集落は久しぶりの活気に満ちていた。広場に集まった獣人たちの顔には、忘れかけていた笑顔が浮かんでいる。
色とりどりの食べ物が積み上げられた前で、子どもたちが目を輝かせ、年長者たちも信じられないという表情で見つめていた。
その中心で、ウサギの少年……モルが両手を広げて立っていた。彼の長い耳は嬉しさに小刻みに震え、普段は臆病な声も今日は力強く響く。
「みんな!アドリアン様がこれを分けてくれたんだ!干し肉や保存食は冬に備えて取っておいて、果物やパンみたいなものは今日みんなで一緒に食べよう!こんなに恵まれたのは、騒動が起こってからずっとなかったよね!」
モルの言葉に、集落の獣人たちはおずおずと、それでも感謝の気持ちを胸に食べ物に手を伸ばし始めた。
子供たちは久しぶりの果物に歓声を上げ、老人たちは静かに頷きながら柔らかいパンを噛みしめていた。彼らの瞳には、喜びと共に微かな涙が光っている。
その光景を、アドリアンとメーラは集落の端から微笑みながら見ていた。朝日が彼らの背後から差し込み、長い影を草原に伸ばしている。
「自分が貰ったものなのに、惜しみなく周りに与えるなんて……素敵すぎるね。今の草原で生き残るには、ちょっと致命的な優しさかもしれないけど」
アドリアンはあくまでモル個人に、お礼をしたのだ。しかし、彼はそれを迷うことなく集落の仲間に分け与えた。
そればかりか、アドリアンの名を出して、恩を自分だけのものにしていない。そんな彼の姿を、アドリアンは眩しいものを見るように見つめていた。
「お、俺たちにもくれるのか……?」
鷹の獣人たちが遠慮がちに近づくと、彼らのかつての犠牲者であるモルは振り返り、明るい笑顔を見せた。
「はい、勿論です!みんな同じ草原に生きる仲間ですから。どうぞ、遠慮しないでください!」
モルの手には果物が握られ、それを差し出している。かつて彼を蹴飛ばした鷹の獣人は、気まずそうに顔を背ける。
その目には複雑な感情が浮かび、モルの気高さと優しさを直視できないようだった。しかし、他の獣人たちの和やかな様子に、徐々に彼らも溶け込み始めていた。
「大草原は、弱肉強食なんかじゃない。そんな単純な掟で語れるほど浅くはないんだ。モル少年のような、小さな体に大きな心を持った獣人たちが、この広い草原には沢山いるんだから」
アドリアンは目を細めて、何か遠い記憶を辿るように空を見上げていた。彼の目には懐かしさと、どこか切ない色が混じっている。
メーラは彼の横顔を見て、首を傾げた。アドリアンは以前、大草原に来たことがあるのだろうか……?
アドリアンが語る獣人たちへの理解は、単なる知識以上の何かを感じるのだ。
そうして、アドリアンたちも自然と獣人たちの輪に混ざり始めた。皆の間に緊張はなく、ただ共に食事を楽しむ時間が流れている。
「俺たちも一つ貰おうかな、いい?」
アドリアンが笑顔で尋ねると、モルは元気よく駆け寄ってきた。
「もちろん!アドリアン様とお姫様のものですから!好きなだけどうぞ!」
少年の無邪気な声に、アドリアンとメーラは顔を見合わせて微笑んだ。二人は差し出された果物をそれぞれ手に取り、その甘い香りを楽しんでいる。
メーラの頬が喜びで少し赤くなり、アドリアンは満足げに頷いていた。
近くではモルが、妹のペララと一緒に果物を分け合って食べていた。リスの少女の小さな口が果物の汁でべとべとになり、モルが手で優しく拭ってあげる姿は、この草原の混乱の中でもぬくもりを思い出させてくれる……。
その時、一人の老人がアドリアンたちに近づいてきた。草原の風に揺れる白い髭と、風化した角を持つシカの長老だ。
「アドリアン様……それに姫様。なんとお礼を言ったらいいのか……」
彼の瞳には、長い間見ることのなかった希望の色が宿っている。
「お礼ならモル少年に沢山もらったよ。そもそもこの食料は、俺からの『お礼』だったんだけどね」
アドリアンの言葉に長老は「はて?」と首を傾げ、言葉の意味を理解しかねている様子だった。
彼の困惑した表情を見て、アドリアンとメーラは視線を交わし、くすくすと微笑んだ。
「これだけの食料があれば、暫くは皆が飢えることはない……しかし、長くは持たないのがお恥ずかしい限りですじゃ」
長老は悲し気に言った。角に手をやりながら、彼は深いため息をついた。この食料とて、一時的なものにすぎない。
この草原の混乱が続く限り、彼らは常に飢えと恐怖に苦しむという事実を長老は痛いほど理解しているのだ。
しかし、アドリアンは「おや?」と首を傾げて言った。彼の顔には不思議そうな表情が浮かんでいる。
「何故だい?モル少年の話では、この集落の北に食料が取れる地域があるみたいだけど」
「そこは……その、パンテラ大部族が支配している領域です。我々が立ち入った瞬間に、彼らは我々を追い払うか、最悪の場合は命を奪われてしまいます。あの獣のような連中は容赦がないのですじゃ」
長老の悲しそうな顔を見て、アドリアンは驚くような素振りを見せる。
「なんだなんだ、そんなことか」
そして、にこやかに言った。
「それなら大丈夫!俺たちは退屈してたところでね。ついでにパンテラの部族の連中に『挨拶』してくるよ。彼らが好きそうな『力の言葉』で対話してみようじゃないか。猫って撫でると喜ぶらしいけど、大きめの猫は引っ張り倒す方が通じるかもしれないね」
その瞬間、周囲にいた獣人たちが一斉に息を呑み、場に静寂が広がった。
食べ物を手にしていた者たちは動きを止め、会話をしていた者たちは言葉を途切れさせた。みな、身体を硬直させ、アドリアンを見つめている。
「……え?はい?」
長老が、頬を引き攣らせてそう漏らした。
モル少年も身体を震わせ、長い耳を逆立てて目を見開いた。彼の手から果物が落ち、草の上を転がっていく。
そして、次の瞬間には鷹の獣人たちがアドリアンの周りを囲み、翼をバタバタとさせながら必死な形相で話し始めた。
「お、親分!?正気か!?だ、大部族相手に喧嘩売りにいくってのか!?」
「アンタは確かに強えぇよ!でも、俺たちみたいな三流戦士なら百人くらいなら倒せるかもしれねぇが、大戦士様は次元が違うんだぜ!あいつらは文字通り『怪物』だ!俺たちの命なんて朝飯前なんだよ!」
彼らの言葉には本物の恐怖が滲んでいた。大草原において、大戦士という存在は絶対的な力の象徴だった。
大戦士とは、人間でいう貴族階級に相当する獣人たち。しかし人間の貴族と決定的に違うのは、その地位が血筋や財力ではなく、純粋な「力」によって勝ち取られているという点だ。
大草原では、部族間の戦いや試練を通じて強さを証明した者だけが、大戦士の称号を得る。
そして、一人でも大戦士を擁している部族が「大部族」と呼ばれるのだ。大戦士の力は凡人の何倍もあり、一人で小さな部族全体を壊滅させることも珍しくない。
「そりゃあ怖いねぇ。猫さんがニャーニャー言いながら俺に向かって飛びかかってくる姿を想像したら、思わず手が震えるほど恐ろしいよ。あ、この震えは可愛いものを目にしたときの震えね」
しかしアドリアンは飄々とした表情で、そう言い放つ。彼の目には余裕の色が浮かんでいた。
「ア、アドリアン様……彼らの言う通りですじゃ。大戦士階級の獣人は、人間の想像をはるかに超えた存在……!一撃で岩を砕き、風のように速く動く戦士の極みなのですじゃ。いくら貴方様が強いといっても……」
長老が震える声でそう言いかけた、その時であった。
「アドリアーン!」
快活な少女の声が響き渡った。
金色のポニーテールを風になびかせ、エルフの少女……レフィーラが勢いよく駆けてくる。
「!?」
彼女の姿を見た瞬間、その場にいる全員の身体が硬直した。
いや、正確には彼女が担いでいる「モノ」を見てのことだった。
「お、お姉ちゃん……待って~!」
背後ではケルナが果物を両手に抱え、姉の背を必死に追いかけてきているが、最早その姿に注目する者はいない。
獣人たちの目は、全てレフィーラが肩に担ぐモノに釘付けになっていた。
「ふぅ~、遅くなっちゃった!でも、美味しそうな果物が沢山取れたよ!」
満面の笑みを浮かべてレフィーラが言った。その背後からやってきたケルナは、両手に抱えた色とりどりの果物を地面に山積みにしていく。
エルフの姉妹は、日常的な出来事のように振る舞っていた。
「……」
獣人たちは、彼女を遠巻きに見て、目をぱちくりとさせるばかりで誰も何も言わない。
そんな中、アドリアンは笑いを堪えるようにしてレフィーラに言った。
「レフィーラ……随分と大きな……ブフッ、あぁいや、その『果物』はどこで手に入れたのか聞いてもいいかな?特に、君が担いでる特大サイズの『果物』についてだけど」
「あぁ、この子のこと?」
レフィーラはそう言うと、よいしょっと声を出して地面に巨大な「果物」……ではなく、「一人の獣人」を降ろした。
黒い髪に黒い耳、そして長く優美な黒い尻尾。ヒョウの獣人の少女は気絶したのか、ぐったりとして動かない。彫刻のように整った顔立ちと引き締まった体つきは、ただの獣人とは思えない気品を漂わせていた。光沢のある黒革の装飾が施された上質な衣服を身につけている。
「この子はね、果物のなる樹の下で他の獣人を虐めてたの!この場所は我々の~っとか何だか言って!」
レフィーラはふんすと胸を張り、勝ち誇ったように言った。一方ケルナは、獣人たちの唖然とした表情や、恐怖で震える様子を見て、不安げな表情を浮かべている。
彼女の小さな口が「お姉ちゃん……やっぱりまずかったんじゃ……?」と小さく動いたが、声にはならなかった。
「えっと……あの、皆さん、この子のことを知っているんですか……?」
静寂が辺りを支配する中、メーラの柔らかな声が響いた。
そして、彼女の言葉に反応するように、モルが尻尾を震わせながら、小さな声で答えた。
「か、彼女は…パンテラ部族の……少女だと……思います」
獣人たちの表情がさらに青ざめていく中、状況を把握できないレフィーラが首を傾げた。
彼女の金色のポニーテールが風に揺れている。
「えっ?パンテラってなに?それって何か問題あるの?」
その純粋な問いかけに、長老は角に手をやり、鷹の獣人たちは互いに顔を見合わせて震え始めた。絶望的な状況に、集落全体が凍りつく……。
そして、アドリアンがブフッ!と大きな笑いを吹き出した。彼の肩は笑いで震え、目には涙さえ浮かんでいる。
「これはまた……素晴らしい『果物』を持ってきてくれたね、レフィーラ!」
アドリアンの笑い声だけが、静まり返った草原に響き渡っていた。