フリードウインドの大きな門をくぐり抜けると、そこには地平線まで真っすぐに伸びる街道が広がっていた。
アドリアンたちは軽やかな足取りで、その道を進んでいく。
メーラは美しい風景に目を細め、レフィーラは野に咲く花を次々と指さして喜び、ケルナは影のように姉の後ろを静かについていく。
時折、彼らとすれ違う旅人たちの姿があった。
「獣人の人たちが多いね!」
レフィーラが興味深げに目を輝かせながら、アドリアンに向かって声をかける。
フリードウインドへと向かう商人の馬車、行商人の一団が行き交う中で、特に目立つのは獣人たちの姿だ。
猫や犬の耳を持つ者、キツネの尻尾を揺らす者、鳥の羽を生やした者──様々な種族の獣人たちが、小さな集団を作って行き交っていた。
「そうだろ?なにせこの道は、途方もなく広大な草原に繋がっているからね。彼らにとってはこの街道こそが、他の国に行く際に最も安全で、近い道なんだ」
アドリアンの言葉に、レフィーラは目を丸くした。
「フェルシル大草原かぁ。アドリアンは行ったことがあるの?」
レフィーラの問いかけに、アドリアンは遠くを見つめるような目をして、風に髪を揺らした。何かを思い出すような、懐かしむような表情が、彼の顔に浮かぶ。
メーラはそんなアドリアンの横顔を見て、首を傾げた。
なにやら獣人の国に詳しいようだが……いつ大草原に行ったのか、メーラは知らない。
シャヘライトの運搬で訪れたことがあるのだろうか?でも、そんな話は聞いたことがない……。
「……?」
メーラが首を傾げながらアドリアンの言葉を考えていると、道の向こうから獣人の一団が近づいてくるのが見えた。
虎の縞模様を持つ男性は力強い足取りで先頭を歩き、その隣には猫の特徴を持つ女性が軽やかに歩き……。
その後ろにはシカの角を持つ細身の獣人や、巨大な熊のような体格の獣人が続いている。
「レフィーラ、俺が獣人の国に行ったことがあるか気になるようだけど……言葉より行動で示した方が早いだろうね。すぐに答えが分かるから、まぁ見てなよ」
そう言うや否や、アドリアンは前方から近づいてくる獣人の一団に向かって、不思議な動きを見せ始めた。まず、独特のリズムで口笛を三回吹き、続いて右手を胸の前で円を描くように回した。
獣人たちは足を止め、互いに顔を見合わせる。
特に先頭を歩いていた虎の獣人は、瞳を細め、アドリアンをじっと見つめた。
「大地の民よ。お前の友は?」
低い声で投げかけられた問いに、アドリアンは微笑みながら答える。
「草原の風の子たちだよ。やぁ、旅は順調かい?」
アドリアンの言葉に、一団は一気に表情を和らげた。
虎の獣人が大きく笑うと、熊の獣人が力強く肩を叩き、猫の獣人の女性は嬉しそうに尾を揺らし始める。
「まさか人間が草原の挨拶を知っているとは!しかも随分と古風だな!」
「どこで覚えたんだ?」
「獣人の友がいるの?」
獣人たちはたちまちアドリアンを取り囲み、古くからの知人のように親しげに会話を始めた。
メーラとエルフの姉妹は唖然とした表情で、その光景を眺めていた。
いつからアドリアンは獣人の言葉や習慣をこれほど熟知していたのだろう?
「キミたちは、これからフリードウインドに?」
アドリアンの問いかけに、虎の獣人は頷いた。
「あぁ、俺たちは草原の品をこれから売りに行くところなんだ。乾燥させた薬草や、家畜の皮革に、手作りの装飾品もある」
彼は背負った大きな荷物を指さした。その袋の端からは、色鮮やかな布地や、手作りのアクセサリーが覗いていた。
レフィーラは獣人たちの様子を注意深く見ていた。
「アドリアンって不思議ね……どんな人とも、すぐに仲良くなっちゃう」
レフィーラの言葉に、メーラは頷く。
「アドは、どんな相手でも打ち解けるんです……でも、獣人の人ともあんなにすぐ仲良くなれるなんて」
基本的に、獣人というのは他種族を容易には信用しない。特に初対面の相手には警戒心を隠さないことで知られている。
フリードウインドで生まれ育った獣人は、人間やドワーフとの共存に慣れているだろうが、大草原に住まう獣人たちは他種族に対して警戒を露にすることが一般的だ。
しかしアドリアンの周りにはすでに数人の獣人が集まり、親しげに会話している。
シカの角を持つ獣人は、アドリアンに何かの種を見せており、猫の女性は彼女が作ったという首飾りを手にして説明していた。
「えっと、貴女たちはこれから大草原に行くの?」
猫の特徴を持つ女性が、メーラたちにも興味を示して尋ねてきた。
彼女の緑色の瞳はキラキラと好奇心に満ちている。
「あ、はい!私たちは獣人の国を訪ねる予定なんです」
メーラが答えると、獣人たちは再び顔を見合わせた。
一瞬の沈黙の後、シカの角を持つ獣人が静かな声で言った。
「今、大草原は少し複雑な状況なんだ。行かない方がいいと思うが……」
その言葉に今度はメーラたちが顔を見合わせる番であった。
アドリアンは溜息を吐きたい気持ちを堪えながら、獣人に尋ねた。
「それは興味深いな。どんな『楽しい』出来事が起きているのか、もう少し詳しく聞かせてもらえないかな?」
アドリアンの問いに、獣人たちは互いに視線を交わし、どこか言いづらそうな表情を浮かべた。
沈黙が流れた後、リーダー格らしい虎の獣人が一歩前に出て、重々しい声で口を開く。
「……実はな、今大草原は混乱の真っただ中なんだ。異なる部族同士の争いが激化して、もはや内戦と言っていい状態になっている」
「えっ……」
内戦。その重い言葉にメーラやエルフの姉妹は目を見開き、息を呑んだ。
アドリアンは目を細め、何かを察したような表情になる。
──獣人の国……またの名をフェルシル部族連合。
その名の通り、大草原に住まう獣人部族の連合国家だ。
かつては部族間の抗争が絶えず、血で血を洗う争いが続いていた大草原。
しかし今は、ある一族の下で部族が一丸となり、大草原を脅かす外部の勢力に対抗している……はずだった。
アドリアンの眉間に皺が寄る。どうやら、彼の知る大草原の姿とは、現実が大きく異なっているようだ。
「内戦ね……。リガルオンの穏やかな統治方針が気に入らないってことかな。どこの大部族が反旗を翻したんだい?アクィラント?それともセルペントス?」
アドリアンの言葉に、獣人たちは驚きの表情を浮かべた。
単に内戦という事実を知っているだけでなく、部族の名前まで出してくるとは。
獣人たちは互いに視線を交わし、アドリアンの知識の深さに驚きながらも、事情を説明し始めた。
「あんたがそこまで知っているなら、話してもいいかもしれない……」
虎の獣人が低い声で言い、周囲の仲間たちが頷く。
「それがな……事態はもっと想像以上に深刻なんだ」
虎の獣人はため息をつき、声を落として続けた。
「特定の部族が反乱を起こしたというわけじゃない。有力部族のほとんどが連合から離脱して、互いに牙を剥き合っているんだ。小さな部族は、どの大部族に従うか、あるいは中立を保つかの苦渋の決断を迫られている……」
アドリアンは一瞬沈黙した後、やれやれと肩を竦めて言った。
「……そりゃ、想像を超えた『大した』事態だね。単なる内戦じゃなく、国家崩壊とでも言うべき状況ってことか」
獣人たちは暗い表情で頷いた。
アドリアンの頭の中では、様々な思考が駆け巡っていた。
有力部族のほとんどが連合を脱退して互いに争っているとなると、それはもはや連合としての体裁さえ保てていない。
国としての形を失い、戦国時代と化している大草原。
彼の前世の記憶にあった、リガルオンの統治下で一丸となっている獣人たちの姿とはあまりにもかけ離れていた。
「私たちはみんな小さな部族の出身なの。大戦士様なんていないし、有力部族から見れば小さな村のような存在。だから行商という名目で、実際は大草原から逃げ出してきているようなものなんだ」
猫の獣人の女性が、尻尾を垂らしながら静かに語った。彼女の言葉に、他の獣人たちも沈痛な表情で頷く。
メーラは彼らの荷車に目を向けた。確かに行商品だけでなく、毛布や鍋釜、衣類の束など、生活に必要な道具がぎっしりと積まれている。これは旅商人の荷物というより、難民の持ち物に近かった。
フリードウインドへ向かう獣人が多いと感じていたのは、こういう事情があったからなのだ。
アルヴェリア王国とグロムガルド帝国は、大草原の獣人と敵対関係にある。そうなると、彼らが逃げられる先は限られてくる。
種族間の垣根が低いフリードウインドの街は、彼らにとって数少ない避難先の一つなのだろう。
(ザラコスめ……とんでもないことを丸投げしてくれたな!)
アドリアンの思考が巡る。
ザラコスから獣人の国の状況を聞いた時は、どうせ政治的な小競り合いか権力争いだろうと高を括っていた。しかし実際の事態は、彼の想像をはるかに超えていた。
この場にザラコスがいないのが惜しまれる。いたら、散々文句を言ってやれたのに。
「そういう訳だ。もし、大草原に行くのであれば、くれぐれも気を付けてくれ。大地の友よ」
獣人たちが伝統的な別れの言葉でアドリアンに語りかける。
「ありがとう、草原の友よ。フリードウインドの街はきっと君たちを温かく迎えてくれるだろう」
アドリアンも獣人の言葉で丁寧に応え、彼らに別れを告げた。
獣人の一団は肩を寄せ合うようにして、フリードウインドの方角へと歩み去っていく。
うなだれた姿で故郷に背を向ける彼らの後ろ姿には、難民の悲哀が滲んでいた。
彼らの背中を見ながら、ケルナは小さく呟いた。
「あの獣人さんたち……かわいそうです……」
その声は風に消されそうなほど小さかったが、それでも彼女の純粋な言葉はアドリアンの耳に確かに届いていた。
「なんとかしてあげたいけど……」
メーラの声には無力感が滲んでいた。獣人たちの苦境を目の当たりにして、胸が締め付けられる思いだったのだろう。
「エルフの国も獣人の人たちを受け入れてくれるとは思うけど……故郷から離れるのは可哀そうだわ」
レフィーラの言葉には珍しく沈んだ調子が混じっていた。
森と共に生きるエルフにとって、故郷の地を離れることがどれほど辛いことか、身に染みて理解できるのだろう。
そんな重苦しい空気の中、アドリアンはおや、と不思議そうな表情を浮かべた。
「なにを言っているんだい、みんな。彼らはすぐに大草原に帰れるのに」
アドリアンの突拍子もない言葉に、三人は「え?」と声を揃えた。
彼女たちの驚きの表情を見て、アドリアンはいつものように余裕綽々とした笑みを浮かべる。そして、楽し気な声で言った。
「これから、この英雄アドリアンが、大草原に『秩序』という素敵な贈り物を届けてあげるんだから。もふもふの獣人さんたちに、仲良くすることの大切さを思い出させてあげないとね」
アドリアンの声色は明るい響きであったが、その目には確かな決意が宿っていた。