薄暮の光が落ちる獣人たちの集落は、大草原の風に揺れる簡素な住まいの集まりであった。
その中で一際目を引くのは、集落の中央に立つやや大きなテント。
他のものと比べれば少しばかり頑丈で、入り口には草原に咲く花々を編んだ飾りが下げられている。
かろうじて「長老の住まい」と呼べるほどの違いしかないそのテントの中に、アドリアンたち一行は腰を下ろしていた。
「助けていただき、ありがとうございますじゃ……」
シカ獣人の老人のしゃがれた声が土の上に敷かれた毛皮の上に響く中、アドリアンは出された茶をすすりながらにこやかに言った。
「俺はただ、可憐なる姫君の慈悲深きご意向に従って駒を動かしただけさ。ね、メーラ姫?」
老人は目をパチクリとさせ、アドリアンからメーラへと視線を移した。
草原の素朴な暮らしとは対照的な、美しい紫のドレスを身にまとう魔族の少女。
その隣には、木々の模様が施された緑の衣装に身を包んだエルフの姉妹。二人の服も質の良さが一目で分かる上等なもので、テントの中で一際目を引いている。
老人は何度か喉を鳴らし、恐る恐る尋ねた。
「その……貴方たちは一体何者か、お聞きしてもよろしいですかな」
アドリアンは軽く微笑むと、答えた。
「もちろん。俺たちはね……」
テント内に心地よい声が響き渡る中、アドリアンは自分たちの素性を明かしていった。
世界を巡り、シャドリオスに対抗する魔族の姫、メーラ。彼女に仕える騎士にして英雄、アドリアン。そしてエルフの守護者、レフィーラとその妹ケルナ。
老人はただ黙って、時折頷きながらアドリアンの話に聞き入っていた。
「なんと……そのようなことが」
老人は口をぽかんと開いたまま、信じられないという表情を浮かべた。しかし、先ほどの水場での戦いでアドリアンの非現実的な強さを目の当たりにしている彼の目には、次第に理解の色が浮かび始めた。
老人は幾度も頷き、半ば自分に言い聞かせるように納得していく。
「で、大草原の部族連合さんたちの様子が『少しばかり』おかしいっていうからさ、様子を見に来たら……なんとも素敵な光景が広がってるじゃないか」
アドリアンが肩を竦めて、言った。
「弱い者いじめに興じる鳥さんたち、内戦状態の国家。こんな状況をただの『少しばかりおかしい』と言うザラコスの楽観主義には感服するよ」
アドリアンは皮肉めいた口調で言いながら、テントの隅へと視線を移した。
そこには正座させられた鷹の部族の男たちがいた。先ほどまで威張り散らしていた彼らの姿はどこにもなく、肩と羽を縮こませ、膝の上で両手を揉み合わせている。
アドリアンの視線が彼らに注がれた瞬間、鷹の獣人たちはさらに小さくなるように背を丸め、思わせぶりな笑みを浮かべた。
「へ……へへ……アッシらを助けていただきありがとうごぜぇますだ、アドリアン様」
「これから我々の部族は貴方に従いますんでね……どうぞ小間使いとしてお使いくだせぇ」
水場で見せていた傲慢な態度はどこへやら、情けなく媚びを売る彼らの豹変ぶりに、アドリアンは呆れたように大きく溜息をついた。
なんともまぁ、よくこんな情けない真似が出来るものだ。
つい先ほどまで弱い者をいじめていた彼らが、今は犬のように媚びている。
……だが、彼らの行動はある意味では正しいのかもしれない。強い者に従うというのは、弱者の生存戦略の一つなのだから。それは草原の掟として長く受け継がれてきたものだろう。
しかし、そこに真の秩序はない。力による支配だけでは、いずれ崩れ去る。そんな光景をアドリアンは許すことができないのだ。
「貴方たち、面白いね!シカに鹿に兎に狐に狼……色んな人達がいるわ!これが一つの『部族』なの?」
レフィーラが不意に、そう言った。彼女の澄んだ目はテントの入り口に注がれている。
そこには、草食の獣人たちが身を寄せ合い、会話に聞き耳を立てていた。小さな子供や年配の女性も混じり、みな不安の入り混じった表情で中を覗き込んでいる。
しかしレフィーラの視線に気づくと、彼らは驚いたようにバタバタと散り、テントの周りに隠れた。ちらりと覗く頭や尻尾が、夕陽に照らされてテントの布地に影絵のように映っている。
「……そうですな、貴方たちが身の上を話したのだから、我々も話すべきですな」
シカの老人は俯きながら言った。
「この部族は、大草原に騒動が起こった後に出来たものなのです」
老人は深く息を吸い込み、遠い目をして話し始めた。その声は静かで、どこか諦めに似た色を帯びている。
「どれくらい前だったか……突如、大部族の一つが、リガルオン一族に反旗を翻したのが発端でした」
それから老人が語った事の顛末はこうだ。
かつての大草原は、強さの中にも一定の秩序が存在していた。リガルオン大部族の統治の下、弱い部族も含めて皆が共存していた。水場や狩場は公平に分け与えられ、争いは仲裁されていた。
しかしある日、突如として、とある大部族がリガルオンに反旗を翻した。彼らは「強者の権利」を主張し、より多くの領土と資源を要求したのだ。
──ここまでなら、大したことはない話だった。
一つの大部族が反旗を翻したところで大草原の秩序に然程影響はない。リガルオンの力は絶大だったからだ。
しかし、ここからが本番だった。反乱を起こした大部族に呼応するように、次々と他の大部族たちも離反し始めた。
蛇の大部族セルペントス、熊の部族大ベアラント、狼の部族大ウルヴァーン……次々と大草原の秩序から離れていったのだ。
気付けば、大草原は戦国時代に逆戻りしていた。
いくらリガルオン一族が強大とはいえ、大草原の大部分から敵対されては、身動きが取れない。統一された秩序は崩れ、各部族は自らの力と利益のために争い始めたのだ。
「今の草原は、弱肉強食……どの大部族に付くか判断を迫られ、弱小部族は蹂躙されるだけ……」
老人の声が震え、彼の目からポロリと一粒の涙が零れ落ちた。
「ここにいる者は、正確に言えば部族ですらないのです……。弱小部族の中でも、さらに弱く、誰からも見放された者たちが寄り集まった、草原の吹きだまりのようなもの」
彼の背中は長い逃避行と絶望の重みで丸まり、角も磨り減っていた。
アドリアンはそれを見て、彼や、その仲間たちがどのような扱いを受けてきたかありありと想像できた。水も満足に飲めず、食べ物を奪われ、昼も夜も恐怖に怯えながら生きてきたのだろう。
それを聞き、メーラやエルフの姉妹は憤りを隠せなかった。
「そんな……酷い」
「どうして、みんなで助け合わないんだろう」
秩序の中で保護されて育ったメーラやケルナはこの惨状を聞き、信じられない様子で目を見開いていた。彼女たちの世界では、弱者を守ることが当然のように行われていたからだ。
だが、命の奪い合い……戦場を経験してきたアドリアンは同情を宿しながらも、無言で頷いた。それはレフィーラも同じだった。普段は快活なエルフの少女も、森の守護者として戦いの厳しさ、そして極限状態での人の心理を知っている。
「まぁ、しょうがねぇよな。俺たちだって、大部族の奴らから逃げてここの最果てまで追い詰められたわけだしよ」
「おい、静かにしてろ……」
テントの隅では、さっきまで威張り散らしていた鷹の男たちも翼を縮こませて呟き、表情を暗くしていた。
彼らも住処を追われてここまで逃げてきた部族だったのだ。同じ弱者でありながら、わずかばかりの優位を得るために、より弱い者を虐げる……
アドリアンは目を細めた。弱い者がより弱い者を虐げる光景は、彼が前世で散々見てきたものだった。
「ところでご老人。キツネさんの大部族はどんな状況かな」
アドリアンが唐突に尋ねる。老人は少し驚いた様子で、角を掻きながら答えた。
「キツネ……?ルミナヴォレンでございますか」
大部族ルミナヴォレン。
キツネの特徴を併せ持つ大部族で、強靭な肉体が自慢の勇猛な戦士の集団だ。
草原の中でも特に戦闘能力に長けた部族として知られている。
「いや、あの筋肉自慢の汗まみれの集団じゃなくてね……。もっとふわふわした尻尾で、可愛らしい瞳をした、夜になると踊るような影を操る方のキツネさんたちのことさ」
「あぁ、フォクシアラですか……」
そして、ルミナヴォレンと対を成す大部族……それがフォクシアラだ。
ルミナヴォレンとは対照的に、幻術で相手を翻弄する大草原きっての魔法使い集団である。彼らの妖艶な幻術は、強力な戦士すら惑わせるほどだ。
「フォクシアラは、この状況でもリガルオン一族に従っている数少ない大部族の一つですな……」
その言葉を聞いて、アドリアンは安堵したように微笑んだ。彼の表情には、何か計画が浮かんだような光が宿っていた。
「アド……どうする?」
テントの中に微かに風が吹く中、不安げな表情でメーラがアドリアンを見上げていた。
それを見て、アドリアンはくすりと笑い、メーラに言った。
「どうしたい?『お姫様』」
その言葉を聞き、メーラは一瞬身体を硬直させた。「お姫様」という言葉が持つ意味を、彼女は十分に理解している。それは単なる呼び方ではなく、彼女自身が背負う役割だ。
目を閉じ、メーラは深く息を吸い込むと、確固たる意志を宿した瞳をアドリアンに向け、声を張り上げた。
「──我が騎士、アドリアンに命じます」
その声は、普段の彼女からは想像もつかないほど力強く、テント内に響き渡った。
ゆっくりと立ち上がったメーラは、ドレスの裾を軽く持ち上げながら一歩前に出る。彼女の小さな体は、不思議と威厳に満ちていた。
「この地に再び秩序をもたらしなさい。弱き者が虐げられぬよう、強き者が力を振るい過ぎぬよう、この草原に平和を取り戻すのです」
アドリアンは何の躊躇いもなく彼女の前で右膝をつき、頭を垂れた。その仕草には、どこか演技めいた大げささがありながらも、確かな敬意が宿っている。
「謹んでお受けいたします、我が姫」
その光景を、老人も、鷹の獣人も、そして入り口の隙間から様子を伺っていた弱い獣人たちも、呆気に取られたように見つめていた。
「まぁ、そうなるわよね」
レフィーラが腕を組みながら、どこか誇らしげに言った。彼女の瞳は楽しげに輝いている。
「メーラちゃ……あ、メーラ様とアドリアン様は、とっても優しいから、そう言うって信じていました……!」
普段は物静かなケルナも、珍しく声を弾ませて言葉を続けた。エルフの姉妹は朗らかな笑みを浮かべ、堂々と佇んでいる。
そうしてアドリアンが立ち上がり、状況を理解できずに茫然としている獣人たちに向かって言った。
「君たちは今、魔族の国と英雄という強大な後ろ盾を得た」
その言葉は、テントの中に希望の種を撒くように響いた。
そしてゆっくりと、アドリアンは老人に手を差し伸べる……。
「──さぁ、俺たちは何をすべきかな?」