大草原にあるみすぼらしい集落。集落の獣人たちは不安げに身を寄せ合い、子供たちは小屋の中に隠され、老人たちも緊張した面持ちで佇んでいる。
「お、おい来たぞ!」
上空を旋回していたタカの獣人が、突然大きな声を上げ、慌てた様子で集落へと急降下してくる。
集落の者たちが彼の指さす方向を見ると、遠くの草原に黒い影の一団が見えた。十人程度のクロヒョウの戦士たちが、整然と隊列を組んで集落に向かって歩いてきている。
クロヒョウの獣人たちは高く逞しい体躯を持ち、その身のこなしは洗練された捕食者のそれだ。
黒く艶やかな毛並みは戦闘に適した筋肉質な体に沿い、その美しさと危険さを同時に際立たせている。
一目見ただけで、彼らが普通の獣人とは一線を画した存在であることは明らかだった。
「う~ん、予想よりも少ないなぁ。もう少し挑発するべきだったかな」
そんな緊張感漂う中、集落の中央では悠々と四人の姿が立っていた。アドリアンとメーラ、そしてエルフの姉妹。
彼らだけが、迫りくる脅威に怯える様子もなく、むしろ待ち望んでいたかのような表情だった。
「ねぇねぇアドリアン。あの獣人さんたちの毛並み、すっごく綺麗だね!特にあの尻尾が黒くて可愛い!」
「レフィーラ、知らないのかい?大戦士ってのは毛並みがいいことで有名なんだ。触ったらとっても気持ちいいと思うよ」
「キツネさんの時もそう言ってたけど……本当に気持ちよさそう」
「あ、あの……皆さん、あんまり怒らせない方が……いい……かも?」
レフィーラが興味津々と目を輝かせながらそう言い、アドリアンは余裕綽々とした笑みを浮かべて答え、メーラが何かを思い出すかのように目を瞑り、ケルナがおずおずと呟く。
そんな気の抜けるような会話が繰り広げられる中、タカの獣人たちがアドリアンたちに詰め寄ってきた。
「アンタたち、なにそんなに悠長にしてんだよ!?目ぇ見えてねぇのか!?あの首飾りが見えないのか!?大戦士だぞ、大戦士が来ちまったんだぞ!?」
タカの獣人の鋭い目には、先頭を歩く青年の首元が光るのが見えていた。それは大戦士のみが付けられる証のようなもの。
部族ごとに意匠の差異はあるが、あの首飾りは明らかに大戦士の証。
しかも、その青年の周りを囲む戦士たちの動きは、普通の獣人とは比較にならないほど洗練されていた。彼らは恐らくは、大戦士ではないが、パンテラ部族の中でも精鋭の戦士なのだろう
「お、終わりだぁ……!これでおしまいだ!わざわざ大戦士まで来ちまったってことは、俺たちを見せしめにするつもりなんだ!女も子供も皆殺しにされちまうんだぁ……」
タカの獣人たちがよよよ、と泣き崩れた。彼らの翼は力なく垂れ下がり、足元には恐怖で抜け落ちた羽が散らばっている。
彼らの感情豊かな様子を見て、メーラとケルナは目を合わせ、クスリと笑ってしまった。大げさな身振りと表情の変化は、見ていて面白いものがある……。
そんな中、レフィーラの前で縛られているパンテラ部族の少女が、縄に身体を擦りつけながら勝ち誇ったように言った。
「ふん……今更謝っても遅いぞ!大戦士さまが来たからには、お前たちに勝ち目はないんだからな!」
周囲にいる獣人たちは、クロヒョウの少女の言葉に震えあがった。
タカの獣人たちは最初こっそり自分たちだけ逃げようとしたものの……。
少女に「お前たちの顔は覚えたぞ!逃げても無駄だ!草原の果てまで追い詰めて、その羽を一枚一枚むしり取って、最後に八つ裂きにしてやる!パンテラの復讐は徹底的だからな!」と言われたので、少しでも生き延びる可能性としてアドリアンたちの傍にいることを泣く泣く選んだのだ。
「実に勇敢なセリフをありがとう、マタタビを前にした子猫ちゃんみたいで可愛いよ。ところで、あの強そうな青年は誰かな?他の毛並み良好な猫さんたちが従ってるみたいだけど」
アドリアンの皮肉めいた言葉に、少女は反射的に反論しかけた。
「誰が子猫だ、私はれっきとしたパンテラの戦士だ!ふん、あれはな……我が部族の大族長だ!……って、大族長!?は!?え……!?ど、どうして大族長自らが……!?」
少女は顔を青ざめさせた。
大戦士の首飾りをしている青年……あれは紛れもなく、パンテラ部族の族長である青年、ゼゼアラだ。
まさか自分如きの為に、族長が直々に来るとは思わなかった少女は、身体を震わせてアドリアンを見る。
「お、お前!手紙になんて書いたんだ!?」
「あれ?あの時聞いてなかったのかい?」
アドリアンは楽しそうな表情で、手紙に書いた内容を少女に一字一句伝え始めた。
「親愛なる毛並み美しきパンテラ様へ」から始まる皮肉たっぷりの挑発的な文面を聞くにつれ、少女の表情はみるみる変わっていく。
「お……おま……お前、そんなことを大族長に……!?」
少女は怒りで顔を真っ赤にしつつも、この馬鹿な人間の無謀さに青ざめさせる。
「なんて馬鹿なことをしたんだ……。お前たちみたいな弱者が大族長様に挑むなんて、飛び石で山を崩そうとするようなものだぞ……」
「おや、心配してくれるのかい?」
アドリアンが軽やかに尋ねると、少女は尻尾を激しく振った。
「……心配などしてない!弱者とはいえ、虫けらのように殺されるのを見たくはないだけだ!」
それを心配しているというのだけれど、とアドリアンは苦笑する、何も言わない。
少女の心には優しさの種が宿っているのだろう。恐らく、この少女は悪人ではないのだ。ただ任務に忠実なだけ。
「……」
そうしていると、パンテラ族の戦士たちが集落に入ってきた。彼らは整然と隊列を組み、アドリアンたちと数十メートルの距離を開けて相対する。
彼らの金色の瞳は全てアドリアンたち四人組に向けられ、鋭い牙が時折日光を受けて光る。
集落の者たちは怯え縮こまり、テントの中や木陰に隠れてしまい、広場には緊張が満ちていた。タカの獣人たちも震えながらアドリアンの影に身を寄せている。
「やぁ!パンテラ大部族のみなさん!俺の『招待状』、見てくれたみたいだね!まさか大族長様が直々にお越しになるとはね。猫って普通、人の呼び声になかなか応じないものなのに!」
アドリアンは手を挙げてにこやかにそう言うが、パンテラの戦士たちは皆殺気を込めた視線でアドリアンを睨みつけている。
だが、そんな戦士たちを青年……大族長ゼゼアラが手で静かに制する。彼は冷静な表情を浮かべ、怒りの気配は微塵も見せていない。
その瞳に浮かんでいるのは、僅かな怪訝さだけだった。
「聞いていた通りエルフがいるが……人間まで?それに、魔族までいるとは……これはどういう状況だ」
彼の鋭い視線がレフィーラとケルナ、そしてアドリアンとメーラの姿を捉える。
多種多様な種族の組み合わせに眉を顰め、これは一体何の目的で……と逡巡するゼゼアラだが、自らの部族の少女を見て小さく首を振る。
そして、低く響く声で言った。
「貴様らが何者かは知らないが……クローネを返してもらおうか」
そうは言ったものの、ゼゼアラはクローネが簡単に返ってくるとは思っていなかった。
わざわざ捕らえたのだ、人質として利用しようとしてくるに違いない。何か取引を持ちかけてくるか、あるいは何らかの脅しに使おうとするだろう。
誇り高き部族ならばそんな卑劣な真似はしないが、相手は他種族だ。彼らは獣人の誇りなど持ち合わせず、卑劣な手段をよく使う。ゼゼアラはそう警戒していた。
しかし……。
「あぁ、そうだったね。さぁどうぞ、子猫ちゃん。お迎えが来たようだよ。大の大人が10人も来てくれるなんて、さぞかし大切にされてるんだね」
アドリアンは彼女を縛る縄を当たり前のように解くと、少女……クローネの背をぽんと押した。
その予想外の展開に、族長ゼゼアラも、当のクローネですら目を丸くして呆気にとられてしまった。
彼女はゼゼアラとアドリアンを交互に見て一瞬ためらったが、次の瞬間には黒い尻尾が風を切り、あっという間に仲間たちに合流する。
「クローネ、怪我は?」
「いや、特に……」
パンテラの戦士たちも困惑した表情で少女を迎え入れ、互いに顔を見合わせている。何かの罠か、策略かと疑う視線が光る。
彼女に傷がないことを確認したゼゼアラは、瞳をアドリアンに向け、訝し気に問う。
「なんつもりだ?」
「なんのつもりって……手紙に書いたじゃないか。子猫ちゃんをママとパパの元へ返してあげようと思っただけさ。招待状を出したら、大きな猫さまが連れだって迎えに来てくれるだろうって考えたんだよ」
アドリアンがやれやれと肩を竦めると、パンテラの戦士たちの怒りが一気に高まった。
彼らの尻尾が激しく左右に振られ、牙をむき出しにして低い唸り声を上げ始める。彼らの目にはアドリアンを引き裂きたいという欲望が露わに浮かんでいた。
「捕虜に傷を付けずに、返してくれたことには礼を言おう。だが……これで済むと思うなよ」
ゼゼアラの脳裏に、手紙の文面が蘇る。あのふざけた挑発的な言葉の数々。
「弱すぎて少し小突いただけで気絶した」「毛玉を吐き出すのに忙しい」といった侮辱。そしてこうして返したとはいえ、パンテラ部族の戦士を捕らえたという事実。
その二つがゼゼアラと戦士たちを引くに引けなくしているのだ。彼らの誇りが、このままの撤退を許さなかった。
「我々にも面子というものがある。廃棄集落に住む者たち、そして他種族とはいえ……部族の誇りに対する侮辱には裁きを受けてもらう」
ゼゼアラと戦士たちの殺気が膨れ上がり、草が揺れるような緊張が場を満たした。
彼らの手が武器の柄に伸び、身構える姿勢を取り始める。集落の獣人たちが怯え竦む中、アドリアンは言った。
「──そうだな、裁きは受けなくちゃならない」
アドリアンの態度が一変する。これまでの飄々とした様子は消え、黒い髪が風に揺れる中、瞳に鋭い光を宿した。
その顔には静かな怒りが浮かび、周囲の空気が一気に張り詰める。
「弱者を虐げ、自分たちの力だけを頼りに他を踏みにじる……そんな愚かな大戦士と、ただ強いというだけで傲慢になった部族にこそ……裁きという名の教育が必要だからね!」
不意に、風がピタリと止んだ。
枯れた一枚の葉が、ゆっくりと宙を舞い、地面に落ちる──。