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第九十四話

帝国の宮殿の一室で、アドリアンとメーラは旅の支度を整えていた。

アドリアンは舞踏会で着ていた豪華な衣装を荷物に詰め、いつもの身軽な旅装に着替えている。


「ふぅ、ようやくいつもの服装に戻れたよ」


一方、メーラの姿はアドリアンとは対照的だ。

彼女はシェーンヴェルが仕立てた魔族の姫にふさわしい絢爛なドレスに身を包んでいる。


「私は少し、身動きし辛いけど……シェーンヴェルさんの贈り物だから、ちゃんと着てないと」


どこか誇らしげに、しかし少々窮屈そうにドレスの裾を持ち上げるメーラの仕草に、アドリアンは思わず微笑みを浮かべた。

普通ならば、ドレス姿で旅をするなど、もってのほかだ。

しかしメーラは今や『魔族の姫』。いつ、いかなる時も王族としての矜持と姿格好をしていなければならない。

それに、多少の汚れならば、アドリアンの洗浄魔法で新品同様に蘇るので、問題は……ない。


「まさに『魔族の姫』様だね。誰が見ても思わず平伏してしまいそうだ。特に、その裾を引きずって泥だらけになった後なんかは」


アドリアンの言葉に、メーラは不機嫌そうに唇を尖らせる。


「アドは動きやすそうだね。『魔族の姫』の騎士さまなら、もっと立派な装束を着るべきだと思うけど……」


その言葉に、アドリアンはにやりと笑って切り返した。


「俺が華やかな衣装を着ていたら、お姫様の魅力が半減しちゃうからね。これも全て、メーラのための配慮なんだよ」


メーラはクスリと笑みを零した。

彼女にとって、このような何気ないやり取りこそが、最も大切な宝物だった。


「思えば……私たち、随分長く旅をしてるような気がするね」


そう呟くメーラに、アドリアンは笑って答えた。


「そう思うだろ?でも、まだ……フリードウインドの街を救って、王国で魔族の奴隷を解放して、エルム平野で大立ち回りして、帝国の英雄になっただけなんだけどね」


そして、誇らしげな調子で言い切ったアドリアンは、わざとらしく肩を竦めた。


「それに、まだまだ俺たちの壮大な旅は続くんだ。エルフの国に、獣人の国に、ドラゴンの国……ねぇメーラ、考えただけでも胃が痛く──いや、素晴らしい冒険が待っているとは思わないかい?」


エルフの国、獣人の国、ドラゴンの国……。

まだ見ぬ世界に、メーラの瞳が輝いた。


「ねぇ、アド。エルフの国とか、獣人の国ってどんなところなんだろう?」


不意に投げかけられたメーラの質問に、アドリアンは人差し指を立てて、楽しい秘密を打ち明けるように口を開いた。


「そうだねぇ……エルフの国は、とっても素晴らしい国だ。ドワーフの貴族なんて比べ物にならないくらいの尊大さと選民意識を持った、とっても『上品』なエルフたちが溢れかえってる国でね。千年生きてるから、それだけ人を不快にさせる皮肉も洗練されてるんだ」


その言葉を聞いたメーラの笑顔が、氷のように固まる。


「獣人の国はもっと素敵だよ。ドワーフの荒々しい戦士が可愛く見えるくらい、朝から晩まで戦いのことしか考えてない人たちばかり。血気盛んな耳と尻尾付きの凶暴なぬいぐるみさんたちが、好き放題暴れまわってる国さ」


アドリアンの言葉一つ一つが、彼女の想像の中で恐ろしい光景を描き出していく。


「ドラゴンの国に至っては──なんと……」

「も、もういい!聞きたくない!」


メーラの額のツノがプルプルと震える様子を見て、アドリアンはくすりと意地の悪い笑みを浮かべた。


「心配することなんてないさ、メーラ。ほら、思い出してごらん?あの奴隷市場で出会った可愛らしいキツネの姉弟も獣人の国の出身だよ。最初こそ怖がってたけど、最後には仲良くなれたじゃないか」

「あ……」


メーラの脳裏に、二人の獣人の姿が鮮やかに蘇る。

キツネの大戦士、アカネ。そして奴隷総督、カイ。

彼の瞳に純真さが戻った時の表情を、メーラは今でも鮮明に覚えていた。

メーラは記憶の中の二人の獣人を思い返しながら、少しずつ肩の力を抜いていく。


「アカネさんとカイさんも獣人の国の出身……じ、じゃあそんなに怖がること……ないかも……?」


その時、部屋のドアが静かにノックされ、一人の──いや、一匹のリザードマンが姿を現した。


「二人とも、出発の準備は整ったかね?」


ザラコスだ。彼は鱗に覆われた顔に、柔和な笑みを浮かべていた。

その表情は、いつもの厳めしい騎士団長の面影を感じさせない。


「あ、ザラコスさん!」


メーラは途端に明るい表情になり、ドレスの裾をたくし上げながらザラコスの元へと駆け寄った。

ザラコスは可愛い孫娘を見るような穏やかな笑みを浮かべ、優しく頭を撫でる。


「やぁザラコス。魔族のお姫様の船出を祝福しに来てくれたのかい?」

「それもあるが……お主らに、ちぃと頼み事があってな」


頼み事──その言葉を聞いた瞬間、アドリアンの表情が一変する。

腐ったリンゴを差し出されたかのような、露骨な嫌悪感である……。


「……何かな、ザラコス。実は俺たちは『魔族の姫と英雄』を演じるのに忙しくてね。他をあたってくれると嬉しいんだけど」

「そう嫌な顔をするでない。これも『魔族の姫と英雄』の大切なお仕事の一環だ。経費は全て皇国持ちだから、安心してくれ」


ザラコスは懐から一枚の書簡を取り出した。光を透かすと、薄く皇国の紋章が浮かび上がる。


「それは?」

「ドラゾールからワシ宛の手紙だ」


ドラゾール──。その名前に、アドリアンの記憶が一人のリザードマンの姿を呼び起こす。

寡黙で細身の体格をした、ザラコスの腹心。フリードウインドの街で、彼はメーラをシャドリオスから守ってくれた人物だった。


「実は、フェルシル部族連合は……随分と前から対シャドリオス連合への参加を決定しているのだ。獣人たちは我々の大義に共感してくれたようでな」


ザラコスが、既に獣人たちとの交渉を成功させていた──?

アドリアンは思わず目を細める。初耳だったし、まさかこんな先回りがされているとは。

ならば、獣人たちの国には行かなくても良いということか。


これで厄介な旅が一つ減った──そんな希望的観測は、アドリアンの頭には一瞬たりとも浮かばなかった。

むしろ逆だ。この流れは間違いなく、何か面倒な依頼の前置き……。


「しかしながら、ドラゾールからの手紙によると、獣人の国で予期せぬ事態が発生したらしい。それにより、連合への参加が困難な状況に陥っているとのことだ」

「ほらきた」


アドリアンは、予想通りとばかりに大仰に肩を竦めた。


「どうせ獣人の国に行って『なんとかしろ』って言いたいんだろ?それも詳しい状況も分からないまま、ただ行けって。そして着いてみたら想像以上に面倒くさい事態になってる──相変わらず俺たちを振り回すのが上手いな」

「流石アドリアンだ。察しがいい。ワシは王国に寄ってから皇国に帰還し、近況を竜人さま方に報告せねばならんからな。頼むぞ」


ザラコスは尾を愉快そうに揺らしながら、言った。

老リザードマンは、アドリアンの毒を含んだ言葉さえも、可愛い孫の駄々っ子のように受け止めているのだ。


「まぁ、いいさ。どうせエルフの国に今行ったところで、彼らの素晴らしすぎる行政手続きのお陰で数年は廊下で待たされるかもしれないし。それなら先に大草原で一騒動起こしてから行った方が、時間の無駄にはならないかもな」


エルフの国の大使フェイリオン。彼は既に、妖精ペトルーシュカと共に帝国を後にしていた。その理由は、一刻も早く連合の件を本国に持ち帰り、協議を始めたいとのことだ。

しかし……フェイリオンが便宜を図り、異常なまでに煩雑な手続きを簡略化してくれるとはいっても、限界がある。

長い寿命を持つエルフたちにとって、「急ぐ」という概念自体が、人間とは全く異なるのだから。


「まったく、ザラコスもだけど、フェイリオンもやってくれるね。なにせ──おっと、噂をすれば来たようだ」


アドリアンがそう呟いた、その時だった。

部屋の扉が勢いよく開かれ──そこから飛び込んできたのは、二人のエルフの少女。

金色のポニーテールを風のように靡かせる天真爛漫なレフィーラと、その後ろから小さな影のようにおずおずと姿を見せる妹のケルナ。


「メーラちゃーん!」

「わぁっ!?」


レフィーラは躊躇することなくメーラに飛びついた。

その様子を見たザラコスとアドリアンは、思わず顔を見合わせて苦笑した。

エルフの少女の尽きることのないエネルギーに、二人して諦めたように肩を竦める。


「準備できた!?私たちはもう準備万端だよ!ねぇねぇ、早く行こうよ!」


レフィーラは息つく間もなく言葉を畳みかける。その勢いに、メーラは困惑気味に「え、えっと……」と言葉を濁すばかりだ。

その光景を見つめながら、アドリアンはフェイリオンの『お願い』を思い返していた。


『魔族の姫と英雄殿の旅に、レフィーラとケルナを同行させていただきたい──』


なるほど──とアドリアンは苦笑する。

フェイリオンという老獪なエルフは、エルフの国と英雄・魔族の姫との絆を確かなものにしたいのだろう。

そのために、『守護者』の称号を持つレフィーラを同行させ、共に過ごした時間という見えない鎖で、森林国と決して敵対できない関係を築こうとしている。

まさにエルフらしい、長期的な戦略というわけだ。


レフィーラ自身は恐らくそんな政治的な思惑など知らないか、そもそも興味すらないのだろう。

彼女にとっては、ただ純粋に自分の「好きな人」と旅がしたいという、それだけの理由なのだ。

妹のケルナは……まぁ、姉の暴走を止める係として連れてこられたに違いない。


「ねぇねぇ、アドリアン!次は、何処に行くの!?」


アドリアンが複雑な思案に耽っていると、レフィーラが期待に満ちた瞳で問いかけてきた。

その無邪気な問いに、アドリアンは笑みを浮かべ──


「次に行くのは──フェルシル部族連合、つまり獣人の国だ。きっと気に入ると思うよ。だって、みんなキミと同じくらい元気いっぱいだからね」




♢   ♢   ♢




溢れんばかりの民衆が、宮殿前の大広場から帝都の中心部へと続く大通りを埋め尽くしている。

復興途中の街並みの至る所に足場が組まれ、工事の痕が生々しく残る中、ドワーフたちは熱気に満ちた声を上げていた。


「おい、押すな!前が見えねぇ!」

「英雄様はまだかい!?」

「魔族の姫様をこの目で見たいんだ!」

「お前ら、もっと後ろに下がれ!」


ドワーフたちの掛け声が、地下帝都に響き渡る。

そんな喧騒の中、不意に──宮殿のバルコニーに、二つの影が浮かび上がった。

途端に、群衆の声が静まり返る。

大海の波が凪いだかのように、ドワーフたちの熱気が一瞬で静まった。


一つは巨大な体格を誇る皇帝ゼルーダル。もう一つは、その隣で凛と佇む皇姫トルヴィアの姿。

そして、その背後には……四人の公爵たちが控えている。


「帝国臣民よ!」


皇帝の声が轟く。

その声は地下帝都の隅々にまで響き渡り、全ての民の心を震わせた。


「我が帝都は、シャドリオスという邪悪なる軍勢の襲撃を受け、此度、崩壊の危機に瀕した」


ゼルーダルは、眼下に広がる帝都の街並みをゆっくりと見渡す。


「──しかし!魔族の姫と英雄の活躍により、事件の首謀者は断罪された!彼らの勇気と知恵により、我らが帝都に平和が戻ったのだ!」


その瞬間、群衆から大きな歓声が沸き起こった。

トルヴィアが一歩前に進み出る。

かつての彼女の鋭さは影を潜め、今や清らかな威厳を湛えた皇姫の姿がそこにあった。


「そして今──魔族の姫と英雄が、新たな旅路へと向かう時が来た。彼らは我が帝国を救ったように、これから世界の全ての国々に光をもたらすのです!」


その力強い宣言と共に、宮殿の巨大な正門が重々しい音を轟かせながら開かれていく。

扉の向こうから差し込む光の中に、複数の影が浮かび上がる。


「お……おぉ!英雄様だ!」

「魔族の姫様!」


ドワーフたちの歓声が轟く。

そして……アドリアンとメーラ、ザラコスとエルフの姉妹が、威厳に満ちた足取りで歩を進める。


「魔族の姫と英雄、皇国騎士団長閣下、そしてエルフの守護者たちに……敬礼!!」


正門の両脇に整列していた戦士たちと魔導機械兵たちが、一斉に胸に拳を当てて敬礼を捧げる。

彼らを見送る民衆たちの中には、今まで出会ったドワーフたち……エレノアや、シルヴァの姿もあった。


五人は熱狂に沸き立つドワーフたちの歓声に包まれながら、堂々たる足取りで大通りを進んでいく。

メーラとアドリアンは、満面の笑みで民衆たちに手を振る。その姿は、まさに英雄と姫君そのものだ。


「どう、メーラ?魔族の姫として、民衆から熱烈な歓迎を受ける気分は。村娘の頃には想像もできなかったんじゃないか」


アドリアンの笑顔の問いかけに、メーラもまた微笑みながら応える。


「こんな風に手を振るのも、もう日課になっちゃった。さすがに疲れないくらいには、上手くなったと思うけど」


ザラコスは巨大な体躯を悠然と動かし、尾を振りながらアドリアンたちの後ろを歩いていく。

シャドリオスの襲撃時、ザラコスは自らの命を顧みず、ドワーフの民を守り抜いた。その勇姿を目にした民衆たちは、彼に心から感謝していた。


「竜の騎士団長様!あの時はありがとうごぜぇました!」


沿道から次々と感謝の声が上がる。

その声に、ザラコスは穏やかな笑みを浮かべながら、大きな手を軽く上げて応えていた。


そして、その後ろを歩くエルフの姉妹は、対照的な様子を見せていた。

レフィーラは天真爛漫な笑顔で民衆に手を振り、時折軽やかなジャンプを交えながら愛想を振りまく。

一方のケルナは、姉の背中に半分身を隠すようにして、おずおずと歩を進めている。


「ケルナ、アンタも愛想よくしてみたら?せっかくみんな歓迎してくれてるんだから!」

「うっ……は、恥ずかしい……こんなに沢山の人に見られるの、慣れてない……」



──そんな英雄たちの様子を、バルコニーから四人の公爵たちが見守っていた。


「まったく……あの男も、あの皮肉めいた口を慎めば立派な英雄に見えるものを。メーラ姫も、あの男と一緒だと骨が折れそうだな」


魔環公ザウバーリングが、諦めたように肩を竦めながら言った。

その口調には、かつての敵意は影も形もない。むしろ、これから始まる彼らの旅路を案じているような温かみさえ感じられた。


「メーラは大丈夫よ。あの子は、ああ見えて強い子だもの。なんたって、この私の従者まで務めたくらいだからね」


美輝公シェーンヴェルは、自分の娘を見るような慈愛に満ちた眼差しでメーラを見つめていた。

彼女の瞳には、本当に美しいものを愛でているかのような輝きが宿っている。


「彼らは必ずや使命を果たす。計算は……するまでもないな。まぁ、英雄殿の毒舌で各国の王を怒らせないことを祈るが」


機計公ベレヒナグルは、微笑みを浮かべながら言った。

いつものモノクルは外され、何の計算も介さない肉眼で、遠ざかる一行の姿を見つめている。


「魔族の姫と、英雄は……肉体的な強さだけではない、本当の強さが備わっておる。心配は、無用じゃ」


鋼鉄公アイゼンが、勲章の重みで輝く髭を静かに撫でながら言った。

その瞳には、戦場を共にした者だけが抱ける、深い信頼の色が宿っていた。


四人の公爵たちは、それぞれの想いを胸に、旅立つ英雄たちの姿を見守り続けた。

かつての敵は今、アドリアンの最も強力な理解者となっていたのだ。


そして──


皇帝ゼルーダルと、トルヴィアもまた、アドリアンたちの後姿を見守っていた。


「トルヴィアよ。もしやお前も行きたかったのではないか?あの英雄と一緒に世界を巡る旅というのも、悪くない経験になったかもしれんぞ?」


ゼルーダルの茶目っ気のある言葉に、トルヴィアは穏やかな微笑みを漏らす。


「いいえ、父上。私は帝国の姫……ここを守る義務があります。それに……」


トルヴィアは慈愛に満ちた表情で、遠ざかっていくアドリアンの背中を見つめた。

その瞳には、かつての鋭さは微塵も残っていない。あるのは、ただ深い愛情の色だけ──。


「『弟』の無事を、私はここで祈っています。きっとそれが、私の役目だから」

「……なに?弟?」


トルヴィアの意味深な言葉に、ゼルーダルは首を傾げる。


そんな時だった。

群衆の熱狂の中、不意にアドリアンが後ろを振り返る。

その視線は、まっすぐにトルヴィアへと向けられていた。


その瞬間、喧騒も、歓声も、全てが遠のいていく。

まるで時が止まったかのように、二人の視線だけが、虚空で交差する。


そして──


「──」


アドリアンがゆっくりと、口を動かす。

遠すぎて声など届くはずもない。熱狂の渦の中、音など聞こえるはずもない。

だけど、トルヴィアには不思議と、その言葉が心に響いてきた。


『行ってきます。「姉さん」』


一瞬、トルヴィアの瞳が大きく見開かれる。

それは驚きではなく、遠い記憶が蘇ったような、懐かしさに似た感情。


しかしすぐに、彼女の表情は穏やかな微笑みへと変わる。

そして彼女もまた、口をゆっくりと動かした。

届くはずもないが、きっと届くはずの言葉を──


『行ってらっしゃい、泣き虫な私の「弟」』


遥か彼方で、アドリアンの姿が人々の熱狂の中へと消えていく。

その瞬間、地下宮殿に差し込むシャヘライトの光が、祝福のように彼らを包み込んでいた。


それは、英雄の旅立ちの日に交わされた、誰も知らない再会の物語。


そして、新たな冒険の幕開けである──。


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