アドリアンたちの眼前には、荒涼とした大地が果てしなく広がっていた。
茶褐色の巨岩が乱立する荒野。岩々の間を、乾いた風が吹き抜けていく。
「ふぅ、こりゃまた眩しい太陽だ」
アドリアンは目を細めながら、わざとらしく背伸びをする。
その横では、メーラが気持ちよさそうに紫紺の髪を風になびかせていた。
彼女の表情には、純粋な解放感が滲んでいる。
「地底の街も綺麗だったけど……やっぱりお日様の光があると気持ちいいね」
シャヘライトの柔らかな光も美しかったが、やはり太陽の光には特別な温もりがあった。
それは地上で生まれ育った者たちにとって、何物にも代えがたい安らぎを与えてくれるものなのだ。
ドワーフの街は基本的に地底に存在する。こうして一歩外に出ると、殺風景な荒野が果てしなく広がっているのだ。
メーラは改めて不思議な感覚に襲われる。この岩だらけの大地の下に、数万のドワーフたちが活気にあふれる生活を営んでいるなんて──今でも現実感が湧かないほどだった。
「ちょっと殺風景ね~。ここに沢山、大きな木を植えてあげたくなるわ!」
「お姉ちゃん……勝手に植樹したら、怒られちゃうよ……」
エルフの姉妹は、まぶしそうに目を細めながらも、明らかに心地よさそうに太陽の光を浴びていた。
やはり彼女たちは森の民。自然と共に生きる種族だけに、自然の光は特別な意味を持つのだろう。
そんな殺風景な光景の中にも、街道が綺麗に舗装され、まっすぐと伸びていた。
巨大な岩の間を縫うように、ドワーフたちの技術で切り開かれた道は、ある地点で明確に二つに分岐している。
「一方はフリードウインドの街に戻る道。で、もう一方はアルヴェリア王国──例の大立ち回りを演じたエルム平野に通じる、とても素敵な道だ」
メーラは首を傾げながら道を見つめていた。そういえば、帝国に来る時は戦争の最中。
エルム平野から帝国軍と共に馬車で突っ走ってきたため、帝国の領内の景色どころか、道順すら殆ど記憶に残っていない。
「で、我らが目的地の獣人の国に行くためには──残念ながら、一度フリードウインドの街に戻らなきゃいけないんだ。だから俺たちはこっちの道を行こう」
アドリアンは大げさなジェスチャーで、フリードウインド方面の街道を指し示した。
「フリードウインドかぁ。確か、大陸の中央にある街だっけ?どんなところなんだろう」
レフィーラが好奇心に満ちた眼差しで尋ねると、メーラは懐かしそうな微笑みを浮かべて答えた。
「フリードウインドの街は……とっても、素敵な場所なんです」
その言葉と共に、メーラの脳裏に懐かしい記憶が蘇る。
孤児院の街から逃げ出して、最初に辿り着いた大きな街。
全てが不安に包まれていた時期。アドリアンと二人きりで街から逃げ出してきて、何もかもが不確かで、明日さえ見えない日々。
でも──そこで出会ったのだ。
ライラやアデムといった優しいドワーフに。そして騎士団長ザラコスとの運命的な出会いも。
色々と事件もあったけど……最後には街の人々が歓声で見送ってくれた。
メーラにとってフリードウインドは、自分の足で歩み始めた、大切な思い出の場所なのだ。
「あぁ、ところで」
メーラが懐かしい思い出に浸っていると──不意に、アドリアンが後ろを歩くザラコスに向き直った。
「ザラコス。魔族のお姫様に最後の指導はしないのかい?例えば『民衆への挨拶は優雅に』とか、そういう素敵なアドバイスをね」
「え?最後って……」
メーラが不安げな声を上げると、ザラコスは相変わらずの穏やかな笑みを浮かべながら答えた。
「ワシはこれから王国へと向かい、それから皇国へと向かう予定だ。だから、ここでお主らとは暫くのお別れだ」
お別れ──。
その言葉を聞いた瞬間、メーラの表情から明るさが消えていく。
そんな彼女の表情を見たザラコスは、フッと優しい笑みを浮かべると、メーラの頭にそっと大きな手を置いた。
「メーラよ。お主は、もう立派な魔族の姫だ。ドレスの華やかさだけではない。その心も、まさしく姫君のそれになった。今やワシがいなくとも──否、むしろワシがいては、お主の翼を縛ることになってしまうかもしれぬ」
思い返せば、これは全て彼の「嘘」から始まった旅路。
ただの村娘だった自分に姫の仮面を被せ、国々を巡らせ、そして今や世界の脅威と戦うまでになった──。
だが、メーラはそのことを恨んではいなかった。むしろ、感謝の念で胸が溢れそうになる。
あの日、彼が紡いだ「魔族の姫」という嘘は、メーラに翼を与えてくれた。そして今、その翼は確かな強さを持つようになっていたのだから。
「キミがいなくなると困るな。ほら、俺以外全員女の子だし、肩身が狭くなっちゃう。そういう意味でも、もう少し付き合ってくれると嬉しいんだけど」
アドリアンが茶目っ気たっぷりに言うと、ザラコスは尾を愉快そうに揺らしながら返した。
「抜かせ。お主はそんな甘ちゃんじゃあるまい。むしろ、うるさい老人が消えて内心ほくほくしとるんじゃないのか?」
「おっとバレたか。流石はおじいちゃん、若者の嘘を見破るのが上手い」
二人は互いを見つめ、何年も前からの古い友人のように軽口を叩き合う。
その光景を見つめながら、メーラは胸の中に温かいものが広がるのを感じていた。
二人の軽口の向こうには、確かな絆があったのだ。
そうして分かれ道に差し掛かると、ザラコスは尾を大きく振って、アドリアンたちとは別の道へと向かう。
「ではな。お主らの旅路に、竜人様の加護がありますように。そして──どうか無事に、使命を果たさんことを」
リザードマンの巨体が、少しずつ遠ざかっていく。
その背中が完全に見えなくなるまで、メーラたちは最後まで手を振り続けた。
「ザラコスさん、いいリザードマンだったね」
ザラコスの姿が地平線の彼方に消えた後、レフィーラがそう呟いた。
その言葉にメーラは大きくうなずき、アドリアンは口元に皮肉めいた笑みを浮かべる。
「あぁ。確かに、ちょっと口うるさい爺さんだったけど……爬虫類の中じゃ、一番の良心の持ち主だったかもね」
そしてアドリアンは、地平線まで一直線に伸びる街道を見つめた。
その眼差しには、これから始まる新たな冒険への覚悟が滲んでいる。
「さぁ、俺たちも行こうか。この先には、きっと素敵な面倒事の数々が待ち構えているはずだ。まぁ、それも解決するのも含めて英雄の仕事だからしょうがない」
太陽が四人の影を大地に長く伸ばし、新たな冒険の始まりを告げていた。
♢ ♢ ♢
岩場の多い荒野だが、ドワーフたちが敷設した街道のおかげで、歩みは快適そのもの。
整然と並べられた石畳は、大地に描かれた一本の線のように真っ直ぐに伸びている。
「ドワーフって、本当に几帳面ね。こんなにしっかりした街道を作るなんて。私たちの国なんて、ただ木々が生い茂ってるだけだもの」
「うん……森の中を、木々を避けながら歩くだけ……」
エルフの姉妹の言葉に、メーラは首を傾げた。
道がないとなると、移動は大変なのではないだろうか?外から来た旅人は迷子になってしまわないのだろうか?
「メーラ。エルフというのは不思議な生き物でね。礼儀作法には異常なほどうるさいくせに、こういう実用的なことには驚くほど無頓着なんだ。まぁ、千年も生きてると、道なんてどうでもよくなるんじゃないかな」
「そ、そうなんだ……」
信じられない話だが、アドリアンがそう言うのだから間違いないのだろう。たぶん……。
そうして道を進むこと数時間。時折、帝国の魔導馬車が轟音を立てて行き交い、変わり映えのしない荒野の光景に退屈さを感じ始めた頃──。
「わぁ!なにこれ!?」
突然、アドリアンたちの眼前に広大な花畑が広がっていた。
青く、白く、黄色く──無数の花々が荒野の只中で咲き誇っている。
荒涼とした街道沿いに現れた、この突飛な光景にメーラが戸惑いを見せる中、レフィーラとケルナは歓声を上げながら花畑へと駆け出していった。
やはり森の民であるエルフは、こういった自然の美しさに強く惹かれるのだろう。
「すごい……こんなところにお花畑があるなんて……アド?」
不思議そうにアドリアンを振り返ったメーラは、彼の表情に違和感を覚えた。
アドリアンは呆然と、その光景を見つめている。
それは美しい景色を愛でる表情ではなく、信じられないものを目の当たりにしたような、表情のようで……。
「ここは……」
しかし、すぐにアドリアンはいつもの表情に戻った。
メーラが何か問いかけようとした、まさにその時──。
「おぉ、珍しい……エルフと人間……それに魔族のお客さんかい」
花畑の中から声が聞こえてきた。
そこには一人のドワーフの老人が、椅子に腰かけてキャンパスに向かっている姿があった。
白髪交じりの髭を風になびかせながら、彼は穏やかな笑みを浮かべていた。
「あ……!ごめんなさい!勝手に入っちゃだめだったのに!」
「ど、どうしよう……お爺さんのお花畑だったのかな……」
レフィーラとケルナが慌てて謝罪の言葉を口にするが、老人は「ほっほっほ」と温かな笑い声を漏らし、姉妹を優しく見つめた。
「いやいや、この花畑は誰のものでもないよ。ここは自然が作り出した美しい場所。みんなの場所さ。好きなだけ楽しんでいきなさい」
その言葉を聞いて、エルフの姉妹は安堵の表情を浮かべた。
レフィーラは嬉しそうに飛び跳ね、ケルナは小さく微笑みながら、再び花々の間を歩き始める。
そんな姉妹を、穏やかな眼差しで見つめる老ドワーフ。
アドリアンは彼に歩み寄り、キャンパスを覗き込んだ。
「見事な絵ですね、ご老体」
アドリアンの言葉に、老人は照れくさそうに白髪交じりの髭を掻く。
「いやいや、こんな老いぼれの描く絵など、お恥ずかしい限り。人様にお見せできるようなものではないのじゃが」
だが、キャンパスの中には息を呑むような美しさで花畑が描かれていた。
荒々しい岩場の中に咲く花々の一輪一輪が、繊細な筆致で丁寧に描き込まれている。
その様は、画布の中で本当に花が揺れているかのようだった。そんな老人の謙遜に、アドリアンは真摯な表情で返す。
「いいえ。この絵からは、貴方がこの花畑を心から愛していることが伝わってきます。そして何より──貴方が『本当に』花畑の絵を描いているということも」
アドリアンの意味深な言葉に、老人は目を丸くした。
その言葉の真意は分からないものの、心からの賞賛であることは老人にも伝わっていた。
「お前さん……どこかで会ったことがあったかの?」
「いいえ、初対面ですよ。この世界では」
「??」
そんなやり取りを挟んだ後、老人は自己紹介を始めた。
近くの地下都市で画家として活動していて、この花畑にはよく立ち寄るのだという。
「この光景がな、どうしても心を掴んで離さんのじゃ。ただの花畑なのに、不思議なものでな。毎日見ていても、飽きることがないのじゃよ」
そう言って、老人は小高い丘の上に建つ小さな小屋を指差した。
「ほれ、ああして家まで建ててしまったわい。こんな老いぼれが、花畑に魅せられて家を建てるだなんて。世間様から見れば、随分と奇妙な趣味じゃろうな」
その自嘲気味な言葉に、レフィーラとケルナは即座に反応する。
「そんなことないわ!こんな素敵な花畑、夢中にならない方がおかしいもの!」
「うん……エルフの森にも、中々ないよ」
二人の純粋な賞賛に、老人は照れくさそうに髭を撫でながら微笑んだ。
「花畑の本場、エルフの方々にそう言っていただけるとは……この老いぼれには身に余る言葉じゃ」
夕日が地平線に近づき、その柔らかな光が花畑全体を染め上げていく。
無数の花々が夕陽を受けて輝き、黄金の海のような幻想的な光景を作り出していた。
アドリアンたちがその美しさに見入っていると、老人が不意に声をかけた。
「お前さんたち、旅人じゃろ?今日はもう遅い。どうじゃ、粗末な小屋ではあるが、泊まっていっては」
「おや、いいんです?人間とエルフを家に泊めるなんて。俺たちが敵国の密偵で、この花畑の地図でも持ち帰ろうとしているかもしれないのに」
アドリアンの皮肉めいた言葉に、老人はくすりと笑みを漏らした。
「なぁに。国同士の争いなど、ワシら庶民には縁のない話。それに、こんな花畑の情報を欲しがる密偵などおらんわい」
「なるほど。それは、まったくその通り。これは一本取られたかな」
アドリアンと老人の軽妙なやり取りに、メーラたちは思わず微笑みを浮かべた。
どうやら、今晩は野営をしなくても済みそうだ──