で働くのはとても大変なことだ。それなのに未経験の人間を指導までして、心労が胎児へ行ってしまったらと考えるだけで頭が痛かった。ストレスで彼女の血管が収縮し、胎児へ送る酸素が足りない、なんてことを考えるだけで怖い。わたしの不出来によって彼女が気苦労を感じ、お腹が張って胎児が早く出てきてしまうなんてことも絶対にあってはならない。大袈裟で非現実的なことだというのは分かっている。しかし、生命の神秘は畏怖になりわたしを襲う。

 出来るだけ穏便に、そして手のかからない新人であろうとした。芦谷さんのようなことになるのは何が何でも避けなければならない。だって、赤ちゃんにとって彼女の身体の環境が命を繋ぐすべてなのだから。

「伊倉です。次の方が見つかって本当によかった! 心配だったんですよ。訪問看護ってあんまり人気がないから。特に精神科は」

 重たいお腹を意に返さず豪快に笑う彼女に、わたしはぴたりと固まった。ここでも職場選びに失敗してしまったのか。大きな不安に苛まれる。わたしは「どうしてなんでしょう」と恐る恐る、安心しきった笑顔に向かって聞いた。

「家がね、汚いことが多いから。特に精神科の訪問看護はね。それに耐えられなくなって、みんな病院に戻っちゃうの」

 彼女の笑いは見ていて気持ちがいい。新人のころにお世話になった看護助手のヤンママにどこか似ていた。

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