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第百一話

──フェルシル大草原。


この広大な平原は、数多の獣人が住まう聖なる場所。

彼らにとってこの大地は単なる住処ではなく、魂の故郷であり、祖先から受け継いだ聖地そのものなのだ。


獣人たちは「部族」という単位で集まり、共に狩りをし、共に歌い、共に暮らしてきた。

黎明期には過酷な部族間抗争が続いた時期もあった。力のある部族が弱い部族を飲み込み、水場や狩場をめぐって血で血を洗う争いが絶えなかった。


そんな多様な獣人たちを統べる大部族が現れたのは、約三百年前のこと。

獅子の特徴を持つリガルオン大部族の初代王が、草原に散らばる部族に呼びかけ、大草原連合を形成したのだ。


『共に生きる大地は一つ。我らが互いを殺し合う理由などない』


彼の言葉は獣人たちの心を打ち、長く続いた抗争に終止符を打った。

それ以来、リガルオン大部族は草原の中心として、人間の王国やドワーフの帝国と対等に交渉し、獣人の地位向上に努めてきた。


大陸の中でも、強大な力を持つ部族連合。部族の力が合わせば、敵はいない。


だが、それも過去の話。


今の大草原は、力による支配と、混乱に満ちている──。




♢   ♢   ♢




フェルシル大草原の西方。大草原の端の、とある水場。

いつもは穏やかな雰囲気に包まれるその場所は、暴力の気配に満ちていた。

湧き水が作る小さな湖の周りに、十数人の獣人たちが集まっている。

一方の集団は水場を占拠するように立ち、もう一方の集団はおびえたように縮こまっていた。


「言っただろう?この水場は我らの場所だと……。何故、勝手に水を汲もうとしているんだ?」


横柄な声を上げたのは、鷹の特徴を持つ獣人の男だった。

彼の背には立派な翼が生え、鋭い鉤爪のような指先が日光を受けて輝いている。

彼の背後には同じく鷹の特徴を持つ獣人たちが並び、威圧的な態度で相手を見下ろしていた。


「し、しかし……この水場は古来より皆のものです。どの部族も自由に水を汲んできたはずでは……」


震える声で抵抗したのは、シカの角を持つ年老いた獣人だった。

かつては立派だっただろう角も、今は欠けて風化しており、彼の腰も深く曲がっていた。


「皆のもの……?いつまでそんな戯言を言っているんだ、弱者共は」


鷹の獣人の男は、冷笑を浮かべた。


「リガルオンの『すべては皆のもの』なんて綺麗事は終わりだ。これからは強い者が支配する。それがこの草原の新しい掟なのさ」


その言葉に、シカの獣人とその仲間たちは静かに俯いた。

彼らに抵抗する力はなく、ただ小さく震えることしかできない。


「水を汲みたければ、代価を払え。食料でも、毛皮でも、女でもいい。何か価値のあるものを差し出せば、慈悲深い俺たちが水を分けてやるよ」


笑い声が、無力な草食獣の一団を覆い尽くす。

空の自由を謳歌する鳥の獣人にとって、地に足をつける弱き種族など見下すべき存在に過ぎないのだ。


そう、これが本来の大草原の姿。

強き者が全てを得て、弱き者は怯えるだけ──


「お、お願いします!水がないと、妹が……!もう二日も水が飲めていないんです!」


だが、それでもなお諦めきれないのか、一人の獣人が前に出た。

ウサギの耳と尻尾を生やした、可愛らしい少年だ。

彼の目には涙が浮かび、小さな手にある革袋は震えながらも懇願するように差し出されている。

鷹の獣人は、ギロリと少年を見た。その鋭い目つきだけで、少年の動きが止まる。

猛禽類に睨まれた獲物のように、彼は体を強張らせ、その場でブルブルと震え始めた。


「いいか、ガキ。草原の掟を教えてやろう──」


鷹の男は背中の翼を大きく広げた。

翼から落ちる影が、ウサギの少年を暗闇で包み込む。


「!?」


突然、鷹の男の足が閃光のように動いた。

鋭い蹴りが、少年の小さな腹部にめり込む。


「あがっ……!?」


苦悶の声を上げ、少年は遥か後方へと吹き飛んだ。

柔らかな草の上に落ちた彼の体は、痛みに蹲り、小さく震えている。


「モル!」


シカの年老いた獣人が慌てて駆け寄り、少年の体を抱き起こした。

他の草食の獣人たちも心配そうに集まってくる。

少年の口から血が滲み、その赤い色が緑の草原に不釣り合いな色彩を落としていた。


「雑魚が、生意気な口を利くんじゃねぇ!草原の掟はシンプルだ……強いものが一番偉いってことよ!お前らみたいな弱者は、ただ従ってりゃいいのさ!」


鷹の獣人の言葉に、仲間たちが嘲笑を浴びせる。

怯えと悔しさで震える弱い部族たちの目に、涙が浮かぶ。

だが、その涙さえも流すことができず、ただ俯いて耐えるしかない。


──その時だった。


「強い奴が、一番偉い……ねぇ。じゃあ、俺はなんだろう?王様?それとも神様として崇められるのかな?」


聞き慣れぬ声が、鷹の獣人の背後から突如として響いた。

軽やかで皮肉めいた調子のその声に、鷹の男は眉をひそめ、ゆっくりと振り返る。


「……あ?」


その瞬間──


「うごぁぁぁ!?!?」


鮮やかな音が空気を切り裂き、鷹の獣人の体が吹き飛んだ。

彼の大きな翼が無様に広がったまま、大草原の空を水平に飛行する。

そして、先ほど自分が蹴り飛ばした少年の横に、派手な音を立てて落下した。


「ご……ごほっ……」


鷹の獣人の口からは白い泡が漏れ、気絶した目は宙を泳いでいる。


「なっ……!?」


残された鷹の獣人たちは、驚愕に声を詰まらせる。そして、一斉に振り返った。


「やぁ、調子はどうだい空の友よ」


そこには爽やかな笑みを浮かべる、一人の人間の青年……アドリアンの姿があった。

彼は片足を上げた蹴りの態勢のまま立っており、一撃で鷹の獣人を吹き飛ばしたのは間違いなく彼の仕業であることが一目で分かる。


「あ、蹴り飛ばしてごめんな。でも、子供を蹴ったんだから、おあいこだよね。いや、おあいこにするには俺の蹴りが少し強すぎたかな?でも、大丈夫だよな。お前たちは強いんだから」


アドリアンは手を振りながら、にこやかに声をかける。

その余裕ある態度に、鷹の獣人たちは呆気にとられたままだ。

仲間が一撃で気絶するなど、彼らにとって信じがたい出来事だった。


「キミ、大丈夫!?」


そんな中、ウサギの少年に寄り添うようにして一人の少女が駆け寄る。

ドレスを纏った魔族の少女──メーラが、優しく少年の上に手を翳した。

彼女の掌からは柔らかな緑の魔法の光が漏れ出し、少年の体を包み込んでいく。


「痛くないよ。すぐに良くなるからね」


メーラの穏やかな声に、少年は驚きと共に頷いた。

彼の体の痛みが徐々に消えていくのを感じながら、不思議そうな目でメーラを見つめている。


「人間と……魔族?」


シカの老人が小さく呟いた。


「こんな小さな子を虐めるなんて……許せないわ」


メーラの声に続いて、弱い獣人たちを守るように、エルフの姉妹が前に立ちはだかった。

レフィーラとケルナは肩を並べ、その美しい容姿に秘めた強い意志を感じさせる眼差しで、鷹の獣人たちを睨みつけている。


「エルフ……?何故、こんなところに」


鷹の獣人の一人が驚きの声を上げる。

だが、別の男は怒りに顔を歪め、激しく叫んだ。


「そんなこたぁどうでもいい……!地を這う人間風情が、よくもやってくれたなぁ!」


彼らは我に返ったように翼を大きく広げ、一斉に空高く舞い上がった。

彼らは徐々に高度を上げながら、空中からアドリアンたちを見下ろしていた。


「た、旅の御方……逃げなされ……!翼を持たぬ貴方たちでは、空からの攻撃には太刀打ちできませぬ!」


シカの老人が震える声で忠告する。

だが、アドリアンは微笑みを浮かべたまま、軽やかに肩をすくめた。


「お気遣いありがとうご老人!でも、心配いらないよ!英雄というものは空中戦も得意じゃないといけないからね。いつもは陸戦ばかりで退屈していたところなんだ」

「えっ……」


老人の驚いた声が風に消される中、アドリアンは空を見上げた。

そこには複数の鷹の獣人が旋回し、武器を手にアドリアンを狙っている。


「空から串刺しにしてくれるわ!地を這う者どもが!」


彼らの戦法はシンプルだが効果的だ。

空から急降下攻撃、高速で離脱する。翼を持たない種族では、この戦術に対処することは難しい。

彼らの種族が草原で長く優位を保ってきた理由の一つだ。


だが──


「わざわざ降りてこなくてもいいよ。俺も同じ高さで戦ってあげるからさ」


アドリアンはそう言うと、不思議な動きを見せ始めた。

彼の足元に風が集まり、まるで階段を上るかのように、リズミカルに空中へと上昇していく。

物理法則を無視した動きに、獣人たちの目が点になる。


「は……?」


鷹の獣人の一人が絶句する。

彼らの優位性である「空」を、この人間が易々と侵食してくるのだ。


英雄の加護、『風神』。


風神に愛された英雄は、風がある限り、全てが足場となり、縦横無尽に動けるのだ。

草原の風を乗りこなし、アドリアンはみるみるうちに鷹の獣人たちと同じ高さまで上昇していく。

鷹の獣人は、一瞬の動揺の後すぐに冷静さを取り戻した。


「……そうか、貴様は魔法使いか。はは、馬鹿なやつだ!非力なその身を晒すとはな!」


魔法使いならば、空を飛べてもおかしくはない。

だが……魔法使いが一人で前に出てきて、どうするというのだ。彼は空の支配者としての自信を取り戻し、仲間たちに合図を送る。

男たちが剣や槍を構える様子を見て、アドリアンはやれやれと肩をすくめた。


「今のセリフ、旅を始めてから何度も聞いたな。みんなにはもう少し創造性を発揮してくれると嬉しいんだけど……まぁ、無理だろうね」


アドリアンの皮肉気な言葉に、鷹の獣人たちの表情が怒りで歪む。

彼らは一斉に、獲物に襲いかかる鳥のように、鋭い武器を手に攻め込んできた。

空中を縦横無尽に動き回り、様々な角度からアドリアンに斬りかかる。


だが──


アドリアンの瞳が、煌めいた。


「はっ!!」


鷹の獣人たちが放つ剣の一撃を、アドリアンは微かな体の揺らぎだけでかわした。

最初の鷹の男が槍を突き出した瞬間、アドリアンはその柄を足で踏み、槍を支点に回転しながら蹴りを放った。

鮮やかな一撃が男の顎を捉え、彼は雲を突き抜けんばかりの勢いで吹き飛ぶ。


「うごぁっ!」


二人目と三人目が両側から襲いかかる。

だがアドリアンは両腕を広げると、彼らの間を見事な回転技で滑り抜けた。

その流れるような動きは、空中舞踏のようで、鷹の獣人たちの動きが重く見えるほどだ。


「き、貴様ァ!」


怒りに震える剣士の一撃を、アドリアンは指二本で受け止める。

剣を掴まれた獣人の顔から血の気が引いていく。

次の瞬間、アドリアンの手刀が彼の首筋を軽くたたき、彼は白目を剥いて落下していった。


「……な、なんだ、お前は……?」


一人の男が翼を震わせ、呟いた。

彼が抜いた短剣を見て、アドリアンは微笑んだ。


「その武器、素敵だね。でも振り回し方が間違ってるよ、こうするんだ」


彼は獣人の腕を軽く掴むと、優しく身体の向きを調整した。ダンスの指導者のように。


「あ、ありがとう……って、何しやが──」


獣人が混乱する間に、アドリアンの掌が彼の額に優しく触れ、彼もまた眠りについた。

地上からこの光景を見る者たちは、信じられない思いで見上げていた。

それは戦いというより、風の精霊が空を舞うかのような優美な指導──

一分とかからないうちに、十数人の鷹の獣人たちは次々と地上へと落下し、気絶していった。

最後に残ったのは、彼らのリーダーらしき男だけ。


「……え?」


彼は周囲を見回し、仲間たちが全て落下したことに今さらながら気づいた。

そして目の前には、微風に髪を揺らす人間の姿。

アドリアンは穏やかな笑みを浮かべ、彼に手を差し伸べていた。


「まだやるかい?」


アドリアンの穏やかな問いかけに、鷹の獣人はパチクリと目を瞬かせた。

彼の目はアドリアンの差し伸べられた手と、その優しげな微笑みの間を行ったり来たりしている。


数秒の沈黙の後──


「こ、降伏しまぁす!お、お命だけはお助けください!なんでもしますから!へへぇ……」


彼は突如として態度を一変させ、へいこらと頭を下げながらヘラヘラと笑った。

その豹変ぶりに、アドリアンは呆れたように首を振りながらも、納得したように頷いた。


「よろしい。じゃあ、降伏の前に、ちょっとしたお仕置きを。もちろん受け取ってくれるよな?」


次の瞬間、アドリアンの手が風を切り、鷹の男の後頭部を掴んだ。


「へ……?」

「悪い事したら……ごめんなさいって、頭をさげるのが礼儀ってもんだよね。特にあんな小さな子を蹴飛ばしたのなら、せめて大地に頭を擦りつけるくらいはしないと」


そのままアドリアンは上空から鷹の男の頭部を掴んだまま、地面へと急降下した。

そして地上に到達する寸前、男の頭を勢いよく押し付ける。


「うぎゃあーーーー!?」


嬌声的に土下座のような姿勢にされた鷹の男は、苦悶の声を上げた。

その額は地面に食い込み、羽根は滑稽なほど広がっている。

次の瞬間、彼の体から力が抜け、ふにゃりと地面に崩れ落ちた。


「……」

「な、なに……?」


シカの老人やウサギの少年たちは、ただ呆然と顔を見合わせていた。

彼らの顔には、まだ信じられないという表情が浮かんでいる。

アドリアンが気絶した鷹の獣人たちを丁寧に地面に横たえると、シカの老人が震える足取りで近づいてきた。


「あ、あなた様は……一体……」

「俺かい?そうだな……」


アドリアンは軽く笑いながら考え込むような仕草を見せる。


駆け寄ってくるメーラやエルフの姉妹を横目に捉えながら、彼は老人に向かって言った。


「力が支配する大草原を、力でねじ伏せて元に戻しに来た、皮肉な英雄様ってところかな。矛盾してるけど、世の中そんなもんだよ」


燦々と降り注ぐ太陽の下、アドリアンの声が草原に響き渡った。


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