トルヴィアは差し出された手と、アドリアンの凛とした顔を、交互に見つめ、戸惑っていた。
「えっと……」
いつものように皮肉めいた言葉で切り返そうとしたが……アドリアンの瞳に宿る真摯な光を見て、トルヴィアの言葉は途切れてしまう。
遠い世界?約束?
一体、何のことを言っているのか。トルヴィアにはさっぱり身に覚えがない。
しかし──
「……」
気がつけば、彼女の手はアドリアンの手の中にあった。
いつもなら即座に振り払うはずなのに。いつもなら即座に罵倒の言葉を投げかけるはずなのに。
その手が、不思議なほど温かくて、懐かしくて──。
自分でも理解できない。なぜ手を取ったのか、なぜ拒絶の言葉が出てこないのか。
まるで、ずっと待っていた人に再会したような、そんな不思議な感覚が彼女の心を満たしていた。
玉座に座る皇帝ゼルーダルは、その光景を不思議そうに見つめていた。
長い白髭を手で擦りながら、細められた瞳でアドリアンを注視する。
「ふむ」
だが、それ以上は、何も言わなかった。
彼の帝王として……いや、父としての直感が、不思議と口を出してはいけない、この瞬間を邪魔してはいけないと告げていたからだ。
「さぁ、姫様。此方へ」
二人は周囲の視線を浴びながら、優雅にホールの中央へと歩を進めた。
貴族たちは自然と二人に道を譲り、踊り手たちも次々とフロアから退いていく。
広大なホールには、アドリアンとトルヴィアの二人だけが残された。
そうして、オーケストラの奏でる優美な音色に乗せて、二人は舞い始める。
「殿下が、殿方の手をとった……?」
貴族たちは驚きのあまり、息を呑んでいた。
あのトルヴィアが──戦場で鬼神のように戦い、女性らしさを頑なに拒み続けてきた戦姫トルヴィアが、今は優雅な貴婦人のように、人間の英雄と共に舞っているのだ。
舞踏会の招待状が届くたびに「くだらない」と一蹴し、男女の別なく武器を突きつけてきた彼女が、今は柔らかな表情で踊りに身を委ねている。
皇帝も、四公爵も、そして集まった全ての貴族たちも──
誰もが息を殺して二人の舞踏を見つめながら、その信じられない光景に目を見張っていた。
そして、そんな事情など知らないエルフたちもまた、二人のダンスに夢中になっていた。
「わぁ、あの二人、すっごい息が合ってる!ねぇ、メーラち……っ!?」
レフィーラが目を輝かせて、そう言いかけた時だ。
「……ぐぬ……ぐぬぬ……!」
メーラは唇を尖らせ、不機嫌な表情を隠そうともしない。額のツノからは苛立ちを表すかのように、禍々しい魔力が漏れ出している……。
その様子に気づいたレフィーラは、慌てて口を手で塞いだ。
ホールに満ちる羨望、疑問、嫉妬──様々な感情が二人に注がれる中、二人は、別世界に閉じ込められたかのように、優雅に舞い続けていた。
そんな時、トルヴィアが不意に口を開く。
「ねぇ」
「なんだい、お姫様」
二人の視線が交差する。トルヴィアの紅い瞳には、何かを探るような色が宿っていた。
「私に付いてた呪いって、どんな呪いだったの?」
トルヴィアのその問いに、アドリアンは穏やかな微笑みを浮かべた。
二人は優雅に回転を続ける。トルヴィアが、アドリアンに寄り添うように、美麗な螺旋を描いていく。
その優雅な舞踏の中、アドリアンは静かに口を開いた。
「あの呪いは……簡単に言うとね、ちょっとでもその相手に不満があると、それが雪だるま式に大きくなっていく。そんな意地悪な呪いだったんだ」
「不満が大きく……?」
トルヴィアは、今までの自らの行動を思い出す。
『不満』を表に出して、隠そうとしない自分の行動を……。
「……」
最初にアドリアンと会った時──エルム平野で、同盟の打診を拒否したのは、確かに帝国の利益を考えての判断だった。だがそれ以上に、何故か彼に対して漠然とした反発を感じていた。
四公爵が同盟に反対した時も、自分の意見など通らないと分かっていたが、更に反対に回ったのは──どこか心の奥に、アドリアンへの理由のない苛立ちがあったから。
つまり、全ての根底には、アドリアンに対する説明のつかないもやもやと、理不尽な苛立ちが存在していたのだ。
しかし……。
ちょっとでも不満があると、大きくなっていく呪い。
言い換えれば、不満がなければ無害な呪い。
アドリアンに対する、不満ってなんだろう?
別に、不機嫌になる要素などなかったはずなのに。
軽口が原因?いや、違う。
表面上は怒ってはいたが、心の奥底では嫌なわけではなかった。
では一体、なぜ──。
その時、トルヴィアは何気なくアドリアンの顔を見上げた。
そして、その光景に息を呑む。
「え……?」
──アドリアンの瞳から、大粒の涙が次々と零れ落ちていた。
彼の端正な顔に、止めどない涙が伝っていく。
「どうして……泣いているの?」
トルヴィアの紅い瞳が驚きで見開かれた。
いつも軽口ばかり叩いて、周りを困らせているはずの英雄が。
世界最強と謳われる、アドリアンが。
泣いている。
幼子のような、無垢な瞳で涙を流している……。
「その……えっと」
男性が泣いているのを初めて見るトルヴィア。
彼女は戸惑いを隠せず、どう反応していいのか分からないまま、ただ踊り続ける。
男性が泣いているところを見るのは初めて──特に、英雄の涙は初めてで。
しかし、アドリアンは涙を流しながらも、優しく微笑んだ。
「キミが俺に不満を抱いていた理由……それはね……俺が約束を守らない『嘘つき』だからだよ」
トルヴィアはきょとんとして、不思議なものを見つけた子供のように目を丸くする。
彼女の仕草は、生真面目で雄々しい皇姫とは思えないほど、愛らしいものだった。
その表情を見て、アドリアンの胸に懐かしい感情が込み上げる。
(あぁ、キミの瞳は……世界を超えても、変わらないんだね。そう、あの時と──)
そして、静かに続く舞踏の中。
アドリアンの意識は遠い記憶の彼方へと溶けていく──。
♢ ♢ ♢
──それは、魔族の脅威が未だかつてないほどに迫っていた世界。
──そして、帝都が魔族の大軍に攻められる前の時間。
「けほっ……けほっ……」
地下帝都の宮殿の一室。
柔らかな明かりに照らされた部屋には、数え切れないほどのぬいぐるみが並べられている。その中心にあるベッドで、ドワーフの少女が苦しそうに咳き込んでいた。
真っ赤な髪を二つに結い、紅い瞳を持つ少女──。
彼女の華奢な体は、今にも壊れてしまいそうなほど弱々しく、その白い肌には禍々しい黒い痕が浮かび上がっていた。
その部屋に、一人の人間が入ってくる。
絢爛な外套を翻し、優しい笑みを浮かべた大英雄──アドリアンの姿だった。
「やぁトルヴィア。調子はどうだい?」
ベッドに近づくアドリアンを見て、少女──トルヴィアは満面の笑みを浮かべる。
しかし、その笑顔とは裏腹に、彼女の体は悲しいほどに衰弱していた。頬はこけ、腕は異様なまでに細く、一言話すだけでも呼吸が乱れる。
それは、命の灯火が消えかけているような、痛ましい姿。
「アドリアン……来てくれたのね」
震える腕をアドリアンへと伸ばすトルヴィア。
だが、その細い指が届く前に力尽き、今にも落ちそうになる。アドリアンは素早くその手を包み込むように受け止めた。
「おっとごめんよ。気が利かなかったね、お姫様」
「いいのそれより……『お話』を、聞かせて……私の、英雄さま」
──トルヴィア姫。
魔族の大公が放った悍ましき呪いにより、過酷な運命を背負わされた少女。
その呪いは、トルヴィアがまだ母の胎内にいた時に掛けられたものだった。彼女の生命の根源そのものに絡みつき、アドリアンが初めて彼女と出会った時には既に手遅れであった。
もしこの呪いを強引に解こうとすれば……その糸と共に、トルヴィアの命そのものが消えてしまう。それほどまでに、呪いは彼女の存在と一体化していたのだ。
「今日はどんなお話がいい?空を駆ける竜の話?それとも、魔族の大軍を打ち払った英雄の冒険かな?」
アドリアンは、地底の宮殿から一歩も外に出ることが出来ない少女の元を、欠かさず訪れていた。空の色さえ知らないトルヴィアに、自身が英雄として体験してきた物語を聞かせるために。
どんなに切迫した戦況でも、どれほど絶望的な状況でも……アドリアンは彼女との時間を一番大切にしていた。
「今日は……貴方の、一番楽しかったお話が……聞きたいな」
「そうかい?じゃあ──」
アドリアンの穏やかな声が、物語を紡ぎ始める。
トルヴィアは目を閉じ、その語りに身を委ねる。彼の言葉は不思議な魔法のようで、まるで自分がその冒険を体験しているかのように感じられるのだ。
──ある時は戦士として大軍を率いて。
──ある時は、竜を退治して。
──ある時は、滝を越え、山を登り、嵐の中を駆け抜けて。
この瞬間だけは、呪いに縛られた、哀れな見すぼらしい少女の自分を、忘れることができる──。
「それで、その時に俺は言ったんだ。キミはいつも──」
アドリアンの語りに目を閉じ、頬を緩ませていたトルヴィア。
だが、不意に──
「ごほっ……ごほっ!」
トルヴィアの口から、大量の血が溢れ出る。真っ白なシーツが、瞬く間に鮮血に染まっていく。
「トルヴィア!」
アドリアンは咄嗟に彼女を支え上げる。
トルヴィアは、力のない、霞がかった瞳で言った。
「ごめん……ね……お話の途中だったのに」
「大丈夫だよ。お話なら、また何度でも聞かせてあげられるから」
深い憂いを帯びたアドリアンの表情を見て、トルヴィアは申し訳なさそうに、儚い笑みを浮かべる。
アドリアンに優しく寝かされるトルヴィア。
彼女は自嘲するような笑みを浮かべながら、か細い声で言った。
「情けないわ……私、貴方より『お姉さん』なのにね……」
それはトルヴィアの口癖であった。18歳のアドリアンに対して、トルヴィアは19歳──。
なんのことはない、たった1歳の年の差に過ぎない。だが、彼女はそのことを殊更に口にし、アドリアンよりも年上だということをよく言うのだ。
それは彼女なりの……プライドだったのかもしれない。病に蝕まれ、何もできない自分に与えられた、唯一の誇り。
英雄よりも、たった1歳年上という、ささやかで小さな自己満足。
「そうだよ。トルヴィアは俺の『お姉さん』だからね。いつまでたっても、そこは変わらないんだ。俺がお爺さんになってもね」
アドリアンは優しく微笑みながら、そう答える。
普段なら、トルヴィアは頬を膨らませて「そうよ、私はお姉さんなの!」と誇らしげに返すのだが……。
──今日は違った。
「ねぇ、アドリアン」
呼吸するたびに胸が苦しそうに上下するにもかかわらず、トルヴィアは紅い瞳でアドリアンをまっすぐに見つめた。
そして、彼女はゆっくりと言葉を紡いだ。
「私、もうすぐ死んじゃうわ」
その言葉には覚悟と、諦め……そして深い決意が込められていた。
アドリアンの心臓が激しく鼓動を打つ。
だが、トルヴィアの紅い瞳には、苦痛の中にありながらも燃え盛るような強い意志が宿っていた。
その眼差しがアドリアンを射抜き、彼の動揺を静めていく。
少しの間を置いて、アドリアンは、優しい微笑みを浮かべると……。
「──そうだね」
アドリアンは彼女の死を否定しなかった。
英雄としての加護が、トルヴィアの死期を正確に、そして無慈悲に告げているのだから。
死を目前にした少女を前に、なんと言えばいいのだろう?どんな言葉で慰めればいいのだろう?
──本当は慰めたかった。そんなことはないと言いたかった。
だが、それは彼女の覚悟を否定することになる。
だから──
「ねぇトルヴィア。知ってるかい?キミはこれから、とっても素晴らしい場所に行くんだよ」
いつものように、アドリアンはトルヴィアに『お話』を始めた。
内心では悲しみと、彼女を救えない無力さへの後悔が渦巻き、激情が吹き荒れているというのに。
今この時ばかりは、優しい語り手の仮面を被る。
「どんなところなの……?」
「そこはね、痛みも苦しみもない、とっても穏やかな場所なんだ。今まで別れてきた人たちも、みんなそこでキミを待っている……」
アドリアンは、トルヴィアの小さな手を両手で優しく包み込む。
「そこではね、キミは今と同じお姫様として暮らすんだ。でも、呪いなんてないから、思いっきり走り回って、笑って、踊れる。とびきり元気なお姫様としてね」
その言葉に、トルヴィアは乾いた唇を動かし、幸せそうな表情を浮かべる。
「素敵……夢みたい」
「そうだろう?辛いことも、悲しいことも、全部ここに置いていって。新しい世界では、誰よりも活発で、可愛らしいお姫様になれるんだ」
トルヴィアの紅い瞳が、星のように輝きを増していく。
そして──不意に、トルヴィアがアドリアンを見つめて言った。
「ねぇアドリアン……私ね、一度でいいから──」
トルヴィアの紅い瞳から、大粒の涙が零れ落ちる。
「お姫様らしいことを、してみたかった」
止めどなく溢れ出る涙が、痩せこけた頬を伝っていく。
「お父様のように、雄々しく帝国の戦士たちを導いてみたかった……」
涙は止まらない。アドリアンはただ静かに、しかし深い慈しみを込めて耳を傾ける。
「宮廷で、きらきら輝くドレスを着て……誰かと踊ってみたかった」
アドリアンは知っていた。トルヴィアのために用意された、クローゼットの中の煌びやかなドレスたち。
いつか彼女が踊れる日が来ることを願って、何着も大切に保管されていることを。
しかし、それは一度も着られることはなかった。そしてこれからも──。
トルヴィアは激しい痛みに顔を歪めながらも、堰を切ったように話し続ける。
まるで、残された時間のすべてを使って、叶わなかった夢を語り尽くそうとするかのように。
「貴方と肩を並べて、元気に戦って──」
「時には喧嘩もしちゃったり──」
「可愛いなんて言われたら戦士として表面上は怒るけど、本当は嬉しかったり──」
トルヴィアは最後の力を振り絞るように、震える声で想いを紡ぐ。
アドリアンはトルヴィアの痩せこけた手を優しく握りしめながら、一つ一つの言葉に耳を傾けていた。
「うん……とっても素敵な夢だ……。でも大丈夫、これからキミが行くところで、その全てが叶うんだから」
その言葉を紡ぎながら、アドリアンの肩もまた、小刻みに震えていた。
「その世界に、貴方はいるの……?」
トルヴィアの問いに、アドリアンは一瞬手を止める。だが、すぐに優しい笑みを浮かべた。
「残念ながら最初はいないんだ。でも、俺もすぐにそっちに行くよ。それまでは素敵なお姫様の生活を満喫していてね」
そうして、アドリアンはトルヴィアの髪を優しく撫で続ける。
「約束よ?あまり長く待たせないで……一人は、寂しいから」
トルヴィアは、アドリアンの手の温もりを感じながら、幸せそうに目を細めて言った。
「あぁ。約束するよ。そっちに行ったら真っ先に、お姫様を舞踏会にお誘いするからさ」
暫くの間、幸せな静寂が二人を包む。
それは、昔から続いてきた絆を確かめるような時間で──いつまでもこの時間が続けば、と思っていたのに。
しかしやがて、トルヴィアの呼吸が次第に小さく、薄くなっていく。
「ごめんね……少し、眠くなってきちゃった……」
「うん、そろそろ休もうか。目覚めたら、きっと素敵なドレスに身を包んで、素敵な舞踏会の真っ最中だよ」
「ふふ……じゃあ、貴方が来るまで……一人で練習してるから……早く、迎えに……」
トルヴィアの全身から、ゆっくりと力が抜けていく。
まず指先が、次に腕が、そして肩が。
彼女の胸の上で握り合わされていた手がほどけ、柔らかく布団の上に落ちる。
そして最後まで紅く輝いていた瞳が静かに閉じられた。
「ごめんよ」
静寂に満ちた部屋で、アドリアンの嗚咽が虚空に響く。
大切な人を守れなかった無力さと、もう二度と会えない喪失感に、全身が震えていた。
「救えなくて、ごめんよ……」
そんな彼の横で、星の涙が柔らかな光を放っている。
トルヴィアの身体から淡い青い光が立ち昇り、星の涙へと吸い込まれていく。まるで、彼女の想いを全て受け止めるかのように。
嘆き続けるアドリアンは、その光に気付くことはなかった。彼はただ、止めどない涙を流し続けるばかりだった。
♢ ♢ ♢
豪奢な宮殿のホールで、柔らかなシャヘライトの光が二人を包み込んでいた。
英雄と姫君が織りなす優雅な舞踏。アドリアンとトルヴィアは、その一瞬の輝きの中で、静かに踊り続けていた。
「……」
優雅な舞踏の中で、トルヴィアは考え続けていた。
約束を守らない『嘘つき』?アドリアンと自分はなんの約束もしたことはない。
一体、どういう意味なのだろう……。
「あ、あれ……?」
そんな時だった。トルヴィアが、自分の異変に気付いたのは。
頬を伝う熱い感触。それは……。
「なんで……涙が……」
──涙。
瞳から零れた雫が、次から次へと頬を伝っていく。
拭おうとしても、止めようとしても無駄だった。
それは彼女の意思とは関係なく、まるで記憶の奥底から呼び起こされたかのように、止めどなく流れ出していった。
戦場でも決して涙を見せなかった彼女の頬を、溢れんばかりの大粒の涙が伝って……。
「──と、止まらない……止まらないよ……!どうして……!?」
困惑しながらも、止めどなく涙を流すトルヴィア。
彼女の頬を伝う雫を見て、アドリアンもまた、涙を流し……微笑んだ。
「トルヴィア」
永い時を超えて、ようやく果たせた約束のように、アドリアンは静かに言った。
「すぐに追いかけるって約束したのに、お姫様を随分長く待たせてしまった。真っ先にダンスに誘うって約束もしたのに、中々果たせなかった。だから──」
アドリアンの端正な顔に、大粒の涙が伝っていく。
「『お姉さん』。──遅くなって、ごめん」
その言葉を聞いた瞬間、トルヴィアの頬を更なる涙が溢れ出す。
彼女の整った顔が涙でぐしゃぐしゃになっていく。長い間溜めていた想いが一気に解き放たれるように。
二人して泣きながら踊るという奇妙な光景。
だが、ホールにいる誰もが、その光景から目を離すことができなかった。時を超え、時空をも超えた再会を見ているかのような、神々しいまでの美しさがそこにはあった。
そして、アドリアンの頬を伝う涙を見て──トルヴィアは優しく手を伸ばした。
「泣き虫さんね。でも……今度はちゃんと……涙を拭ってあげられる……」
『前の世界』の病弱な姫は、アドリアンの顔に触れようとしても、その細い腕は途中で力尽き、決して届くことはなかった。
しかし今は違う。健やかで強い腕が、しっかりとアドリアンの頬に触れ、その涙を優しく拭い去る。
「随分と待ったけど……特別に許してあげる──。私は、『お姉さん』だから……」
まるで本当の姉が弟の涙を拭うように──彼女の指に、アドリアンの涙が暖かく溶けていった。
──何故そんな言葉が出てきたのか。何故自分は泣いているのか。何が遅かったのか。
トルヴィアには何一つとして理解できない。
だけど、自然とそんな言葉が零れ落ち、腕を伸ばしていたのだ。
アドリアンは黙ってトルヴィアに涙を拭われ、その手の温もりを、静かに感じていた。
そして、ゆっくりと口を開き……。
「──ありがとう」
アドリアンはそう呟き、天井を見上げた。
その表情には、永い時を経て、ようやく果たせた約束の重みと、深い安堵の色が浮かんでいた。
ようやく。
ようやく、あの日の誓いを果たすことができた。
アドリアンとトルヴィアは、静かに舞い続ける。
大きな窓から差し込むシャヘライトの柔らかな光が、涙に濡れた二人の姿を優しく包み込んでいた。
永遠に続くかのような、そんな一瞬の輝きの中で──。