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第6話:アン

 すでに2組の先客がおり、10名も入らないであろう店内は埋まり始めていた。

「今度入るバイトの瀬野ちゃん」

 香月さんは客たちに軽く挨拶をしたのち、カウンターの中の男性にわたしを紹介した。

「なんだ、俺てっきり」

「違うって」

 香月さんは、サンドイッチを作っている途中の彼を肘で小突いた。彼もまた、視線はくれてやらないまでも、トマトをパンに乗せながら笑っている。ふたりの親しい関係性が伺われた。

「瀬野です。よろしくお願いします」

 カウンターの外で立ち尽くしていたわたしは、これ以上タイミングを逃してはいけないと思い、彼に挨拶をした。すると、彼は顔を上げてにこっと微笑んで言った。

代家しろいえです。アンは下の名前で」

 さっきとは打って変わって、彼は控えめな笑顔を見せた。眉が濃く、輪郭が美しい顔つきをしている。ただ、瞳の奥にいるものが気になった。

「瀬野ちゃんの方がちょっと上かな? 何歳だっけ」

「27です。でも今年で28」

 カウンターに通されたわたしは、バッグを下のかごに入れながら香月さんの質問に答える。年下と分かり、わたしは彼を「アンくん」と呼ぶことにしたが、すぐさま「アンでいいですよ。みんなそうなので」と言われた。そうして「アンくん」は一度で終わりを告げた。

「どこで捕まえてきたんですか。今日そんな時間なかったんじゃ」

 香月さんに今日の話を聞きながら、アンはおしぼりを渡して「何飲みます?」とわたしに聞いてきた。慌ててモヒートを注文する。

 わたしはあまりお酒を知らない。先ほどのお店でもレモンサワーを頼み、今はモヒートをとりあえずで頼んだ。カクテルはカシスオレンジとファジーネーブルを知っているくらいで、こんな知識量で果たしてバーの仕事が勤まるのだろうかと不安が再燃する。

「二条の店で会ったんだよ。面接帰りだったんだって」

 香月さんは、手伝うものがないと知ると、自分のお酒を作り始めた。

「だからスーツを」

 アンは冷蔵庫から小さい保存容器をいくつか取り出した。まず開けたふたつには、ライムとミントの葉がそれぞれ入っている。それらをふたつまみのブラウンシュガーとともにグラスに入れ、重みのあるマッシャーでつぶし始めた。

「それで、転職活動は上手くいかなかったんですね」

 アンのストレートな物言いに、わたしの心臓が変な音を上げた。グラスの底に、ライムの果汁が流れ出る。

 そうだ。戻りたかった医療現場の仕事にありつけたとは言え、短時間勤務の非常勤だ。勤務時間から見れば、本業がカフェで副業が看護師になる。転職活動はまったく上手くいっていない。

「そうだね。やりたい仕事ではあるんだけど、フルタイム希望は通らなかったの」

 隠しても仕方がない。もしかすると、ここで長くお世話になるかもしれない。医療現場に戻れるなら短時間でもいいと覚悟を決めたはずだったのに、このままずっとフルタイムで働けないのではという懸念がどんどん自分の中で膨らむ。

「なんだ、失敗じゃないじゃん」

 アンはからっとした表情で「よかったですね」と言った。当たり前のことのようにそう言うので、わたしはまたペースを乱されてしまう。

「どうなんだろう。分かんないや」

 針も使えず、生活も1本では立たないのに、こんなにも働く場所に固執してよかったのだろうか。あのままデイサービスでの勤務を続けていれば、生活に困ることはなかった。

 ゆっくりと湿った気持ちに心を支配される。

「はい、お待たせいたしました」

 コースターの上に乗せられたのは、桜のスノードームだった。青々しいスペアミントに、薄ピンクにほんのりと頬を染める桜の花びらが映える。敷き詰められた花びらに触れるのは炭酸の気泡だ。グラスの内側に張り付いて、バーの店内に揺らめく光を吸い込んでいた。

 わあ、と感動でろくな言葉がでない。わたしはお酒を受け取ると、ふたりの前でひょいっとグラスを上げてから口をつけた。それを見たアンがカウンターに置いていた自分のグラスを持って会釈する。遅れて香月さんがカウンターの中からグラスを掲げた。

「これモヒート?」

 わたしは舌の上を転がるテイストに馴染みがなかった。すっきりとしたモヒートの中に、桜シロップの優しい甘さが引き立つ。

「今お出ししたのは、桜のモヒートです。花で少しは気分が晴れるかなって」

 アンは繊細な仕事をする男だった。グラスのデコレーションや香りの立たせ方、そして気遣い、どれをとっても目を見張るものがある。「お口に合わなければ取替えますよ」と言った彼に、わたしは「違うの」とだけ言って、花とハーブの香りが移るお酒に再び口をつけた。鼻を抜ける華やかな香りが力んだこころを解した。

「あ、そうそう」

 急に何かを思い立った香月は、グラスを置いて店の奥へ消えた。戻ってきた彼の手には、A4の紙が握られていた。

「水・金が看護師の方に入るんだったよね。これ、労働契約書。働きたい曜日に丸しといて」

 わたしは渡された書類に目を通した。勤務日の欄は2段になっており、昼のカフェと夜のバーのそれぞれを記入できるようになっていた。日曜日と月曜日に大きくバツがついている。どうやらその2日間が定休日らしい。はんこや通帳などはまた次回でいいとのことで、わたしは希望の勤務日にチェックをつけ、署名をして返した。

「火・木・土がカフェで、水・金が4時間だけバー希望ね」

 香月さんは渡した契約書を見て言った。これで、デイサービスで働いていたときほどの収入にやっと届く。日曜日と月曜日で休みも確保できているし、大きな問題はなくなった。

「看護師のあとにバーって疲れない?」

「大丈夫です。そっちは本当に短い時間しか働かないので」

「まあ好きなだけ入ってもらって構わないんだけどさ。助かるよ、カフェが本当に上手くいってなくて」

困り果てる香月さんを見て、アンが喉で笑う。

「スタッフも客もいないですからね」

「客も?」

 わたしは予想外の出来事に、アンへ聞き返した。バイトは辞めてしまったと聞いたが、客もいないとは一体どういうことなのだろうか。

「ここ、昼間は通りに人いないんですよ。飲み屋街なんで。全然来ないから、日中、暇だと思いますよ」

 アンは、「前の人も、あまりに暇で勝手に別の仕事始めちゃって」と言って、先日まで働いていた人のことを教えてくれた。何でも、カフェのバイト中に勝手にフルリモートの仕事を受けていたらしい。香月さんに怒られたことを契機に出勤しなくなり、香月さんがその穴を埋めて数日が経った。

「どうせ来ないんだから、締めちゃえばいいのに」

 アンは結構はっきり物をいう。客への提供がひと段落して、カウンター後ろの棚に寄りかかると、なおさら切れ味は鋭くなった。

「瀬野ちゃんはそこに切り込むから」

「いやいや、わたし何も……」

 そんなに上手い話は転がっていない。香月さんは、カフェの改革を目論んでいた。

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