朝陽が街並みを黄金色に染め上げる中、工房の前にアドリアンたちの姿があった。
旅の支度を整え、新たな冒険へと踏み出そうとする四人。
その前には、見送りに出てきたアデムとライラの姿がある。
「いい朝だね。太陽が眩しすぎて、二日酔いのドワーフには過酷なくらいにね」
アドリアンは伸びをしながら、皮肉めいた笑みを浮かべる。
その言葉に、アデムは「うるせぇ」と言いつつも、口元には笑みが浮かんでいた。
「アデムさん、ライラさん!美味しいお料理ありがとうございました!」
メーラが深々と頭を下げる。その仕草は、すっかり魔族の姫としての品格を漂わせていた。
「泊めてくれてありがとう!生のドワーフさんたち!」
「えっと、その……ありがとう……」
レフィーラも嬉しそうに両手を振り、ケルナも小さく会釈を返す。
「生のドワーフ」という言葉の意味は分からないながらも、アデムとライラはその純粋な感謝に微笑んで応えた。
「なに言ってんだい。子供が遠慮なんかするんじゃないよ!」
ライラが両手を腰に当て、誇らしげに言う。
その横で、アデムも髭を撫でながら頷いていた。
「そこの生意気な魔法使いから、お宝みたいなシャヘライトまで頂いちまってさ。こっちが恐縮しちゃうよ」
ライラの豪快な声に、アデムも大きく頷いた。
「これで当分は心配いらねぇな。工房も繁盛させて、酒も飲み放題ってワケだ。がはは!」
アデムの陽気な笑い声が、朝の工房街に響き渡る。
そんな彼らの姿に、アドリアンたちも思わず笑顔になる。
「それじゃあ、行くとするか」
アドリアンの言葉に、一同が頷く。
彼らが振り返ると、アデムとライラは工房の前で大きく手を振っていた。
街路に出て数歩進んだところで、メーラはふと立ち止まり、後ろを振り返った。
彼女の瞳には、どこか物悲しい色が浮かんでいる。また会えるかな、という思いが、表情に滲み出ていたのだろう。
「心配ないよ、また会えるよ。この街は大陸の十字路だからね。どこに行くにしても、また必ず通ることになる。むしろ、飽きるほど立ち寄ることになりそうだ」
その言葉に、メーラは安心したように微笑み、再び前を向いて歩き始める。
活気あふれる街並みには、もう朝から人々の往来が始まっていた。
ドワーフの鍛冶屋が店先で金属を打ち、獣人の行商人が珍しい品々を声高に売り込んでいる。
そんな中、レフィーラはきょろきょろと周囲を見回しながら、突然立ち止まった。
「アドリアン、街を出発するんだよね?出口はあっちだよ?」
彼女の指差す方向とは逆に、アドリアンは街の中心部へと向かっている。
彼女の言葉にアドリアンは微笑み、言った。
「実はね、街を出る前にちょっとした用事がある。旅の食材や道具を市場で揃えるっていう、なんとも旅人らしい行動をね。もしキミが野草だけで生きていけるっていうなら、今すぐ出発してもいいけど」
フリードウインドの街から獣人の国までは、そう遠くはないものの、近いわけでもない。
旅には、それなりの準備が必要なのだ。
レフィーラは自分がひもじく野草を食べている光景を想像して、首を勢いよく横に振った。
「や、野草なんてヤダ!美味しいものがいいに決まってるじゃない!」
そうだろうね、とアドリアンは苦笑しながら頷き、一行は市場へと向かう……。
やがて彼らの前に、フリードウインドの中央市場が広がってきた。
そこは街全体の縮図のような場所で、あらゆる種族の商人が軒を並べている。
食料品から道具、装飾品まであらゆるものが揃う、まさに交易の中心地である。
「わぁ!すごい!」
魚売りの声が大きく響き、果物を並べた露店からは甘い香りが漂う。
レフィーラは両手を広げ、まるで市場そのものを抱きしめたいかのように飛び跳ねた。
その勢いのままに、彼女はケルナの手を引いて露店の間を駆け回り始める。
「お姉ちゃん、待って……!」
小さな声で呼びかけるケルナの言葉も届かないほどに、レフィーラは市場の魅力に引き込まれていった。
二人の姿が人混みの中に消えていくのを見て、アドリアンは肩をすくめる。
「うーん、彼女はいつも元気だな。メーラも少しは羽目を外して、はしゃいでみたらどうだい?」
「わ、私は『お姫様』だから……」
アドリアンは小さく笑うと、市場の奥へと歩き始めた。
二人は徐々に必要な物を集めていく。長持ちする干し肉や果物、旅で重宝する調味料の数々。
時折、彼女の目が何かに惹かれるのを見て取ると、アドリアンは黙ってそれを買い足していく。
それに気づいたメーラが恥ずかしそうに目を伏せる様子は、どこか幼い日々を思い出させる……。
「ねぇねぇお姉さん。その果物、もう少し安くならない?」
アドリアンは年配の女性が切り盛りする果物屋の前で、無邪気な笑顔を浮かべていた。
白髪交じりの女性は腕を組み、あごを突き出して商売人らしい厳しい表情を作っている。
「アンタみたいな若造に負けるほど、この私は甘くないよ」
「そう言わずに、もう少し考えてくれない?ほら、お世辞ならいくらでも言うからさ」
アドリアンは冗談めかして肩をすくめる。
そんなやり取りを間近で見ていた女性は、ふとアドリアンの顔をじっと見つめた。
「待てよ……アンタ、もしかして……」
アドリアンの表情が一瞬こわばる。
そして──。
「街を救った大魔法使いじゃないか!」
女性の声が市場に響き、周囲の人々が一斉に振り向く。
「アンタ英雄のくせにケチだね!」
女性は豪快に笑い、果物を山盛りに袋に詰め始めた。
「実は英雄って儲からなくてね。危険な目に遭っても報酬はなかったりするんだよ」
アドリアンの皮肉めいた弁解に、女性は笑いながら首を振る。
「冗談がうまいねぇ!ほら、おまけもつけとくから。この街を救ってくれた恩は忘れないよ!」
笑い声が交わされる中、メーラはそんなアドリアンの姿を羨望の眼差しで見つめていた。
誰とでもすぐに打ち解け、笑顔を引き出すその能力は、まさに魔法のようで……。
「……!?」
突然、メーラの表情が凍りついた。
市場の大通りに一台の馬車が疾走する音が響き、その前方に――杖をついてヨロヨロと歩く少年の姿が見えたからだ。
「アド!」
メーラの叫び声が響いた時には、アドリアンはすでに身をひるがえしていた。
風のように彼の体が通りへと飛び出す――
「はっ!」
彼の腕が少年の小さな体を抱き上げ、馬車の轍から引き離した瞬間、車輪がかすめるように通り過ぎていく。
馬車の御者は振り返りもせず、そのまま市場の向こう側へと姿を消していった。
「おぉ、誰かが子供を救ったぞ!って大魔法使い様じゃねぇか!」
「おいおい、なんだあの馬車!小さな子を轢くところだったのに、何も言わずに去っちまったぞ!なんて野郎だ!」
たちまち人だかりができ、驚きの声と憤りの声が入り混じる。
そんな騒ぎの中心で、アドリアンはゆっくりと少年に問いかける。
「大丈夫かい?」
「は……はい……」
雪のように白い髪が風に揺れ、紅玉のような瞳が不安げにアドリアンを見上げる。
メーラよりもさらに幼い年齢に見えるその少年……華奢な体に着せられた服は、明らかに上等な素材で仕立てられた男児用の衣装。
だが、その高価な服とは対照的に少年の顔には土埃がこびりつき、その白い髪も所々絡まってしまっている。
「杖、落ちていましたよ」
メーラが走り寄り、通りに落ちていた杖を少年に差し出した。
片足を引きずるようにして体を支え、よろめきながらも姿勢を正す様子からは、片足が不自由であることが見て取れた。
「ありゃ、よく見りゃシルバークラウン商会のマルス坊ちゃんじゃねぇか」
人だかりの中から声が上がる。
その言葉に、少年──マルスと呼ばれた子は、ハッとした表情を見せた。
しかしすぐに、子供らしからぬ落ち着きを取り戻し、丁寧な表情を浮かべる。
「申し訳ありません、お騒がせしてしまいましたね」
背筋を伸ばし、アドリアンと群衆に向かって深々とお辞儀をする姿は、小さな大人を思わせる。
幼い頃から厳しいしつけを受けてきたのだろう。その礼儀正しさは、彼の年齢からは想像できないほどだ。
「キミが謝ることはないさ。悪いのはキミの命より急ぎの用事があったらしい、あの親切な馬車なんだから」
アドリアンの皮肉めいた言葉に、マルスは一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐに小さく微笑んだ。
「助けていただき、本当にありがとうございます。大魔法使い様」
少年の言葉に、アドリアンは少し意外そうな表情を浮かべた。
「俺のことを知っているのかい?子供向けのおとぎ話にまで登場する有名人になってるのかなぁ」
「それはもう。貴方はこの街では有名な御方ですから」
マルスの返答は流暢で、まるで大人と話しているかのような印象を与える。
その堂々とした態度に、メーラは思わず感嘆の息を漏らした。
「大魔法使い様!マルス坊ちゃんはね、幼い頃に事故に遭っちゃって、それ以来足が不自由なんだよ。それでも毎日がんばってるんだ」
「金持ちの商会の坊ちゃんなんだけどな、こんな市場に来て、俺たちみたいな小商人とも商売の話をしてくれるんだ。この歳でもう商才があってね、助言もピカイチなのさ」
周囲の声には、この少年への愛情が滲んでいた。
驚くべきことに、この幼い少年が市場の商人たちと対等に商売の相談に乗れるほどの知恵を持っているらしい。
アドリアンはマルスを改めて見つめた。白い髪と紅い瞳。華奢な体と不自由な足。
そして、年齢に似合わない落ち着きと知性。彼の中には、どこか特別なものが宿っている……。
「あはは……そんな大したものではないですけどね。ただ、父譲りの商売の知識があるだけで」
彼がそう言った矢先だった。
「マルス様!」
甲高い叫び声が市場に響き渡る。
群衆がざわめきながら道を開けると、そこから一人の女性が息を切らせて飛び出してきた。
長い金髪が風に靡き、整った顔立ちは一瞬エルフかと見間違えるほどの美しさ。
だが彼女の耳は丸く、純粋な人間であることを示していた。
黒と白を基調としたメイド服は高級な生地で仕立てられ、その襟元には上流家庭の使用人であることを示す紋章が光っている。
「あぁ、申し訳ございません!私が目を離したばかりに……」
彼女はマルスの前に跪くように身を屈め、慌ただしく少年の身体を確かめる。
埃の付いた服を払い、髪を整え、顔に付いた汚れを小さなハンカチで拭う様子からは、深い愛情と責任感が滲み出ていた。
「……」
メーラはそんな光景を見つめながら、胸の内に温かいものを感じていた。
この白髪の少年は、周囲から本当に愛されているのだ。
市場の商人たちの親しげな声、そしてこのメイドの必死な様子——マルスという少年の周りには、確かな絆が存在していた。
「ねぇアド、あんな小さい子なのに、みんなから信頼されてて凄い……アド?」
メーラはアドリアンの顔を見上げた。
しかし、彼の目は少し細められ、マリーという名のメイドに向けられていた。
その表情には、どこか思案するような、何かを見抜こうとするような色が滲んでいる。
……なんだろう?
メーラが首を傾げる一方で、マルスはメイドに向かって穏やかに語りかけていた。
「大丈夫です、マリー。この方が私を助けてくださったんです」
マルスの言葉に、マリーは慌ててアドリアンに向き直った。
「ま、まさか……大魔法使い様でいらっしゃいますか!?」
その声には、驚きと畏敬の念が込められている。
彼女は深々と腰を折り、貴族に対するかのような丁寧な礼を取った。
その瞬間、アドリアンの表情が思案気な表情から一転、にこやかな笑みへと変わる。
まるで仮面を付け替えるかのような、その素早い変化には誰も気づかなかった。
「大魔法使いなんて大袈裟だよ。ただの旅人さ」
「なんとお礼を言えばいいか……そうだ、是非私共の屋敷に御招待させていただきたく……」
マリーの言葉を、アドリアンは軽く手を上げて制した。
「有難い申し出だけど……実は、これから世界を救いに行くという、ちょっとした用事があってね。救世主業も忙しいもので、なかなか優雅にお茶を楽しむ暇もないんだ」
「しかしそれでは、私の気が晴れません。何か恩返しを……」
「何を仰る。貴方のような、背中から壮麗な翼が生えていてもおかしくないほどの美しいメイドさんにお礼を言われただけで、この英雄の心は満たされているというものですよ」
アドリアンの歯の浮くような甘い言葉に、周囲から笑い声が沸き起こった。
市場に集まった人々は、この思いがけない出会いを楽しむかのように、次々と声を上げる。
「大魔法使い様がマリーちゃんを口説いてるぜ!」
「英雄様もマリーちゃんの可愛さには敵わねぇみたいだな!」
そんなヤジが飛び交う中、マルスは小さく微笑んでいた。
「あはは、良かったねマリー。大魔法使い様に口説かれて」
マルスの茶目っ気のある言葉に、マリーの頬が真っ赤に染まる。
「まぁ、翼が生えてそうなどと、そのようなお言葉……」
彼女は恥ずかしさと困惑が入り混じったような表情で、視線を泳がせていた。
「むぅ……!」
メーラは頬を可愛らしく膨らませながら、アドリアンとマリーのやり取りを見つめていた。
いきなり見知らぬ女性を口説くなんて……。最近、アドはどこに行っても女性にだらしなくなっている気がする。
帝国でもあんなに皇女様に甘い言葉をかけていたし、今度はメイドさんまで。どうしてそんなに女性にちやほやするのだろう──そんな複雑な感情がメーラの胸の内を駆け巡る。
「そういうわけで……おっと、仲間も戻ってきたようだ。世界の運命も大事だけど、彼女たちのおやつタイムはさらに重要でね。そろそろお暇させていただくかな」
アドリアンの視線の先には、両手いっぱいに紙袋を抱えたレフィーラとケルナの姿が見えた。
袋からはキノコや果物が溢れんばかりに詰め込まれている。
「これだけ買えば大丈夫だよね~」
「お姉ちゃん、買いすぎだって!」
どうやらとんでもない量の食料──正確にはおやつを買い込んでいたらしい。
アドリアンは苦笑を浮かべると、メーラの手を引いてエルフの姉妹へと歩み寄った。
「大魔法使い様!この恩は決して忘れません。次にこの街にいらした際には、必ずや恩返しをさせてくださいねー!」
マルスの透き通るような声が、アドリアンの背中に届く。
「シルバークラウン商会の屋敷にて、英雄様にふさわしい歓待の準備を整えてお待ちしております」
マリーの丁寧な言葉にも、アドリアンは振り返り、微笑みながら応えた。
「是非その歓待を受けたいものだね!ところで、その歓待って、幾らくらいするんだい?実は英雄も財布の中身は寂しいもので、おやつ代に消えちゃったんだ」
アドリアンの予想外の言葉に、マルスとマリーは一瞬呆気にとられた表情を見せる。
市場の人々も互いの顔を見合わせ……次の瞬間、爆発するような笑い声が辺りを包み込んだ。
「がはは!なんてケチくせ英雄だ!」
「そういえばアンタ、前にも他人に施しすぎて無一文になってたな!」
人々の笑い声に送られながら、アドリアンたちは市場の通りを歩いていく。
その温かな雰囲気の中、レフィーラが首を傾げてアドリアンに尋ねた。
「ねぇねぇ、何かあったの?」
「いや……」
アドリアンはゆっくりと答えながら、ちらりと背後を振り返った。
まだ手を振り続けるマルスとマリーの姿が、人混みの中に小さく見えている。
「英雄らしく、子供の命を救い、ついでに美しいメイド嬢を口説くという、いつもの日課をね」
「ナンパ!?アドリアンったら、私とメーラちゃんっていう可愛い子がいるっていうのに、まだ他所の女の子に手を出すつもり!?」
「……そうなんです!アドは最近女性にだらしなさすぎて……!」
「ふ、二人とも落ち着いて……」
ケルナの遠慮がちな声も交えて、三人の声がアドリアンを取り囲む。
その声を聞きながらも、アドリアンは視線を前方へと戻した。
そして、一瞬だけ目を細める──
「違和感がないのが、違和感……か」
アドリアンのポツリとした呟きは、レフィーラとメーラの賑やかな声に掻き消されてしまった。
彼の眉間に刻まれた思案の表情は、まるで幻のように一瞬で消え去り、代わりに軽やかな笑みが浮かび上がる。
「さて、そろそろ獣人の国を目指す時間だね。みんな、準備はいいかい?」
メーラが頷き、レフィーラが嬉しそうに飛び跳ね、ケルナが小さく微笑む。
彼らの姿に、フリードウインドの市場を行き交う人々が手を振った。
街の喧騒が彼らを見送るように、朝市の賑わいが広がっていく。
街の門をくぐり、一行はフリードウインドを後にした。
目の前には、地平線まで広がる道が伸びている。
人間の国、ドワーフの帝国、そして今度は獣人たちの国へ。
アドリアンは青空を仰ぎ見ると、次の冒険への期待を込めて言った。
「さぁ、行こうか。『フェルシル大草原』へ──」