アドリアンの周りには草原の風が渦を巻き、瞳には冷たい光が灯っていた。普段の軽やかさは消え、代わりに激情を秘めた声が響く。
「弱者を守らずに何が大戦士なんだい?草原の毛並み良き猫様たちは、自分のヒゲを撫でる暇はあっても、飢える仲間に手を差し伸べる時間がないとは驚きだ」
パンテラの戦士たちの表情が険しくなり、唸り声が漏れ始める。だが、族長ゼゼアラだけは冷静に、アドリアンを見つめていた。
「大草原の『掟』が、強い者の前に頭を垂れ、弱い者の背中を踏みつける……そんな、恥ずべきものならば──」
アドリアンは額に人差し指を立て、挑発的な笑みを浮かべた。
「この英雄アドリアンが、キミたちの毛づくろいの時間を少し奪って、その古ぼけた掟に素敵な風穴を開けてあげよう!」
アドリアンの全身から覇気が噴き出した。その瞬間、草原に風が吹き荒れ、パンテラ族の戦士たちの尻尾が逆立った。
「無礼な人間め!我らパンテラ一族を猫呼ばわりし、毛づくろいなどと愚弄する言葉の数々、断じて許さん!」
一人のパンテラ族の若者が長槍を構えて一歩前に出た。彼の瞳には怒りの炎が灯り、鋭い爪が日光を受けて煌めいている。
ゼゼアラはその様子を見ながらも、制止する素振りを一切見せない。彼の静かな視線は、部下の怒りを当然のものとして認めているのだ。
「そこまで言うからには死の覚悟はできているのだろうな、人間よ!さぁ、武器を抜け!」
その言葉を受けて、アドリアンは手を大きく広げて言った。
「実は俺の武器は単なる喧嘩……いや、猫さんとのじゃれ合いには出す気にならないんだよね!だから素手でいいかな?あ、キミたちは武器を使ってもいいよ。どうぞどうぞ、遠慮なく!」
その言葉で、パンテラの戦士たちの瞳から理性の光が消えた。獣性だけが残された表情が、憎悪に燃え上がる。
「ガルルルルッ!」
獰猛な咆哮と共に一人の戦士が地を蹴った。草原の風を切り裂くように、彼の姿が閃光となってアドリアンへと迫る。
獰。彼の動きは常人の目には残像さえ捉えがたい速さで、鋭い槍の穂先がアドリアンの喉元へと迫る。
それはまさしく大部族パンテラの戦士に相応しい、一撃だった。
──だが。
「おっと!」
一瞬、アドリアンの姿が風に溶けたかのように掻き消えた。パンテラの戦士が目を見開く。彼の槍が空を切り、行き場を失った勢いで前のめりになる。
そして──
「なにっ……!?」
戦士が顔を上げると、信じられない光景があった。アドリアンが、彼の槍の柄の上に軽やかに片足で立っているのだ。
「素晴らしい一撃だ!流石は大部族の戦士!」
草原の風に髪を揺らし、にこやかに微笑みながらアドリアンはそう言った。
「だけど、知ってた?実は槍って力任せに一直線で突くものじゃないってことを!」
言葉と同時に、アドリアンの足が軽やかに回転した。風のような動きで彼の足が槍を捻じり、パンテラの戦士の手から武器が離れていく。
空中に投げ出された槍は、一回転し、アドリアンの手の中へと収まった。
「さぁ、槍の上手な使い方を教えてあげよう!獲物を捕らえるのに直線だけじゃもったいないからね!」
次の瞬間──アドリアンの姿が疾風のように流れ始めた。
槍は蛇のようにしなり、時に直線で、時に円を描き、予測不可能な軌道で戦士の周りを舞う。
「なっ……く、くそ……!」
アドリアンは槍の柄で戦士を翻弄した。突くでもなく、打つでもなく、ただ巧みな技で相手の動きを封じている。戦士が右に動けば槍が先回りし、左に逃げれば槍の柄が足元を掬う。
その神業とも言える技に、戦士は次第に呼吸を荒くし、動きが鈍っていく。周囲の獣人たちは目を見開き、その光景に魅入られていた。
そして──ゼゼアラですら、その動きから目を離せなくなっていた。彼の顔には、怒りではなく、静かな驚きの色が浮かんでいる。
精鋭の戦士がまるで子供のように翻弄されている──その事実に、パンテラ族の戦士たちの表情も凍りついていた。
「──はっ!」
やがて、アドリアンの動きが止まった。彼の手にした槍の柄が、パンテラの戦士の喉元に突きつけられている。
時間が止まったかのように、両者の姿が静止した。
「まだやるかい?」
アドリアンの声が草原に響く。
周囲を支配する静寂の中、風の音だけが草をさわさわと揺らしていた。
「……参った」
戦士は静かに膝をつき、頭を下げた。彼の目には、もはや怒りも敵意も見えない。その代わりに浮かんでいたのは、純粋な敗北の認識と、上位者への尊敬だった。
彼自身、精鋭の戦士として数々の獣人と戦ってきた。しかし、今彼が相対しているのは、自分の力が到底及ばない相手だと理解したのだ。
「なんという槍技だ……」
一人のパンテラの戦士が呟いた。その声には敵意ではなく、感嘆の色が滲んでいる。
「ゼゼアラ様、あの人間、只者ではないぞ。一流の戦士だ」
他の戦士たちも次々と声を上げ始めた。彼らの尻尾は、攻撃の合図ではなく、興奮と驚きで左右に揺れている。
ゼゼアラは黙ったまま、アドリアンを見つめていた。彼の表情からは何も読み取れない。ただ、その瞳の奥に、新たな光が灯っていた。
それと同時に、メーラたちの顔に歓喜の色が広がった。エルフの姉妹は互いに手を取り合い、喜びに目を輝かせている。
「アドー!かっこいいー!」
レフィーラの黄色い歓声が草原に響き渡った。彼女の金色のポニーテールが興奮で大きく揺れ、小さな両手で拍手を送っている。
勿論、アドリアンが負けるはずがないとは理解していたが、こうも鮮やかに、華麗に勝つと思わず喝采を浴びせたくなるのだ。
メーラもドレスの裾を揺らしながら、優しい笑みを浮かべた。彼女の瞳には、幼馴染の活躍を誇らしく思う気持ちが溢れている。
そして、それはメーラたちだけではなく、集落の獣人たちも同じだった。
「な、なんという強さじゃ……!?パンテラ部族の戦士を子供のように扱うとは……」
「お、おやびん……?一体何者なんだ、アンタ……?」
彼らの表情から恐怖が消え、代わりに希望の色が浮かび始める。
そんな中、アドリアンが高らかに言った。
「他に俺に挑む戦士はいるか!?大草原の誇りを……キミたちの最高の一撃を見せてくれ!」
アドリアンの挑発的な言葉に、パンテラの戦士たちは互いに目配せをした。もはや先ほどのような無謀な怒りはなく、戦士らしい冷静な判断が戻っていた。
そして──草が風に揺れるような静かな足取りで、族長ゼゼアラがゆっくりと進み出た。
「人間の戦士よ」
ゼゼアラがアドリアンの近くまで来ると、右手を左胸に当てた。
獣人の間で強き戦士に敬意を表す古式の礼法だった。その姿に、戦士たちが息を呑む。
「貴殿が真の力を持つ者であると認めよう。我らパンテラ族は強きを尊ぶ。草原の掟に従い、力ある者には相応の敬意を」
それを見て、アドリアンも微笑み、右手を左胸に当てた。彼の姿勢からは先ほどまでの挑発的な雰囲気が消え、代わりに武人としての凛とした気品が漂っていた。
「どうやら少し冷静になってくれたみたいだね。……俺も、先ほどまでのパンテラ部族への数々の侮辱を謝罪しよう。すまなかった。貴方たち誇り高き黒き戦士たちに、草原の風のように清らかな敬意を!」
アドリアンの言葉と佇まいからは、かつてない荘厳さが滲み出ていた。その意外な変貌に、パンテラの戦士たちが目を見張る。
彼の姿は、大草原の古き伝説に語られる気高き英雄のようで、獣人の戦士たちが密かに憧れる理想の姿そのものだったからだ。
しかし、戦士たちの心には疑問が残っていた。なぜ、このような強さと清らかな礼儀を知る持ち主が、あそこまで露骨な侮蔑を用いて、わざわざ自分たちを挑発したのか?
戦士たちが首を傾げる中、アドリアンが静かに言った。
「俺はね」
アドリアンは集落にいる獣人たちを見渡した。
そこには痩せ細った草食獣人たちの姿があった。日陰に身を寄せたシカの老人たち、不安げにアドリアンを見つめる子供たち、やせこけた頬に暗い目をした親たち。彼らの衣服は古くすり切れ、身体には長旅の疲れが滲んでいる。
「大草原の戦士……それも大部族は、弱き者を守る存在だと思ってる」
アドリアンの声は穏やかだったが、その言葉には彼の内なる思いが詰まっていた。
「弱き者を守ってこそ、大部族。弱き者の盾となってこそ、大戦士。それが『強さ』というものの本質だ」
風が草原を撫で、静かな沈黙が流れる。
「だからこそ、こうして弱い者が虐げられている現状に、俺は我慢がならない」
アドリアンは一歩前に進み、両手を広げた。
「彼らを見ろ!精も根も尽き果て、飢えに苦しみながらも、必死に生きている。彼らに必要なのは、蹴りや恐怖ではなく、伸ばされた手じゃないのか?」
彼の声には静かな怒りと、同時に深い悲しみが混ざり合っていた。
「何故、誇り高き大部族が、こんなことをするんだ?」
その言葉を聞き、パンテラの戦士たちは一様に顔を逸らした。堂々としていた彼らの姿が、急に小さく見えた。彼らの尻尾は不安げに震え、目は地面を見つめている。
そして、ゼゼアラもまた目を瞑り、俯いた。若き大族長の表情には、複雑な思いが浮かんでいた。
「……我らとて、好き好んでこのようなことをしているわけではない」
ポツリ、とゼゼアラが呟いた。彼の声には、これまでの威厳に満ちた調子は消え、代わりに疲れと諦めが混ざっていた。
「部外者に話すわけにはいかぬ……それに、話したところで、もうどうにもならぬのだ」
アドリアンは、族長ゼゼアラの瞳を見つめた。そこには深い葛藤と懺悔の色が潜んでいる。
彼は、悪人ではない——その確信がアドリアンの心に灯った。この獣人の族長は、今の状況に心を痛める、善良な魂の持ち主なのだ。
彼の目には、弱い獣人たちを見るときの悲しみと、自分の行動への後悔が宿っていた。
しかし、思っていることと、やっていることは正反対。その矛盾に引き裂かれながらも、彼は部族の長として決断を下し続けている。
「……なるほどね」
アドリアンは静かに頷いた。彼の瞳に浮かんだのは、理解の色だった。
この大草原の騒動の裏には、表面上に見えるものより遥かに深い何かが潜んでいる。
事情を知る者が決して口外できぬほどの重大な問題が、複雑に絡み合って現在の混乱を生み出しているのだろう。
──しかし、それならばそれでいい。
アドリアンの目に決意の色が浮かんだ。たとえ詳細を知らずとも、自らの「策」は有効なはずだ。
彼らの事情を呑み込んで、そのまま大草原を元に戻すことができる。混乱の原因が何であれ、秩序を取り戻す道筋は明確になっていた。
「キミたちにもやむにやまれぬ事情があるのは分かった」
そして、アドリアンはゼゼアラの瞳をまっすぐに見つめた。
「でも、今回の収拾はつけなくちゃいけないだろう。俺たちはキミたちの戦士を捕らえてしまい、部族の誇りを傷つけてしまった。一方、キミたちの弱者を虐げる行いを、俺は絶対に容認できないから、引くことはない」
彼の目に宿るのは、遊びの色ではなく、真摯な決意だった。
「そこで一つ、提案だ。今回の騒動を収める為に、俺たち一行は、『キトゥラ・シャゼイ』を、パンテラ大部族に申し込もう!草原の伝統に則って、弱者の代表として、強者に挑戦するよ!」
──キトゥラ・シャゼイ。
それは、大草原に古くから伝わる部族間の神聖な決闘の儀式の名であった──。