訪れに理由はない。
*
最後の勤務は夜勤だった。その日も大学病院の救急外来は人でごった返していた。朝の4時ごろ、ようやく待合に置かれた長椅子の皮目がちらほら見える。しかしそれもまた、日が昇るころには元通りだ。
夜勤明け、日勤の看護師長とナースステーションの奥にある休憩室で落ち合う。退職の事務的な話を二、三話す。
「雇用保険とかそのへん、あとのことは総務から行くと思うから」
そう言うと、看護師長はデパートの紙袋に入ったお菓子をわたしに手渡した。
「残念だな」
「わたしもです」
看護師長は手持ちぶさたに頭を掻いた。短髪の黒髪が微かに揺れる。タフネスが求められる救命救急の最前線で、この男は面倒な生き物たちをまとめている。気の弱いふりをして、うまく地雷原を渡りゆくバケモノだ。
「これから誰に振ろうかな」
看護師長は、採血ブースの人員配置に頭を悩ませていた。身体の前で組まれた太い腕には、生きのいい血管がこれでもかと浮き出ている。ぷりっとした脈打つ青筋には、自然と目が行く。ただそこに、今更感情が乗ることはない。業務の難易度を推しはかっているにすぎなかった。
「郁ちゃんとか、もうベテラン希望も取れると思いますよ。この前もいい感じでした」
患者の中には、採血やルート確保のときに〈ベテラン希望〉を出してくる人がいる。看護師は選べない。それにも関わらず、いつの間にかこんなシステムができていて、病院側も何となくそれを受け入れていた。「裕子ちゃん呼んでよ」「今日、あの子いないの?」などと鼻の下を伸ばしたおじさんが来たときには、ここはキャバクラじゃないんだよ、と密かに白けたものだった。
実際、
「佐々木さんかぁ。そうだな、そろそろお願いしてみるか」
世間話をするどの口元も、どこかぎこちなかった。
「ちょっとだけ、どう?」
看護師長はおもむろに立ち上がり、休憩室を出て行った。開いたままのドアからは、看護師長が資材棚に詰まれた留置針を何本か掴み、横のボックスケースから駆血帯を手に取ったのが見えた。スクラブのポケットをごそごそと探りながら帰ってきた彼の手には、アルコール綿とサージカルテープも一緒に握られている。休憩室のテーブルにそれらを雑多に置くと、もといたイスに腰かける。そして、彼はわたしに駆血帯を手渡した。
どくり、と心臓がリズムを乱す。拍動が大きく感じる瞬間もあれば、消え入りそうな瞬間もあった。ひんやりと皮膚が湿り始めていた。
受け取った手をしばらく引っ込めないでいたわたしを見て、「無理にはいいんだけどさ」と怯む男声が休憩室に小さく響いた。
「ここを出たら、もう試しで刺す機会すらないんでしょうね」
わたしは手の中の駆血帯を握り直し、看護師長の左上腕を駆血帯で縛った。怒張し始めた血管を横目に、サージカルテープを適当な長さに1本切り、テーブルの縁にぶら下げる。
「はあ、逃げそう」
「俺のは逃げるよ」
おちゃらけて笑う看護師長を前に、わたしはアルコール綿の袋の端を切った。ちょんちょん、と血管があるすぐ上の皮膚を触り、血管の弾力を確かめる。元気な、とりわけ男性の血管は、太く刺しやすい。ただ、しっかり血管を固定しないと、穿刺の直前でするりと動いて針先をかわされる。
わたしは取り出したアルコール綿で
少し前まではこんな情けない有様ではなかった。針はむしろ得意で、ベテラン希望の患者対応に駆り出されることもしばしばあったほどだ。新人のルート確保の試験も、ここ何年かは指導担当を任されていた。負けん気が強い性分ではないものの、針刺し業務に関しては一定の自負があった。そのわたしに訪れたこの悪夢の始まり――看護師人生の終わりは、突然だった。体調を崩して近医を受診したとき、採血の際に迷走神経反射を起こしたのだ。
「採血で気分が悪くなったことはありますか」とクリニックの看護師からお決まりの質問をされ、わたしも「ありません」といつも通り答える。そうして座って採血を受けている最中、突然、世界が大きく歪んだ。ひどい吐気は意識を失う最後の瞬間まで続いた。冷汗がじっとりと皮膚を這う気持ち悪さはうまく伝えられない。気づいてもらえない恐怖、わたしの体が大きく傾いて初めて事態を知る周囲への苛立ち、そしてすぐに抜いてもらえない針への絶望がわたしの中で秩序なく飛び跳ねた。
反射自体は、抜針して少し横になっていれば問題はない。その日の夕方には、反射が起きてすぐに抜針しなかった看護師へ文句がふつふつと湧いて出るほど元気になっていた。数日で風邪も全快し、大学病院での勤務に戻る。シフト勤務だと2連休すら珍しい。浦島太郎のような顔をしてナースステーションへ向かうと、案ずる声もそこそこに、これまでの忙しない日々が始まった。
救急外来の待合席は午前中から埋まり、外では救急車のサイレンの音がちょうど消えた。以前と変わらない日常が過ぎていく中で、わたしだけがおかしい。体調は回復したというのに、針を支える指が小刻みに震える。穿刺する血管は見つけた。血管に大きな蛇行もない。新人でも刺しやすいであろうこの血管を前にして、6年目の中堅が、皮膚に針を突き刺し、外筒を押し進めることができない。倒れたときの情景が、頭の中でゆっくりと再現されていく。イメージが完成してしまうと、人はもうだめだ。次第に身体が当時の感覚すらも鮮明に思い出し、今起きていることのように思わせる。あのときと同じ吐き気が迫ってきた。身体の毛がよだつのを感じ、血の気が引いて冷えた腕の皮膚をこする。
「あんた、大丈夫か」
目の前の男性患者が口を開いた。怪訝そうな眼差しに耐え兼ね、平謝りしながら、わたしはすぐ後ろにいた同僚に採血の交代を頼んだ。
わたしは、針を刺すことができなくなっていた。
最後の休憩室。看護師長の腕を前に、今再びわたしは針を刺せずにいる。針の先端に行くにつれ、指の震えがどんどん大きく増幅する。見やすい、なんてものではない。思わず乾いた笑いが出た。
「このくらいにしようか」
見かねた看護師長が、テーブルの脇に置かれていた黄色い針捨てボックスをこちらに寄せた。
「すみません、また」
刺せなかった。
看護師長はこれまで何度も勤務の合間を縫って、腕を貸してくれていた。それなのに、針で皮膚に触れることすらできず、その度に刺せなくなった現実を思い知る。
何も、針刺しだけが看護師の仕事ではない。他にも多くの業務がある。初めは針刺し以外の業務を率先してやっていけばいいと、自分でも前向きだった。しかし、1か月も経たず、基礎的な技術ができなくなった自分に嫌気がさして、いつしか人に助けてもらうことにも耐えられなくなってしまった。
「そのときじゃないだけさ」
看護師長はいつも同じことを言う。どうしてわたしが、という顔をもうずっとしてきたのだろう。彼は至極模範的な看護師で、わたしは絵に描いたような患者だった。本当は拗らせたトラウマの治療に行くべきなのだろうと思いながら、なあなあにしている。直したいのか、諦めてしまってもいいのか、自分でも分からない部分があった。
「もうデイサービスとかに行こうと思うんです。医療行為がないところ。針が使えなきゃ、その辺のクリニックだって雇ってくれませんから」
「焦らずな」
「ありがとうございます」
「お世話になりました」と言う最後の言葉尻までが揺れる。支柱の1本を抜かれると、なし崩しにすべてがぐらついてしまうのだろうか。
総務課での退職手続きを済ませると、わたしは私物と頂きものを残らず抱え、大学病院の大きく重たい職員用出入口のドアを押した。転職先は決まっていない。転職エージェントに登録はしたものの、先の一件を伝えると、「練習もできないとなれば、病院やクリニックは難しいですね」と返された。今のわたしは、長いブランクを持つ人たちより使い物にならない。それ以降、連絡を返せなくなっていた。担当者からの不在着信が続く。それもたちまち来なくなった。
病院の外に出ると、太陽はすっかり高い位置からわたしを覗いていた。一考の余地も与えず天を見上げさせる太陽の力に、在りし日の自分をほんの少しだけ取り戻す。今は、見失う道すらもないのだ。
わたしは、ゴムチップで弾性舗装された敷地内の歩道を進む。ゴムの跳ね返りを足底に感じながら、上着のポケットからスマホを取り出した。