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第九十六話

星空の下、小高い丘の上に建つ小屋の一室で、メーラとエルフの姉妹が寛いでいた。


「はぁ、良かった!野営もいいけど、屋根があってベッドで寝られるだなんて、贅沢だよね!」


レフィーラは無邪気にベッドの上で跳ね回る。

メーラとケルナはそんな彼女を半分呆れたような、半分微笑ましいような目で見つめていた。

だが不意に、ケルナが首を傾げて言う。


「そういえばアドリアン様と、ドワーフのおじいさんは何処に行ったんだろう?」

「あれ……?」


その言葉に、メーラも気付く。

先ほど夕食を共にした時は確かに一緒にいたのに、いつの間にか二人の姿が見えなくなっていた。


「さぁ。男二人で内緒の話でもしてるんじゃない?代わりに私たちは、女同士で内緒の話でもしてようよ!」


どんな時でも明るさを失わないレフィーラの言葉に、メーラは思わず安堵の笑みを浮かべたのであった。




♢   ♢   ♢




花々は月光を浴びて幻想的な輝きを放っていた。

その花畑の中央で、老人は月の明かりを頼りに、一心不乱にキャンパスに向かっている。

筆を走らせる手は、年齢を感じさせないほどの確かさで動いていた。


「昼の太陽に照らされた花畑も素晴らしい光景でしたが……月下に咲く花々も、また格別の美しさを湛えているものですね」


不意に背後から声が聞こえ、老人が振り返る。

そこには月光に照らされたアドリアンの姿があった。


「おや、どうしたのかね?眠れないのかい?」

「貴方こそ。ドワーフも人間と同じように夜は眠るものでしょう?」


その言葉に、老人は「そういえばそうだったのぅ」と、自分の熱中ぶりを恥ずかしそうに笑う。


「こうして月の明かりを浴びている花畑が……どうしても、ワシの心を捉えて離さんのじゃ」


アドリアンは無言で、老人の言葉に耳を傾けていた。

その瞳は、何か深い思索に沈んでいるかのようだった。


「こんなにも美しいのに……何故か、胸が締め付けられるような悲しさを覚える。そして、この光景を描かずにはいられないという衝動に駆られるのじゃ。なんなのだろうな、この不思議な感情は……」


そうして、老人は筆を持つ手をぴたりと止めた。


「お主さんのような旅人は、色々な場所を巡るのじゃろう。この花畑を超える光景を、見たことはあるかね?」


その問いに、アドリアンは目を細めた。遠い記憶の彼方を覗き込むように。


「──俺は、色々なところを巡ってきました。美しい場所も、残酷な場所も、悲しい場所も……」


アドリアンの表情に、どこか深い哀愁が滲む。

そして、静かな声で言った。


「だけど──『貴方が花畑を描いている』というこの光景は、何物にも代えがたい、崇高な美しさを持っている──」


その言葉に、老人は首を傾げた。

アドリアンの思考は、ゆっくりと記憶の彼方へと沈んでいく。

眼前の月夜の花畑が、別の光景と重なり始める。

咲き誇る花々は、鮮血に染まった大地へと変わり──。




♢   ♢   ♢




それは、世界を超えた彼方の光景。

荒野に建てられた巨大な処刑場──そこは魔族の暴虐により、罪もない者たちが無惨にも命を奪われた、凄惨な場所だった。

だが今、英雄率いる連合軍によって、ようやくその場所は解放されていた。


「アドリアン様!処刑場に潜伏していた魔族は全て殲滅致しました!」


駆け寄ってきた兵士の報告に、アドリアンは重い口調で問う。


「生存者は?」

「それが……ほとんどが……」

「そうか……」


英雄アドリアンは、兵を引き連れて解放された処刑場を歩いていく。

処刑場の中は、言葉にしがたい凄惨な光景が広がっていた。

血の跡、壁や床に刻まれた傷、そして冷たくなった遺体──。

人の世のものとは思えない残虐な光景の中で、連合軍の兵士たちは重い足取りで、それでも必死に生存者の捜索を続けていた。


そんな中──


「アドリアン様!生存者を発見しました!」

「!」


兵士の叫び声に、アドリアンは即座に駆け出した。

そして、建物の一室──薄暗い牢獄の中に辿り着く。

床には無数の紙が散らばっており、その中心で一人のドワーフの老人が、震える手で何かを描き続けていた。


「彼が生存者か」

「はい、ただ……その……」


報告する兵士の表情が、一層暗くなる。


「どうやら、気が狂ってしまっているようで……」


老人は誰かの声も聞こえないかのように、ただひたすらに紙に向かって筆を走らせ続けていた。

その手には、壊れた筆と、血で描かれたような絵が握られていた。


「これは……」


アドリアンは散乱する絵の一枚を、震える手で拾い上げた。


「──!」


紙には、この処刑場で行われた凄惨な光景が描かれていた。

エルフ、人間、ドワーフ、獣人──様々な種族が、魔族によって残虐な最期を迎える様子が、恐ろしいほどの筆致で克明に記録されている。

まるで目の前で起きていることのように生々しい絵に、アドリアンの動きが止まる。


「な、なんと恐ろしい絵だ……」

「これが、この処刑場で行われていたことなのか……」


兵士たちの顔から血の気が引いていく。

そして全員が一斉に、今なお震える手で絵を描き続ける老人へと視線を向けた。

老人は、まるで周囲の存在など気付いていないかのように、ただひたすらに筆を走らせ続けている。

床に敷かれた紙には、また新たな地獄の光景が描き込まれていこうとしていた。


恐らくは、この老人は魔族によって強制された「記録者」だったのだ。

処刑の様子を事細かに描き留めさせられ、その絵は敵の戦意を削ぐために使われたのか、あるいは魔族の戦意を高揚させるために用いられたのか──魔族を殲滅した今となっては、もう知る由もない。

ただ、彼がこの残虐な光景の記録係として、魔族に生かされ続けていたことだけは間違いないだろう。


「ご老人!魔族は全て倒したんだ!もう、そんな恐ろしい絵を描く必要はない!」


兵士の一人が、今なお震える手で筆を走らせ続ける老人の姿に耐えかね、そう叫んだ。

しかし、老人は誰の声も聞こえないかのように、ただ黙々と絵を描き続ける。


兵士たちが、痛ましい目で互いの顔を見合わせる中──

アドリアンは静かに老人の前にしゃがみ込み、その顔を覗き込むようにして、穏やかな声で語りかけた。


「やぁ、ご老体。何を描いているのかな」


この凄惨な場所に似つかわしくない優しい声色。

だが、その声に老人はピクリと反応し、かすれた声で呟くように答えた。


「花畑……」


その言葉に、その場にいた全員が困惑の表情を浮かべる。


──花畑?


目の前で老人が描いているのは、紛れもなく処刑場での残虐な光景だ。

血に染まった地面、恐怖に歪む表情、苦痛に満ちた最期の瞬間。

それがどうして、花畑なのか。

だが、彼の目は何か遠くを見つめているようで──誰にも見えない花々を追い求めているかのようだった。


「みんな……そこにいる……あの子が、見たいと言っていた、花畑に……」


老人は虚ろな目で、誰もいない空間を見つめながら呟く。

不意に、アドリアンたちの視線が散乱する絵の一枚に引き寄せられた。

そこには黒い髪のドワーフの少女が、無残な最期を遂げる様子が描かれている。

まだ幼い、あどけなさの残る顔。

その絵を目にした瞬間、その場にいる者たちの表情が一層暗いものへと変わった。


「おぉ……そうか……花畑が見たいのか……」


老人は虚空を見つめたまま、また呟く。


「じいちゃんが……見せてあげよう……でも、普通にお花畑を描いたら怒られるから……こっそり……秘密の方法で、お花畑を描いてやる……」


そして、手を伸ばし──


「この間……絵を描くのに必要だと言ったら……魔族の奴らめ、まんまと騙されて、特殊な顔料を寄越しおったのさ……それで細工を……」


その瞬間であった。

老人の瞳が突如として光を取り戻し、獣のように全身を震わせながら立ち上がる。

その形相は尋常ではなく、激情に滾った瞳で、痩せこけた腕に力を込めながら兵士たちに詰め寄っていく。


「お、おのれ……!こんな幼子を連れていくのか!連れていくというのなら、このワシを代わりに処刑せい!この老いぼれでは駄目なのか!やめろ、やめてくれぇ!!」

「落ち着いてください!私たちは魔族ではないんです!」

「早く取り押さえろ!だが怪我はさせるなよ!」


兵士たちは慎重に老人を取り押さえ、床に押し倒す。

抑えつけられた老人は、堰を切ったかのように涙を流し始めた。

その涙は、この処刑場で流されてきた数えきれない涙の一つとなって、冷たい床に染み込んでいく。


「お、おぉ……あまりにむごい……この光景を、ワシに描けというのか。この地獄を、この手で描き記せというのか……」


老人の体から、ゆっくりと力が抜けていく。

魂そのものが、その痩せこけた体から離れていくかのように。


「神よ……どうかワシを裁いてくれ……この恐ろしい光景を描き続けた罪人を……この手を……この目を……潰して……」


その言葉の端々から、アドリアンたちは老人の受けた試練を理解した。いや、理解させられた。

周囲の囚人たちが次々と処刑台へと連れて行かれる中、彼はただ一人生かされ、その地獄を描き続けることを強要された。

そしてついには、親しくしていた幼い少女の無残な最期まで、絵に留めることを迫られたのだ。


「花畑……そう……これは、花畑……」


兵士たちが拘束を解くと、老人は再び筆を手に取り、絵を描き始める。

しかしその絵は、花畑などではなく、彼の記憶に刻まれた凄惨な光景だった。


「なんと哀れな……」


兵士たちの呟きが、重苦しい空気の中に溶けていく。

この老人は心が壊れ、自分が描く地獄の光景を花畑だと思い込んでいるのだ。

その事実に、兵士たちの体が戦慄で震える中、アドリアンはゆっくりと立ち上がった。


「……行こう。彼を邪魔してはいけない」

「……」


アドリアンの静かな言葉に、全員が無言で頷く。

本来なら生存者から話を聞きたかったが、今の状態では何も聞けそうにない。

もしかしたら一晩経てば、少しは冷静さを取り戻すかもしれない──。

アドリアンたちはそう考え、その場を後にした。背後では、筆が紙を走る音だけが、虚ろに響いていた




──そして、翌日。




「ア、アドリアン様……!あの老人が!」

「!」


兵士の慌てた声で目を覚ましたアドリアンは、すぐさま独房へと駆けつけた。

すると、そこには──


「──」


アドリアンの足が、その場に凍りついた。

何処に隠し持っていたのか、短刀で自らの命を絶った老人の姿があった。

床に散らばる絵も、彼の血で染まりきって……。


「申し訳ございません……!わずかな時間、目を離した隙に……!」


震える声で報告する兵士。

だが、アドリアンの目は、血に染まった絵に釘付けになっていた


「……」


そこには──


「──花畑だ」


アドリアンの声が、静寂を破る。

散らばった全ての絵の上に、不思議な光景が浮かび上がっていた。

それは老人の血が触れることで、魔法のように姿を現した花畑の絵。

彼は特殊な顔料を使い、血に反応して現れる仕掛けを施していたのだろう。

地獄の光景として描かれた絵の上に、鮮やかな花々が咲き誇る姿が浮かび上がっていく。


「これは……」


アドリアンも兵士たちも、その光景に言葉を失っていた。

そして、その場に立ち尽くすアドリアンの目に、老人の傍らに置かれた一枚の紙が映った。

それは他の絵とは違い、血に染まっていない。そこには震える手で一言だけ、記されていた。


『やっと、花畑に行ける』


静寂が辺りを支配する中、アドリアンが静かに呟いた。


「貴方は、本当に花畑を描いていたんだね」


この老人は、狂気の中で嘘を語っていたわけではなかった。

悍ましい絵の中に、密かに細工を施していた。

この花畑の絵は……暴虐への静かな、しかし確かな抵抗だったのだ。


「血の花畑……恐ろしいが……でも……」

「あぁ……綺麗だ……」


そして今、自らの血をもって全ての絵を花畑へと変えることで──彼は自身の魂の解放を果たした。

アドリアンの瞳に、この処刑場で命を落とした人々の姿が浮かぶ。

きっと彼らは今、この美しい花畑の中で安らかに眠っているのだろう。


「気高き画家に、神々の加護がありますように」


アドリアンが静かに祈りの言葉を紡ぎ、深々と膝をつく。

その姿を見た兵士たちも、一斉に祈りを捧げる。


最後の最後まで、意志を貫き通した老人に。そして、彼の描いた花畑の中で永遠の安らぎを得た、全ての魂に。

朝日が独房の小窓から差し込み、血に反応して浮かび上がった花々を、黄金色に輝かせていた。




♢   ♢   ♢




朝日が昇り、花畑全体が黄金色に輝いていた。

花々は朝露を纏い、その一粒一粒が宝石のように光を散りばめている。

そんな美しい光景の中で、アドリアンたちは老人と向き合っていた。


「もう行くのかね」

「えぇ。できればこの素敵な花畑をもっと堪能したいところですが──実は俺たち、ちょっとした世界救済の旅の途中でして。予定が詰まっているんですよ」

「それはそれは。世界を救うとは、随分と大層な仕事を抱えておられるのう」


アドリアンと老人は、互いに穏やかな笑みを浮かべている。


「じゃあね、おじいさん!泊めてくれてありがとー!」

「素敵なお花畑でした!」


メーラとエルフの姉妹が元気よく手を振る。


「またおいで。ワシと花畑は、ずっとここにいるからのぅ」


アドリアンたちが花畑を後にしていく中、老人はにこやかに微笑みながら、ずっと手を振り続けていた。

その姿は花々の間で、永遠にそこにいるかのように見えた。


そうして、再び街道に戻ったアドリアンたち。

レフィーラは名残惜しそうに振り返りながら、口を開く。


「あの花畑、とっても素敵な場所だったね」

「でも、どうしてこんな荒野の真ん中にお花畑があるんだろう?」


そう、ここは岩だらけの荒野。本来ならば、こんな美しい花畑など存在するはずのない場所。

ケルナの素朴な疑問に、アドリアンは朝日に染まる空を見上げた。


「もしかしたら、あの場所は……あのお爺さんの描いた絵から生まれた花畑なのかもしれないね」


アドリアンの謎めいた言葉に、メーラたちはきょとんとした表情を浮かべる。

子猫のように首を傾げながら、その意味を探ろうとする。


「じゃあ、あのお爺さんは魔法使い?」


くすりと笑ったメーラの無邪気な推測に、アドリアンは柔らかな微笑みを返す。


「いや、違うよ。あのお爺さんはね──迷える魂たちを花畑へと導く、優しい天使様かな」


アドリアンの言葉の裏には、何か深い想いが隠されているようだった。

だが、その真意を問う者は誰もいない。アドリアンの瞳に、いつもの軽薄な雰囲気が薄れ、どこか深い寂しさが宿っているのを感じ取っていたからだ

だがそれも束の間。

アドリアンはすぐにいつもの表情を取り戻し、軽やかな声で言う。


「さぁ、フリードウインドの街へ行こう。もうすぐ着くはず……」


その時だった。

街道を行き交う魔導馬車の列の間を、一組のドワーフの家族が歩いているのが目に入った。


父親と母親、そして黒髪の幼い娘。

おそらく近くの地下都市からやってきたのだろう。

彼らは、朝日に照らされた街道を、ゆっくりと歩いていた。


「お花畑のお爺さん、今日はいるかなぁ?」

「ほら、危ないから走っちゃだめよ!」

「はは、花畑は逃げないから、そんなに急がなくていいよ」


元気いっぱいに走り回る黒髪のドワーフの少女を、両親が優しく諭している。

その仲睦まじい光景に、行き交うドワーフたちも自然と笑みを浮かべていた。


「……」


少女の姿を見た瞬間、アドリアンの目が一瞬大きく見開かれる。

だがすぐに、それは深い慈愛に満ちた柔らかな微笑みへと変わった。


「みんな、ここで安らかに過ごしているんだね。貴方が描いた、花畑で……」


その言葉は誰に向けられたものでもなく、まるで祈りのように空へと溶けていった。

アドリアンたちは、朝日に照らされた街道で、その幸せそうな家族とすれ違っていく。

彼らの後ろ姿が、花畑の方角へと遠ざかっていった。

朝日は相変わらず優しく、花畑を、そして街道を照らし続けていた。


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