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第3話:静かな部屋

「実は、うちでは訪問看護もやっていまして。通院中の患者さんが対象なので訪問件数は少ないですが、今度その担当看護師が産休に入るんです」

 眞鍋院長は、これから求人を出す予定だった訪問看護部門における短時間バイトの話を持ってきた。時給は1600円、今のところ探している曜日は水曜日と金曜日の2日間だけで、訪問は1日3件のみ。移動と記録の時間も含めると、1日4時間のバイトだと言う。フルタイムの正社員を希望していただけに、週2のバイトを提案されたことは正直堪えた。そこまでしないと、今のわたしは医療現場で仕事にありつくこともできない。

「精神科も訪問看護も未経験のわたしが、ひとりで訪問なんてできるでしょうか」

 先ほどまでの威勢はどこへやら、わたしは小さくなっていた。

「精神科の訪問看護は身体の訪問看護とは違い、訪問前に研修があります。そこで基本的なことは学べるかと思いますが、訪問先ごとに色々決まりがあるので、そちらの難易度の方が高いかもしれません。何よりもまず、利用者からの受け入れが重要です。そこを上手く引き継げるようにしたいと思います」

 院長の話によれば、針刺し業務は一切なく、話をすることと多少の服薬管理がメインの仕事だった。今行っているスタッフの産休まで、あと3か月ある。3日ほど研修を受けたのち、現任者から利用者の共有を受け、その後、同行訪問を重ねて勝手を覚えていくという流れだった。

「どうでしょうか。少し、ご希望からは逸れてしまいましたが」

 白衣から覗くYシャツ、紺と深緑の糸で組まれたネクタイ、そこに挟まるシルバーのタイピン。どれもが、わたしを意識せず、ただそこにいる。急かすものは何もない。窓のブラインドから夕陽が傾くのが見えた。考えている間、わたしはひとりだった。


「また半年で辞めてしまうかもしれません」

 わたしは院長に、この1年の話をした。再就職先の保育園やデイサービスで、わたしは上滑りし続けた。やりたいことがここにはないと察しても、もうそれを実現できる能力がない。いっそのこと、看護師免許を捨てて別の業界で働いた方がいいのではないかとすら思った。

 院長は、わたしの話に静かに耳を傾ける。視線を自然に外し、時折、うん、うん、と頷いて見せた。


「きっと、針が使えなくとも大丈夫だと思えるようになりますよ」


 話の終わりに、院長はそう言った。

 本当にそんな日がやって来るのだろうか。今はどうしても信じられない。大丈夫だと思える日が、この職に見切りをつけた日だったりしないだろうか。精神科という一際特殊な科で、やっていけるだろうか。わたしはまた半年で仕事を投げ出さないだろうか。わたしは自分自身への信用も失っていた。あれこれと考えが巡る。しかし、どんなことよりもこの院長の言葉を信じたい気持ちがまさっていた。

「よろしくお願いします」

 わたしは訪問看護の業務を引き受けることにした。



 面接が終わり、院長とともに部屋を出る。受付まで戻ると、院長は受付の女性に声をかけた。

「佐藤さん、入職の手続きをお願いします。伊倉さんの業務についてもらうことになりました」

 院長は、佐藤と言う名の事務の女性といくつか事務的な話をした。女性は「かしこまりました」と言うと、そのままパソコンに向かい書類を印刷し始める。そして院長はこちらを振り返ると、「ではこれで」と言って奥の診察室へ消えた。

「もう少しで準備が終わりますので」

 佐藤さんは待ちぼうけになっていたわたしに声をかけ、デスクから立ち上がるとコピー機の前に移動した。


「瀬野です。これからお世話になります」

 わたしは先ほどとまるで人が変わったように丸い挨拶をした。情けない気持ちが背後をうろちょろする。彼女は「よろしくお願いします」と会釈し、再び印刷が終わるのを待った。わたしは人知れず胸を撫でおろした。

 印刷が終わると、佐藤さんは書類一式を受付のカウンターの上に並べた。一番上には記入例が重ねられている。佐藤さんからの説明もあり、記入に困ることはなさそうだった。

「来週の月曜日が入職日と伺いましたので、書類の日付はそちらに合わせてください。次回いらっしゃるときに印鑑と通帳も併せてお持ちいただけると助かります」

 わたしは佐藤さんから入職書類を受け取ると、クリニックを後にした。外に出ると、すでに日は落ちていた。

 面接はいつだって緊張する。自分を表現するのは苦手だ。嘘をついていないのに、なぜか後ろめたくなる。肩の荷が下りたわたしは、無性にお酒が飲みたくなって、ちょうど目に付いたバーへ入ることにした。



「いらっしゃいませ」

 レトロな山藍摺やまあいずりのドアを開けると、20代半ばほどの男性がカウンターの中で仕込みをしていた。わたし以外に客は見当たらない。スマホで時刻を確認すると、17時半を数分過ぎたところだった。どうやら開店と同時に入ったようだ。わたしは飲み物を頼むついでに、そのバーテンダーの男性へ質問をした。

「ここって、軽食はありますか」

 すると彼は後ろの業務用冷蔵庫やカウンターの下を確認し始めた。

「サンドイッチかブルスケッタならすぐお出しできますよ。ピザもありますけど、うちクリスピータイプの小さいやつなんで、つまみにしかならないかも。あとは、浸ける時間が待てるならフレンチトーストも行けます」

 つらつらと繰り出される答えの多さに驚く。バーでも意外と食べ物は置かれていた。

「フレンチトーストをお願いできますか」

「20分くらいかかりますよ」

「待ちます、待ちます」

 わたしは言葉尻を弾ませて返事をした。バーテンダーの男性は先におしぼりと飲み物を出すと、さっそくかごの中からバケットを取り出し、2㎝ほどの厚さで斜めに切り始めた。クープが大きく反り返っている。ザクッ、ザクッとバケットナイフを入れる音が心地よい。


 ちょうどそのとき、ドアベルの涼しげな音が店内に響いた。

「もう入れる?」

「大丈夫ですよ。今日は随分早いですね」

「急遽、日中出てたんだよ。夜はアンに任せちゃった」

 バーテンダーの男性はバケットを切る手を一旦止め、注文も聞かずに慣れた手つきでお酒を作り、今来た男性客に差し出した。

「お疲れさまです」

「おお、さんきゅー」

 客の男性は40代ほどに見えた。どこかのブランドのロゴが入った白いTシャツを着て、黒いチノパンを履いている。金魚のしっぽほどしかないが、伸びた焦茶の髪を後ろに束ねていた。なんとなく、水商売の匂いがした。

「何作ってんの」

「フレンチトーストです」

「そんなメニューあったっけ。俺も食いたい」

「20分待てる人だけにお出しできるメニューになっております」

「待つ! 待つ!」

 男性客の少年のような返事に、バーテンダーの男性は噴き出した。

「同じこと言いはりますね」

 急な京訛りに、わたしは思わず顔を上げた。男性客は「みやこが出てるよ」とだけ言って朗らかに笑っている。彼はこの店の常連のようだ。そのやり取りに目を奪われていたところ、男性客と目が合った。若干の気まずさから、わたしは軽い会釈をした。客の男性は「香月かつき」と名乗った。

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