星空の下、小高い丘の上に建つ小屋の一室で、メーラとエルフの姉妹が寛いでいた。
「はぁ、良かった!野営もいいけど、屋根があってベッドで寝られるだなんて、贅沢だよね!」
レフィーラは無邪気にベッドの上で跳ね回る。
メーラとケルナはそんな彼女を半分呆れたような、半分微笑ましいような目で見つめていた。
だが不意に、ケルナが首を傾げて言う。
「そういえばアドリアン様と、ドワーフのおじいさんは何処に行ったんだろう?」
「あれ……?」
その言葉に、メーラも気付く。
先ほど夕食を共にした時は確かに一緒にいたのに、いつの間にか二人の姿が見えなくなっていた。
「さぁ。男二人で内緒の話でもしてるんじゃない?代わりに私たちは、女同士で内緒の話でもしてようよ!」
どんな時でも明るさを失わないレフィーラの言葉に、メーラは思わず安堵の笑みを浮かべたのであった。
♢ ♢ ♢
花々は月光を浴びて幻想的な輝きを放っていた。
その花畑の中央で、老人は月の明かりを頼りに、一心不乱にキャンパスに向かっている。
筆を走らせる手は、年齢を感じさせないほどの確かさで動いていた。
「昼の太陽に照らされた花畑も素晴らしい光景でしたが……月下に咲く花々も、また格別の美しさを湛えているものですね」
不意に背後から声が聞こえ、老人が振り返る。
そこには月光に照らされたアドリアンの姿があった。
「おや、どうしたのかね?眠れないのかい?」
「貴方こそ。ドワーフも人間と同じように夜は眠るものでしょう?」
その言葉に、老人は「そういえばそうだったのぅ」と、自分の熱中ぶりを恥ずかしそうに笑う。
「こうして月の明かりを浴びている花畑が……どうしても、ワシの心を捉えて離さんのじゃ」
アドリアンは無言で、老人の言葉に耳を傾けていた。
その瞳は、何か深い思索に沈んでいるかのようだった。
「こんなにも美しいのに……何故か、胸が締め付けられるような悲しさを覚える。そして、この光景を描かずにはいられないという衝動に駆られるのじゃ。なんなのだろうな、この不思議な感情は……」
そうして、老人は筆を持つ手をぴたりと止めた。
「お主さんのような旅人は、色々な場所を巡るのじゃろう。この花畑を超える光景を、見たことはあるかね?」
その問いに、アドリアンは目を細めた。遠い記憶の彼方を覗き込むように。
「──俺は、色々なところを巡ってきました。美しい場所も、残酷な場所も、悲しい場所も……」
アドリアンの表情に、どこか深い哀愁が滲む。
そして、静かな声で言った。
「だけど──『貴方が花畑を描いている』というこの光景は、何物にも代えがたい、崇高な美しさを持っている──」
その言葉に、老人は首を傾げた。
アドリアンの思考は、ゆっくりと記憶の彼方へと沈んでいく。
眼前の月夜の花畑が、別の光景と重なり始める。
咲き誇る花々は、鮮血に染まった大地へと変わり──。
♢ ♢ ♢
それは、世界を超えた彼方の光景。
荒野に建てられた巨大な処刑場──そこは魔族の暴虐により、罪もない者たちが無惨にも命を奪われた、凄惨な場所だった。
だが今、英雄率いる連合軍によって、ようやくその場所は解放されていた。
「アドリアン様!処刑場に潜伏していた魔族は全て殲滅致しました!」
駆け寄ってきた兵士の報告に、アドリアンは重い口調で問う。
「生存者は?」
「それが……ほとんどが……」
「そうか……」
英雄アドリアンは、兵を引き連れて解放された処刑場を歩いていく。
処刑場の中は、言葉にしがたい凄惨な光景が広がっていた。
血の跡、壁や床に刻まれた傷、そして冷たくなった遺体──。
人の世のものとは思えない残虐な光景の中で、連合軍の兵士たちは重い足取りで、それでも必死に生存者の捜索を続けていた。
そんな中──
「アドリアン様!生存者を発見しました!」
「!」
兵士の叫び声に、アドリアンは即座に駆け出した。
そして、建物の一室──薄暗い牢獄の中に辿り着く。
床には無数の紙が散らばっており、その中心で一人のドワーフの老人が、震える手で何かを描き続けていた。
「彼が生存者か」
「はい、ただ……その……」
報告する兵士の表情が、一層暗くなる。
「どうやら、気が狂ってしまっているようで……」
老人は誰かの声も聞こえないかのように、ただひたすらに紙に向かって筆を走らせ続けていた。
その手には、壊れた筆と、血で描かれたような絵が握られていた。
「これは……」
アドリアンは散乱する絵の一枚を、震える手で拾い上げた。
「──!」
紙には、この処刑場で行われた凄惨な光景が描かれていた。
エルフ、人間、ドワーフ、獣人──様々な種族が、魔族によって残虐な最期を迎える様子が、恐ろしいほどの筆致で克明に記録されている。
まるで目の前で起きていることのように生々しい絵に、アドリアンの動きが止まる。
「な、なんと恐ろしい絵だ……」
「これが、この処刑場で行われていたことなのか……」
兵士たちの顔から血の気が引いていく。
そして全員が一斉に、今なお震える手で絵を描き続ける老人へと視線を向けた。
老人は、まるで周囲の存在など気付いていないかのように、ただひたすらに筆を走らせ続けている。
床に敷かれた紙には、また新たな地獄の光景が描き込まれていこうとしていた。
恐らくは、この老人は魔族によって強制された「記録者」だったのだ。
処刑の様子を事細かに描き留めさせられ、その絵は敵の戦意を削ぐために使われたのか、あるいは魔族の戦意を高揚させるために用いられたのか──魔族を殲滅した今となっては、もう知る由もない。
ただ、彼がこの残虐な光景の記録係として、魔族に生かされ続けていたことだけは間違いないだろう。
「ご老人!魔族は全て倒したんだ!もう、そんな恐ろしい絵を描く必要はない!」
兵士の一人が、今なお震える手で筆を走らせ続ける老人の姿に耐えかね、そう叫んだ。
しかし、老人は誰の声も聞こえないかのように、ただ黙々と絵を描き続ける。
兵士たちが、痛ましい目で互いの顔を見合わせる中──
アドリアンは静かに老人の前にしゃがみ込み、その顔を覗き込むようにして、穏やかな声で語りかけた。
「やぁ、ご老体。何を描いているのかな」
この凄惨な場所に似つかわしくない優しい声色。
だが、その声に老人はピクリと反応し、かすれた声で呟くように答えた。
「花畑……」
その言葉に、その場にいた全員が困惑の表情を浮かべる。
──花畑?
目の前で老人が描いているのは、紛れもなく処刑場での残虐な光景だ。
血に染まった地面、恐怖に歪む表情、苦痛に満ちた最期の瞬間。
それがどうして、花畑なのか。
だが、彼の目は何か遠くを見つめているようで──誰にも見えない花々を追い求めているかのようだった。
「みんな……そこにいる……あの子が、見たいと言っていた、花畑に……」
老人は虚ろな目で、誰もいない空間を見つめながら呟く。
不意に、アドリアンたちの視線が散乱する絵の一枚に引き寄せられた。
そこには黒い髪のドワーフの少女が、無残な最期を遂げる様子が描かれている。
まだ幼い、あどけなさの残る顔。
その絵を目にした瞬間、その場にいる者たちの表情が一層暗いものへと変わった。
「おぉ……そうか……花畑が見たいのか……」
老人は虚空を見つめたまま、また呟く。
「じいちゃんが……見せてあげよう……でも、普通にお花畑を描いたら怒られるから……こっそり……秘密の方法で、お花畑を描いてやる……」
そして、手を伸ばし──
「この間……絵を描くのに必要だと言ったら……魔族の奴らめ、まんまと騙されて、特殊な顔料を寄越しおったのさ……それで細工を……」
その瞬間であった。
老人の瞳が突如として光を取り戻し、獣のように全身を震わせながら立ち上がる。
その形相は尋常ではなく、激情に滾った瞳で、痩せこけた腕に力を込めながら兵士たちに詰め寄っていく。
「お、おのれ……!こんな幼子を連れていくのか!連れていくというのなら、このワシを代わりに処刑せい!この老いぼれでは駄目なのか!やめろ、やめてくれぇ!!」
「落ち着いてください!私たちは魔族ではないんです!」
「早く取り押さえろ!だが怪我はさせるなよ!」
兵士たちは慎重に老人を取り押さえ、床に押し倒す。
抑えつけられた老人は、堰を切ったかのように涙を流し始めた。
その涙は、この処刑場で流されてきた数えきれない涙の一つとなって、冷たい床に染み込んでいく。
「お、おぉ……あまりにむごい……この光景を、ワシに描けというのか。この地獄を、この手で描き記せというのか……」
老人の体から、ゆっくりと力が抜けていく。
魂そのものが、その痩せこけた体から離れていくかのように。
「神よ……どうかワシを裁いてくれ……この恐ろしい光景を描き続けた罪人を……この手を……この目を……潰して……」
その言葉の端々から、アドリアンたちは老人の受けた試練を理解した。いや、理解させられた。
周囲の囚人たちが次々と処刑台へと連れて行かれる中、彼はただ一人生かされ、その地獄を描き続けることを強要された。
そしてついには、親しくしていた幼い少女の無残な最期まで、絵に留めることを迫られたのだ。
「花畑……そう……これは、花畑……」
兵士たちが拘束を解くと、老人は再び筆を手に取り、絵を描き始める。
しかしその絵は、花畑などではなく、彼の記憶に刻まれた凄惨な光景だった。
「なんと哀れな……」
兵士たちの呟きが、重苦しい空気の中に溶けていく。
この老人は心が壊れ、自分が描く地獄の光景を花畑だと思い込んでいるのだ。
その事実に、兵士たちの体が戦慄で震える中、アドリアンはゆっくりと立ち上がった。
「……行こう。彼を邪魔してはいけない」
「……」
アドリアンの静かな言葉に、全員が無言で頷く。
本来なら生存者から話を聞きたかったが、今の状態では何も聞けそうにない。
もしかしたら一晩経てば、少しは冷静さを取り戻すかもしれない──。
アドリアンたちはそう考え、その場を後にした。背後では、筆が紙を走る音だけが、虚ろに響いていた
──そして、翌日。
「ア、アドリアン様……!あの老人が!」
「!」
兵士の慌てた声で目を覚ましたアドリアンは、すぐさま独房へと駆けつけた。
すると、そこには──
「──」
アドリアンの足が、その場に凍りついた。
何処に隠し持っていたのか、短刀で自らの命を絶った老人の姿があった。
床に散らばる絵も、彼の血で染まりきって……。
「申し訳ございません……!わずかな時間、目を離した隙に……!」
震える声で報告する兵士。
だが、アドリアンの目は、血に染まった絵に釘付けになっていた
「……」
そこには──
「──花畑だ」
アドリアンの声が、静寂を破る。
散らばった全ての絵の上に、不思議な光景が浮かび上がっていた。
それは老人の血が触れることで、魔法のように姿を現した花畑の絵。
彼は特殊な顔料を使い、血に反応して現れる仕掛けを施していたのだろう。
地獄の光景として描かれた絵の上に、鮮やかな花々が咲き誇る姿が浮かび上がっていく。
「これは……」
アドリアンも兵士たちも、その光景に言葉を失っていた。
そして、その場に立ち尽くすアドリアンの目に、老人の傍らに置かれた一枚の紙が映った。
それは他の絵とは違い、血に染まっていない。そこには震える手で一言だけ、記されていた。
『やっと、花畑に行ける』
静寂が辺りを支配する中、アドリアンが静かに呟いた。
「貴方は、本当に花畑を描いていたんだね」
この老人は、狂気の中で嘘を語っていたわけではなかった。
悍ましい絵の中に、密かに細工を施していた。
この花畑の絵は……暴虐への静かな、しかし確かな抵抗だったのだ。
「血の花畑……恐ろしいが……でも……」
「あぁ……綺麗だ……」
そして今、自らの血をもって全ての絵を花畑へと変えることで──彼は自身の魂の解放を果たした。
アドリアンの瞳に、この処刑場で命を落とした人々の姿が浮かぶ。
きっと彼らは今、この美しい花畑の中で安らかに眠っているのだろう。
「気高き画家に、神々の加護がありますように」
アドリアンが静かに祈りの言葉を紡ぎ、深々と膝をつく。
その姿を見た兵士たちも、一斉に祈りを捧げる。
最後の最後まで、意志を貫き通した老人に。そして、彼の描いた花畑の中で永遠の安らぎを得た、全ての魂に。
朝日が独房の小窓から差し込み、血に反応して浮かび上がった花々を、黄金色に輝かせていた。
♢ ♢ ♢
朝日が昇り、花畑全体が黄金色に輝いていた。
花々は朝露を纏い、その一粒一粒が宝石のように光を散りばめている。
そんな美しい光景の中で、アドリアンたちは老人と向き合っていた。
「もう行くのかね」
「えぇ。できればこの素敵な花畑をもっと堪能したいところですが──実は俺たち、ちょっとした世界救済の旅の途中でして。予定が詰まっているんですよ」
「それはそれは。世界を救うとは、随分と大層な仕事を抱えておられるのう」
アドリアンと老人は、互いに穏やかな笑みを浮かべている。
「じゃあね、おじいさん!泊めてくれてありがとー!」
「素敵なお花畑でした!」
メーラとエルフの姉妹が元気よく手を振る。
「またおいで。ワシと花畑は、ずっとここにいるからのぅ」
アドリアンたちが花畑を後にしていく中、老人はにこやかに微笑みながら、ずっと手を振り続けていた。
その姿は花々の間で、永遠にそこにいるかのように見えた。
そうして、再び街道に戻ったアドリアンたち。
レフィーラは名残惜しそうに振り返りながら、口を開く。
「あの花畑、とっても素敵な場所だったね」
「でも、どうしてこんな荒野の真ん中にお花畑があるんだろう?」
そう、ここは岩だらけの荒野。本来ならば、こんな美しい花畑など存在するはずのない場所。
ケルナの素朴な疑問に、アドリアンは朝日に染まる空を見上げた。
「もしかしたら、あの場所は……あのお爺さんの描いた絵から生まれた花畑なのかもしれないね」
アドリアンの謎めいた言葉に、メーラたちはきょとんとした表情を浮かべる。
子猫のように首を傾げながら、その意味を探ろうとする。
「じゃあ、あのお爺さんは魔法使い?」
くすりと笑ったメーラの無邪気な推測に、アドリアンは柔らかな微笑みを返す。
「いや、違うよ。あのお爺さんはね──迷える魂たちを花畑へと導く、優しい天使様かな」
アドリアンの言葉の裏には、何か深い想いが隠されているようだった。
だが、その真意を問う者は誰もいない。アドリアンの瞳に、いつもの軽薄な雰囲気が薄れ、どこか深い寂しさが宿っているのを感じ取っていたからだ
だがそれも束の間。
アドリアンはすぐにいつもの表情を取り戻し、軽やかな声で言う。
「さぁ、フリードウインドの街へ行こう。もうすぐ着くはず……」
その時だった。
街道を行き交う魔導馬車の列の間を、一組のドワーフの家族が歩いているのが目に入った。
父親と母親、そして黒髪の幼い娘。
おそらく近くの地下都市からやってきたのだろう。
彼らは、朝日に照らされた街道を、ゆっくりと歩いていた。
「お花畑のお爺さん、今日はいるかなぁ?」
「ほら、危ないから走っちゃだめよ!」
「はは、花畑は逃げないから、そんなに急がなくていいよ」
元気いっぱいに走り回る黒髪のドワーフの少女を、両親が優しく諭している。
その仲睦まじい光景に、行き交うドワーフたちも自然と笑みを浮かべていた。
「……」
少女の姿を見た瞬間、アドリアンの目が一瞬大きく見開かれる。
だがすぐに、それは深い慈愛に満ちた柔らかな微笑みへと変わった。
「みんな、ここで安らかに過ごしているんだね。貴方が描いた、花畑で……」
その言葉は誰に向けられたものでもなく、まるで祈りのように空へと溶けていった。
アドリアンたちは、朝日に照らされた街道で、その幸せそうな家族とすれ違っていく。
彼らの後ろ姿が、花畑の方角へと遠ざかっていった。
朝日は相変わらず優しく、花畑を、そして街道を照らし続けていた。