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第8話:半地下の店

 ロコモコ丼とサンドイッチを卒なく作り終えたわたしは、最難関のパンケーキを焼くところまでたどり着いた。芦谷さんは素っ気なかったが、必要なことを教えてくれる人だった。

「1枚目は試し焼き。油の馴染みが悪いの。2枚目以降を提供用にして」

 彼女はフライパンに油を馴染ませ、1枚目の生地を流しいれた。1分半ほどでひっくり返すと、薄黄色の部分とまだらに焼き色がついた薄茶色の部分とに分かれてしまった。その焼きムラに動じることなく、芦谷さんは裏面も火を通してから白い皿にパンケーキを移した。そして油を引きなおす。1枚目のパンケーキからは、見栄えこそやや悪いものの、焼き立てのいい匂いがしている。換気扇を回すのがもったいないと思うほどだ。

 その一瞬も、芦谷さんが手を止めることはなかった。彼女はコンロからフライパンを引き上げ、あらかじめ広げておいた濡らしタオルの上に数秒置く。熱されたフライパンとタオルの接地面でジッと音がした。そして再びフライパンをコンロに戻し、おたまで2枚目の生地を流しいれる。焼く時間は変わらない。彼女はフライ返しでそっと裏を覗くと、そのままパンケーキをひっくり返した。やっと上を向いたパンケーキは、つやのある黄金色をしていた。

「まるで別物ですね」

「1枚目は割り切っていいから。あと濡れタオルを忘れないで」

 大きめの真っ白な皿にするりと移されたパンケーキからは、ほのかの湯気が上がった。目を凝らさないと分からないほどの白い煙は、焼き立てのいい香りを鼻先まで連れてくる。

 わたしはカウンターの下の棚から新しいフライパンを取り出した。芦谷さんのデモンストレーションを思い返しながら、一からパンケーキを焼いていく。わたしはコンロの横に広げられていたタオルを持ち、もう一度濡らして準備した。

 油を引き、試し焼きをする。火加減は目で覚えた。焼きムラのある1枚目のパンケーキを白い皿に除け、2枚目に取り掛かる。濡れタオルで温度を均一にした。あとは時間を測り、待つだけだ。借りたストップウォッチを眺めていると、黙ってみていた芦谷さんが口を開いた。

「ちょっと形がいびつ。もう少し高いところから生地を落として」

 わたしはぎょっとして肩を丸める。先ほどのデモンストレーションを振り返り、芦谷さんがおたまですくった生地を30㎝ほどの高さからフライパンに落としていたことを思い出す。

 ――ピピッ、ピピッ。

 ストップウォッチのけたたましい音が手元で鳴り響いた。わたしは急いで音を止め、フライ返しを持つ。ひょいっとパンケーキをひっくり返すと、芦谷さんの色には劣るものの焼きムラのないパンケーキが焼けた。

「焼き方は、まあ、いいわ」

「上出来じゃん!」

 何枚か立て続けに焼いて練習すると、安定して丸い焼きムラのないパンケーキを焼くことができるようになった。芦屋さんの声を聞きつけやってきた、香月さんのGOサインも出て、来週からの業務は何とかなりそうだった。

「じゃあ出来上がったプレートは昼にでも食べちゃって。俺、夜もあるからそろそろ行くね」

 12時を少し過ぎたころ、香月はカウンターで帰り支度を始めた。革のハンドバッグを持ち、カウンターに置いていたスマホを手にとる。

「ああ、そうだ、瀬野ちゃん。集客についてちょっと考えといてほしいな。客入りはご覧の通りだから、どうやったらお客さんが入るようになるか。若者の視点がほしい」

 それはこの前バーで話していたことだった。確かにこのカフェは人が入らない。もう開店時間は過ぎているはずなのに、ドアベルの音は一向に聞こえないのだ。

「悪かったですね」

 透かさず芦谷さんが香月さんに噛みついた。

「そう言うんじゃないでしょ、和子さん。僕もおじさんだからさぁ。やっぱり、ゆくゆくは若い子に来てほしいじゃないですか」

「うるさいから好きじゃないです。写真ばかりパシャパシャって」

「今はそういう流行りなんですよ。みんな気軽に思い出を写真に残せるって、素敵じゃないですか。羨ましいですよ。俺なんてすぐ忘れちゃうから」

 香月さんは、終始、芦谷さんのご機嫌取りだった。芦谷さんは口を尖らせている。これがスタンダードなのか、それとも今日が悪い方なのか、今日会ったばかりのわたしには見当もつかなかった。

「この入りづらさを何とかしたいですよね。半地下で、ドアにも窓がないから中の様子が伝わらないし」

「そうなんだよね」

 香月さんは窓を見上げた。釣られるようにわたしも視線を上げると、窓の外には雑草の隙間に外の道行く人々の足元が見える。人の目線にないことで、店の存在も気付かれにくい。

「外の立て看板に、QRコードを付けた方がいいと思います。店名はおしゃれなんですけど、フランス語はなかなかキーボードで打ち込みにくいし、お店に入る前にSNSをチェックできたら、何となく雰囲気も伝わると思うんです」

「QRコードか。調べてみるよ」

 わたしは、香月さんにQRコードの作り方を教えた。別に「教えた」というほどのことでもない。URLをQRコードに変換してくれるサイトの存在を伝えただけだ。香月さんはこんなにも簡単にQRコードが作れることを知らず、スマホを覗きながらいたく感嘆していた。

「そのためにはまず、投稿もちゃんとしていかないと。この前見たら、カフェタイムの投稿は1年前が最後です。あれじゃ、来るも何も……」

 わたしはアンにお店のSNSを聞いた日のことを思い出していた。投稿を遡っても遡っても、載っているのはバータイムに提供するカクテルばかりだった。

「悪かったわね。でもね、急に来てあれこれ言われたって困るのよ」

 芦谷さんの不満の矛先がわたしに向いた。

「ここはもう立地が悪いの。カフェをやるような場所じゃないんだから、今更何をやったって。人を呼びたいなら、もっと街場に出さなきゃ」

「店の位置はどうにもならないんでね。そこは勘弁してください。だからこそ、今新しい叡智に頼りたいんすよ、和子さん」

「雅也さん、あなた昔から人を見る目がないからね。この前の子だって、あんな髪の毛を緑にして、これ見よがしに大きなヘットホンつけて。見たら分かるじゃない」

「だめっすよ、和子さん。もうね、そういうこと」

 香月さんの制止にも力が入る。しかし言葉が届くことはなかった。

「ちょっと怒られたらすぐ来なくなって。それで今度は看護師さん? どうせまともに働いてないんでしょ。ちゃんと働いていたら、こんなところでアルバイトする時間なんてないと思うわ」

「和子さん!」

 張り上げた香月さんの声で、芦谷さんの口撃はやっと止まる。彼女の言葉は、わたしには届かなかった。薄い膜が張られたかのように、身体の感覚が鈍くなっていた。

「ごめんね、瀬野ちゃん。ほんと、うちのスタッフはみんな口が悪くて困っちゃうよ。アンも和子さんも」

 苦笑いも板につく。彼の立場を不憫に思った。

 しかし、わたしが彼女に何をしたというのか。お店のことを考えて、戦略的な意見を述べただけだ。

「大丈夫です。歳を取ると、変化を受け入れられなくなりますもんね。無理ないですよ」

「あら、失礼じゃない? この子」

 びくびくしながらパンケーキを焼いていたのが嘘のように、動じなくなっていた。わたしが怯えていたのは、良識ある人に迷惑をかけることだ。自分に、親切に手をかけてくれた人をがっかりされることだ。噛みついてきた犬に反応できるのは当然のことだった。そうでなければ、救急外来なんて波の高い現場ではやっていけない。

「ちょっとみんな! ストップ、ストップ!」

 思わぬ展開に、香月さんはひとり慌てていた。

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