「Toute La Journée」は、現在3名のスタッフで回している。香月さんの話によれば、スタッフが辞めてしまい、今は香月さんとアンを除くと昼だけのスタッフが1人のみらしい。
「どんどん座席数減らしてさ。さっさとバーだけにしちゃえばいいのに」
「お前、今日言うねえ」
けらけらと笑うふたりを前に、わたしは会話に入れずにいた。桜のモヒートをまた一口味わう。
「だってあのおばさん、全然やる気ないし」
「おばさんって言うなよ。だから嫌われるんだ」
アンは右の口角を大きく引いて、悪びれもせずお酒のグラスに手を伸ばした。彼の喉ぼとけが上下するのを眺めながら、ワンテンポ遅れてわたしは口を開いた。
「なんでそこまでしてカフェも開けるんですか。バーだけなら、問題なく回せるんじゃないですか」
「あれ、瀬野ちゃんまでそっち派なの。手厳しいなあ」
香月は苦笑いしてバーの天井を仰いだ。アンは飲み干したグラスをシンクに置き、別のお酒を作り始めていた。取ってきたリキュールの瓶は濃い紫色をしていた。
「単純な疑問です。バーだって、ふたりで余裕ってことではないじゃないですか。どちらかが調子を崩したら、それこそすぐ回らなくなる。その状態で、昼まで開けるのがなぜなのかなって」
唸りながら頬を掻く香月さんの横で、アンがスマホを構えていた。カウンターに置かれたインテリアランプの元で、彼は作ったばかりのカクテルを撮影している。視線を感じたのか、アンはこちらを見て言った。
「これはブルームーン、
わたしはアンに教えられ、自分のスマホでこのお店のSNSを探す。QRコードがないため、自分のスマホでそのページを検索する必要があった。フランス語の店名は、やや検索のハードル高い。まず、この「e」の上の点はどうやって打てばいいのか。名前も分からない記号に、わたしはスマホのキーボードの設定をいじる。どうやらキーボードの言語を追加できるようだ。しかしその途中、香月がフランス語で『一日中』と言う意味を持つと話していたことを思い出した。検索窓に「フランス語 一日中」と打ち、願うように検索ボタンを押すと、一発で「Toute La Journée」と表示された。わたしは心の中でガッツポーズをする。そんな顔はつゆにも見せず、そっとコピー&ペーストでお店のSNSを検索した。
――金林市のカフェ&バーです。日・月定休。アルバイト募集中です。
何とも淡泊な説明文がSNSページの上部に表示される。書いたのは、何となく香月さんのような気がした。
「それです。もう俺しか更新していなくて。瀬野さん、昼は頼みますよ」
アンの言う通り、SNSの更新は夜の鮮やかなカクテルの写真が大半を占めていた。何度スクロールしても、カクテルの写真で埋め尽くされている。興味本位でどんどん遡っていくと、カフェタイムに投稿されたオレンジジュースの写真があったのは、1年以上前だった。
同じ週の土曜日、わたしは香月さんに指定された時間に「Toute La Journée」へ出向いた。今日はカフェタイムの業務説明と、もうひとりのスタッフとの顔合わせの日だった。わたしは螺旋階段を下り、店のドアを開けた。
「おー! おはよう。道迷わなかった?」
「おはようございます。道は大丈夫でした。今日からよろしくお願いします」
香月さんはすでにカウンターの中で作業をしていた。そのすぐ前のテーブル席には、50代ほどの女性が座っている。キッチンタオルを畳みながら、淡泊な目つきでこちらを見ていた。
「瀬野と申します。お世話になります」
厄介な雰囲気を感じ取り、わたしは香月さんからの紹介を待たず彼女に挨拶した。
「芦谷です。よろしく」
そこには貼り付けた笑顔すらなく、言葉も少なげだ。歓迎されていないことが伝わってきて、わたしは早々に気が滅入った。
香月さんが遅れて彼女をわたしに紹介した。
「ああ、こちらは
明るい声色の香月さんとは対照的に、芦谷さんは表情ひとつ変えずに話をする。
「他に聞ける人がいないでしょう。また辞めてしまいましたからね」
彼女は視線を下に逸らしたまま、キッチンタオルの端を揃える。
「あはは、困ったもんですよ。それでね、和子さん、こちらが瀬野夏希さんね。別の曜日は看護師さんしてるんです。でもカフェタイムの主戦力だから、ふたりで力合わせて頑張ってほしいな」
客のいない店内は音楽も流していないせいか、やけに声が反響する。笑っているのは香月さんだけだ。あまりにも不穏なスタートに、わたしは気が遠くなった。
途中だった入職の手続きを終えると、わたしは香月さんから本格的に業務の説明を受けた。鍵の場所や、メニューの紹介、食材のありかと盛り付けなどについて話を聞く。
「食事系は3種類ね。サンドイッチ、パンケーキ、ロコモコ丼。それぞれレシピと盛り付けの写真はカウンターの内側に貼ってあるから。今日は試しに一通り作ってみて。あと30分くらいで店開けるけど、気にせずやってて大丈夫だから」
わたしはカウンターの内側に入り、張り付けられたレシピを探した。上部をテープで貼り付けられただけの宙ぶらりんな紙の在りかはすぐに分かった。少々古くなった紙に記されたレシピをまじまじと見る。パンケーキ以外は、レンジでの温めと簡単な盛り付けで出来上がる。盛り付けさえ覚えてしまえば、問題はなさそうだった。
「すぐにひとりでできる必要ないから。しばらくは和子さんと一緒に作ってもらって。飲み物の方は、基本グラスに注ぐだけだから問題ないと思うし」
「分かりました。ありがとうございます」
ちらりと芦谷さんを見る。彼女は座ったままだった。キッチンタオルはあと1枚で畳み終わる。「よろしくお願いします」と言うわたしの声を聞いて、表情の硬い芦谷さんはようやく重い腰を上げた。