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第2話:ストレイ・シープ

「なっちゃんはさ、もっとブイブイ言わせたいんでしょ」

 デイサービスの廊下で、わたしは車いすを押していた。車いすに乗るトキさんは、こちらを見上げ、したり顔でそう言った。

「何ですか、ブイブイって」

「もう言わないのかしら」 

 うふふ、と笑うと、トキさんは「でも、ほら、何となくは分かるでしょ」と無茶を言う。

 わたしは少しだけ唸って、それから期待の眼差しに微笑み返した。ブイブイに、肩を切って歩くような勢いを感じたが、合っているかは分からない。

「前はどこの看護師さんだったの?」

 彼女は綺麗な白髪を耳に掛けながら、わたしに聞いた。

「保育園です。園児の健康管理と、0歳児のクラス担任」

「担任? なっちゃん、保育士まで持ってるの?」

「なぜか看護師免許があると、0歳児クラスだけ担任になれるんです。そのせいで、保育士が足りないところでいいように入れられて」

「大変ねえ」

 語尾が伸びる。車いすは順調に玄関へ近づいていた。

「子どもは可愛いですけどね。可愛いだけじゃ続けられなくて」

 大学病院を退職したあと、わたしは心機一転、転職活動を再開した。最初の転職先は保育園だった。擦り傷や鼻血があれば呼ばれ、なければ保育士に交じって子どものお世話をする。保育園で医療行為はできない。食後に薬ひとつ飲ませるにしても、保護者は医師の一筆を園に提出する必要があった。園長からその説明を受けているとき、わたしはそれを「手間」だと無意識に見なしていた。まだ医療機関に務めているつもりの自分がいた。

 一方で、誰も死にそうな人がいない職場は心が安らいだ。時折いるアレルギーやてんかん持ちの園児に気を付けていればいい。検診があれば嘱託医の補助をし、37.5℃を超えた園児がいれば、保護者に申し訳なさそうに電話を掛ける。そして、毎月の保健だよりで感染症の注意喚起をするコラムを書くのだ。

「やっぱり、コレ?」

 トキさんは親指と人差し指で丸を作って見せた。

「別にそういう意味で言ったんじゃないですよ」

 トキさんは不服そうな顔をしていたが、「まぁ、低いです。だいぶ」と付け足すと。ほらね、と言わんばかりに、にんまりと笑った。


 このデイサービスに来たのは、ちょうど半年ほど前だ。保育園は半年で辞めてしまった。そして同じように半年が経った今、再びここで勤務することに迷いを感じ始めていた。

「じゃあその前は」

「桜谷大学病院の救急外来です。看護学校を卒業してから、ずっとそこで」

 久しぶりに口にした名前に、生まれた距離を感じる。身体の中心を秋風が通り過ぎた。

「やっぱり外科の看護師さんって感じしたわ~! だって歩くのが速いの」

 トキさんは胸の前で手をポンッと叩き、合点がいった顔をした。

 「そこですか」と笑うわたしに、トキさんは「結構、見たら分かるものよ」と続ける。

 デイサービスには、病気や障害を抱えながらも、地域で暮らしていける人々がやってくる。調子が悪い日は通えない。そのまま辞める人も珍しくはない。ここにも元気な人しかいなかった。

 薄々理解し始めていた。保育園やデイサービスでの勤務にいつまで経っても慣れず、部外者のように感じてしまう理由を。誰かに必要とされ、身に余るほどの感謝を向けられようとも、共に働く同僚にいくら恵まれようとも、ピースはぴたりとはまらない。

 デイサービスの長廊下で、車いすを病院のころよりほんの少し速めに押す。健康であることは、この上なく素晴らしい。車いすを慎重に押しすぎると、かえってこちらが急かされる。ここでは、今晩の夕食の話をする。家族が口うるさいだとか、あの利用者さんが曲者だとか、他愛もない話題が毎日飛び交う。わたしはこの穏やかな日常を取り戻す手伝いがしたくて看護師になったのだ。

 ここは言ってみればわたしにとってのゴールで、もうやりたいことは残っていない。


「救急出身だと、何でもできちゃうわね」

 進む車いすでは、太ももの上にしわの寄った手が行儀よく重ねられている。対照的に藤色のカットソーはどこもすうっと伸びていて、品のよさを滲ませる。

「できなくなって、辞めたんです」

 大学病院を退職して以降、針に触れることはなくなった。強いられることもない。刺せなくてもいっぱしに働ける職場は、わたしに合っているはずだった。


 トキさんは、「あら、じゃあわたしと一緒じゃない」と言って笑った。

 余計なことを言ってしまったかもしれない。これまで廊下の先を漠然と見ていたわたしの瞳孔は一瞬動きを止め、身体はこわばった。

「なぜか、ずっと歩けると思ってしまうのよね」

 優しい語りがわたしの中の罪悪感を増幅させる。

 脳梗塞で右足に麻痺が残ってしまったトキさんは、3年前から車いすを使うようになった。まだ60代と若く、発症した日も普段通りパートに出ていたと前に教えてくれた。突然の変化に苦悩した過程は聞くに及ばない。

「トキさんは……」

 ――もう歩けないかもしれないと知って、どうしようと思いましたか。

 現実を受け入れるにも、できなくなったことの代わりを探すのも、そう簡単なことではない。何か変わるきっかけを聞こうとしたとき、トキさんは、珍しくわたしの声にかぶせて言葉を発した。


「あなたはそのままで大丈夫よ」


 まっすぐにこちらを見つめる眼差しに、卑屈になることすら忘れていた。

「案外、できないままでもいいの。そんなことしているうちに気づいたらやれることが増えていたりして、逆にパワーアップしちゃうんだから」

 脳の隅まで見透かされていた。上辺すら整えることを忘れている。わたしの顔色に何か思ったのか、「しいて言えば……」と言ってトキさんは考え始めた。いいんです、と引き留めればいいのに、わたしは彼女に答えを求めてしまった。


 トキさんは、左手で頬を触る。人差し指が軽く折り曲げられる刹那が永劫に感じられる。

 彼女は、ああ、と高めの声のトーンとともに顔を上げた。

「行きたい場所に居ることね」

 トキさんはそう言って、にっこりと微笑んだ。



 わたしはクローゼットから引っ張り出してきたスーツを着て、「まなべ精神科クリニック」の自動ドアの前にいた。大学病院を辞めて既に1年が経過していた。先達の声に背中を押され、ようやく医療機関の戸を叩く覚悟がついたのだ。

 そうは言っても、応募した先は医療行為少なめの精神科クリニックだ。最寄り駅から3駅と近く、日勤のみのフルタイム正社員の募集は都合がよかった。月給は23万。看護師と言えど、日勤だけならそんなものだ。

 ――臨床経験3年以上が望ましいが、新卒可。ブランク歓迎。精神科未経験歓迎。

 この募集条件は、“看護師免許があればオールオッケー”と言っているに等しい。クリニックでも採血は避けられないだろうが、他の科に比べると頻度は多くないはずだ。しかし精神科で勤めた経験がないため、交渉の余地があるのかどうかが分からない。今日の面接はある種の賭けだった。


 意を決して、自動ドアの細長いボタンを押す。1歩入るとフロアには多くの椅子が立ち並び、その奥に受付があった。こぢんまりとしたデスクには、女性がひとり座っている。手元で書類作業をしているようだったが、「すみません」と声をかける間もなく女性はこちらに気づいた。

「こんにちは」

 抑揚のない静かな声は、何者をも刺激しない。わたしも精神科の患者に見えただろうか。

「本日面接をお願いしておりました、瀬野と申しますが」

 わたしはわざと平坦な声で澄まし気味に名乗った。その中でも語尾をきっぱりと言い放ったところに、とっくにおさらばしたはずの自尊心が透ける。

「お待ちしておりました。こちらで履歴書をお預かりいたします。ただいま院長を呼んでまいりますので、そちらに掛けてお待ちください」

 履歴書が入ったクリアファイルを手渡すと、受付の女性はそれを持って、奥の部屋へ消えた。わたしは言われた通り、受付のすぐ前に並ぶ待合室のソファーに腰を下ろし、面接で聞かれそうなことを頭の中で反復する。――経歴、資格、そして針のこと。


 ほどなくして、受付の女性が白衣の男性を連れて戻ってきた。

「院長の眞鍋です。今日はありがとうございます。あちらでお話ししましょう」

「瀬野と申します。本日はよろしくお願いいたします」

 院長の後ろについて、クリニック内を移動する。案内された部屋は、薄いブラウンのカウチがひとつとそのすぐ前にローテーブルが置かれているだけの簡単な部屋だった。わたしはカウチに座るよう促された。院長は1人掛けの折りたたみ椅子を持ってきて、ローテーブルを挟んでわたしの斜め左に腰かけた。

「ご応募ありがとうございました。先ほど受付に出していただいた履歴書も、さっと拝見しました。志望動機を一度伺っても?」

 院長は物静かな男性で、語り口がゆっくりで丁寧だった。精神科の先生は独特なゆったりとしたペースで話す人が多い。傾聴を主とする仕事の影響だろうか。眞鍋院長は、まさにわたしがイメージする精神科医像そのものだった。

「医療現場に戻りたいのです。針は使えません。使えなくなりました」

わたしは事のあらましをすべて話した。就労よりカウンセリングを勧められそうで、内心びくびくしていた。

「なかなか厳しいところですね」

 わたしが話すと、一拍置いて院長が答える。話を遮ることもなく、彼は最後まで相手の話を聞いてから答える。

「精神科でも採血はあります。毎回ではないですが、使ってる薬剤によっては血中濃度のモニタリングが必要な患者さんがおりまして。あとは単純に内科疾患との鑑別だったり。まあ、色々あります」

 院長は説明が丁寧だった。しかし、ここでも針刺し業務から逃げられない。しかし彼はさっさと話を切り上げる様子もなく、業務について説明を始めた。

「このクリニックでは、初めに看護師がバイタルサイン測定と簡単な問診を行います。そのあとに、わたしが診察をする流れです。必要があれば、そこに検査が入ってくる感じですね。瀬野さんのご事情ですと、初めの問診部分であればお願いできると思うのですが、ご覧のとおりうちは小さいクリニックです。完全予約制にしていることもあり、看護師は基本1名体制でやっています。そのため、やはり両方できる方が正直望ましいです」

 さすがのわたしでも、ここまで理路整然と話されては、納得して帰るべきだと分かっている。しかしここに断られてしまえば、再び求人探しだ。一からやり直し。縋る気持ちで食いつく。

「針刺し業務以外は何でもやります。雇っていただけないでしょうか」

 すると院長は右眉をぴくりと上げて、視線を右下に落とした。右手の指でゆっくりと顎を触る。

「では、精神科の訪問看護に出てみませんか」

 驚いて閉口するわたしと対照的に、院長は穏やかで、その瞳には確信が宿っていた。

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