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第九十二話

トルヴィアは差し出された手と、アドリアンの凛とした顔を、交互に見つめ、戸惑っていた。


「えっと……」


いつものように皮肉めいた言葉で切り返そうとしたが……アドリアンの瞳に宿る真摯な光を見て、トルヴィアの言葉は途切れてしまう。


遠い世界?約束?


一体、何のことを言っているのか。トルヴィアにはさっぱり身に覚えがない。


しかし──


「……」


気がつけば、彼女の手はアドリアンの手の中にあった。

いつもなら即座に振り払うはずなのに。いつもなら即座に罵倒の言葉を投げかけるはずなのに。


その手が、不思議なほど温かくて、懐かしくて──。


自分でも理解できない。なぜ手を取ったのか、なぜ拒絶の言葉が出てこないのか。

まるで、ずっと待っていた人に再会したような、そんな不思議な感覚が彼女の心を満たしていた。


玉座に座る皇帝ゼルーダルは、その光景を不思議そうに見つめていた。

長い白髭を手で擦りながら、細められた瞳でアドリアンを注視する。


「ふむ」


だが、それ以上は、何も言わなかった。

彼の帝王として……いや、父としての直感が、不思議と口を出してはいけない、この瞬間を邪魔してはいけないと告げていたからだ。


「さぁ、姫様。此方へ」


二人は周囲の視線を浴びながら、優雅にホールの中央へと歩を進めた。

貴族たちは自然と二人に道を譲り、踊り手たちも次々とフロアから退いていく。

広大なホールには、アドリアンとトルヴィアの二人だけが残された。


そうして、オーケストラの奏でる優美な音色に乗せて、二人は舞い始める。


「殿下が、殿方の手をとった……?」


貴族たちは驚きのあまり、息を呑んでいた。

あのトルヴィアが──戦場で鬼神のように戦い、女性らしさを頑なに拒み続けてきた戦姫トルヴィアが、今は優雅な貴婦人のように、人間の英雄と共に舞っているのだ。


舞踏会の招待状が届くたびに「くだらない」と一蹴し、男女の別なく武器を突きつけてきた彼女が、今は柔らかな表情で踊りに身を委ねている。


皇帝も、四公爵も、そして集まった全ての貴族たちも──

誰もが息を殺して二人の舞踏を見つめながら、その信じられない光景に目を見張っていた。


そして、そんな事情など知らないエルフたちもまた、二人のダンスに夢中になっていた。


「わぁ、あの二人、すっごい息が合ってる!ねぇ、メーラち……っ!?」


レフィーラが目を輝かせて、そう言いかけた時だ。


「……ぐぬ……ぐぬぬ……!」


メーラは唇を尖らせ、不機嫌な表情を隠そうともしない。額のツノからは苛立ちを表すかのように、禍々しい魔力が漏れ出している……。

その様子に気づいたレフィーラは、慌てて口を手で塞いだ。


ホールに満ちる羨望、疑問、嫉妬──様々な感情が二人に注がれる中、二人は、別世界に閉じ込められたかのように、優雅に舞い続けていた。


そんな時、トルヴィアが不意に口を開く。


「ねぇ」

「なんだい、お姫様」


二人の視線が交差する。トルヴィアの紅い瞳には、何かを探るような色が宿っていた。


「私に付いてた呪いって、どんな呪いだったの?」


トルヴィアのその問いに、アドリアンは穏やかな微笑みを浮かべた。

二人は優雅に回転を続ける。トルヴィアが、アドリアンに寄り添うように、美麗な螺旋を描いていく。

その優雅な舞踏の中、アドリアンは静かに口を開いた。


「あの呪いは……簡単に言うとね、ちょっとでもその相手に不満があると、それが雪だるま式に大きくなっていく。そんな意地悪な呪いだったんだ」

「不満が大きく……?」


トルヴィアは、今までの自らの行動を思い出す。

『不満』を表に出して、隠そうとしない自分の行動を……。


「……」


最初にアドリアンと会った時──エルム平野で、同盟の打診を拒否したのは、確かに帝国の利益を考えての判断だった。だがそれ以上に、何故か彼に対して漠然とした反発を感じていた。

四公爵が同盟に反対した時も、自分の意見など通らないと分かっていたが、更に反対に回ったのは──どこか心の奥に、アドリアンへの理由のない苛立ちがあったから。


つまり、全ての根底には、アドリアンに対する説明のつかないもやもやと、理不尽な苛立ちが存在していたのだ。


しかし……。


ちょっとでも不満があると、大きくなっていく呪い。


言い換えれば、不満がなければ無害な呪い。


アドリアンに対する、不満ってなんだろう?

別に、不機嫌になる要素などなかったはずなのに。

軽口が原因?いや、違う。

表面上は怒ってはいたが、心の奥底では嫌なわけではなかった。

では一体、なぜ──。


その時、トルヴィアは何気なくアドリアンの顔を見上げた。

そして、その光景に息を呑む。


「え……?」


──アドリアンの瞳から、大粒の涙が次々と零れ落ちていた。

彼の端正な顔に、止めどない涙が伝っていく。


「どうして……泣いているの?」


トルヴィアの紅い瞳が驚きで見開かれた。

いつも軽口ばかり叩いて、周りを困らせているはずの英雄が。

世界最強と謳われる、アドリアンが。


泣いている。


幼子のような、無垢な瞳で涙を流している……。


「その……えっと」


男性が泣いているのを初めて見るトルヴィア。

彼女は戸惑いを隠せず、どう反応していいのか分からないまま、ただ踊り続ける。

男性が泣いているところを見るのは初めて──特に、英雄の涙は初めてで。

しかし、アドリアンは涙を流しながらも、優しく微笑んだ。


「キミが俺に不満を抱いていた理由……それはね……俺が約束を守らない『嘘つき』だからだよ」


トルヴィアはきょとんとして、不思議なものを見つけた子供のように目を丸くする。

彼女の仕草は、生真面目で雄々しい皇姫とは思えないほど、愛らしいものだった。

その表情を見て、アドリアンの胸に懐かしい感情が込み上げる。


(あぁ、キミの瞳は……世界を超えても、変わらないんだね。そう、あの時と──)


そして、静かに続く舞踏の中。


アドリアンの意識は遠い記憶の彼方へと溶けていく──。




♢   ♢   ♢




──それは、魔族の脅威が未だかつてないほどに迫っていた世界。

──そして、帝都が魔族の大軍に攻められる前の時間。


「けほっ……けほっ……」


地下帝都の宮殿の一室。

柔らかな明かりに照らされた部屋には、数え切れないほどのぬいぐるみが並べられている。その中心にあるベッドで、ドワーフの少女が苦しそうに咳き込んでいた。

真っ赤な髪を二つに結い、紅い瞳を持つ少女──。

彼女の華奢な体は、今にも壊れてしまいそうなほど弱々しく、その白い肌には禍々しい黒い痕が浮かび上がっていた。


その部屋に、一人の人間が入ってくる。

絢爛な外套を翻し、優しい笑みを浮かべた大英雄──アドリアンの姿だった。


「やぁトルヴィア。調子はどうだい?」


ベッドに近づくアドリアンを見て、少女──トルヴィアは満面の笑みを浮かべる。

しかし、その笑顔とは裏腹に、彼女の体は悲しいほどに衰弱していた。頬はこけ、腕は異様なまでに細く、一言話すだけでも呼吸が乱れる。

それは、命の灯火が消えかけているような、痛ましい姿。


「アドリアン……来てくれたのね」


震える腕をアドリアンへと伸ばすトルヴィア。

だが、その細い指が届く前に力尽き、今にも落ちそうになる。アドリアンは素早くその手を包み込むように受け止めた。


「おっとごめんよ。気が利かなかったね、お姫様」

「いいのそれより……『お話』を、聞かせて……私の、英雄さま」


──トルヴィア姫。

魔族の大公が放った悍ましき呪いにより、過酷な運命を背負わされた少女。

その呪いは、トルヴィアがまだ母の胎内にいた時に掛けられたものだった。彼女の生命の根源そのものに絡みつき、アドリアンが初めて彼女と出会った時には既に手遅れであった。

もしこの呪いを強引に解こうとすれば……その糸と共に、トルヴィアの命そのものが消えてしまう。それほどまでに、呪いは彼女の存在と一体化していたのだ。


「今日はどんなお話がいい?空を駆ける竜の話?それとも、魔族の大軍を打ち払った英雄の冒険かな?」


アドリアンは、地底の宮殿から一歩も外に出ることが出来ない少女の元を、欠かさず訪れていた。空の色さえ知らないトルヴィアに、自身が英雄として体験してきた物語を聞かせるために。

どんなに切迫した戦況でも、どれほど絶望的な状況でも……アドリアンは彼女との時間を一番大切にしていた。


「今日は……貴方の、一番楽しかったお話が……聞きたいな」

「そうかい?じゃあ──」


アドリアンの穏やかな声が、物語を紡ぎ始める。

トルヴィアは目を閉じ、その語りに身を委ねる。彼の言葉は不思議な魔法のようで、まるで自分がその冒険を体験しているかのように感じられるのだ。


──ある時は戦士として大軍を率いて。

──ある時は、竜を退治して。

──ある時は、滝を越え、山を登り、嵐の中を駆け抜けて。


この瞬間だけは、呪いに縛られた、哀れな見すぼらしい少女の自分を、忘れることができる──。


「それで、その時に俺は言ったんだ。キミはいつも──」


アドリアンの語りに目を閉じ、頬を緩ませていたトルヴィア。

だが、不意に──


「ごほっ……ごほっ!」


トルヴィアの口から、大量の血が溢れ出る。真っ白なシーツが、瞬く間に鮮血に染まっていく。


「トルヴィア!」


アドリアンは咄嗟に彼女を支え上げる。

トルヴィアは、力のない、霞がかった瞳で言った。


「ごめん……ね……お話の途中だったのに」

「大丈夫だよ。お話なら、また何度でも聞かせてあげられるから」


深い憂いを帯びたアドリアンの表情を見て、トルヴィアは申し訳なさそうに、儚い笑みを浮かべる。

アドリアンに優しく寝かされるトルヴィア。

彼女は自嘲するような笑みを浮かべながら、か細い声で言った。


「情けないわ……私、貴方より『お姉さん』なのにね……」


それはトルヴィアの口癖であった。18歳のアドリアンに対して、トルヴィアは19歳──。

なんのことはない、たった1歳の年の差に過ぎない。だが、彼女はそのことを殊更に口にし、アドリアンよりも年上だということをよく言うのだ。

それは彼女なりの……プライドだったのかもしれない。病に蝕まれ、何もできない自分に与えられた、唯一の誇り。

英雄よりも、たった1歳年上という、ささやかで小さな自己満足。


「そうだよ。トルヴィアは俺の『お姉さん』だからね。いつまでたっても、そこは変わらないんだ。俺がお爺さんになってもね」


アドリアンは優しく微笑みながら、そう答える。

普段なら、トルヴィアは頬を膨らませて「そうよ、私はお姉さんなの!」と誇らしげに返すのだが……。


──今日は違った。


「ねぇ、アドリアン」


呼吸するたびに胸が苦しそうに上下するにもかかわらず、トルヴィアは紅い瞳でアドリアンをまっすぐに見つめた。


そして、彼女はゆっくりと言葉を紡いだ。


「私、もうすぐ死んじゃうわ」


その言葉には覚悟と、諦め……そして深い決意が込められていた。


アドリアンの心臓が激しく鼓動を打つ。

だが、トルヴィアの紅い瞳には、苦痛の中にありながらも燃え盛るような強い意志が宿っていた。

その眼差しがアドリアンを射抜き、彼の動揺を静めていく。


少しの間を置いて、アドリアンは、優しい微笑みを浮かべると……。


「──そうだね」


アドリアンは彼女の死を否定しなかった。

英雄としての加護が、トルヴィアの死期を正確に、そして無慈悲に告げているのだから。

死を目前にした少女を前に、なんと言えばいいのだろう?どんな言葉で慰めればいいのだろう?


──本当は慰めたかった。そんなことはないと言いたかった。

だが、それは彼女の覚悟を否定することになる。

だから──


「ねぇトルヴィア。知ってるかい?キミはこれから、とっても素晴らしい場所に行くんだよ」


いつものように、アドリアンはトルヴィアに『お話』を始めた。

内心では悲しみと、彼女を救えない無力さへの後悔が渦巻き、激情が吹き荒れているというのに。

今この時ばかりは、優しい語り手の仮面を被る。


「どんなところなの……?」

「そこはね、痛みも苦しみもない、とっても穏やかな場所なんだ。今まで別れてきた人たちも、みんなそこでキミを待っている……」


アドリアンは、トルヴィアの小さな手を両手で優しく包み込む。


「そこではね、キミは今と同じお姫様として暮らすんだ。でも、呪いなんてないから、思いっきり走り回って、笑って、踊れる。とびきり元気なお姫様としてね」


その言葉に、トルヴィアは乾いた唇を動かし、幸せそうな表情を浮かべる。


「素敵……夢みたい」

「そうだろう?辛いことも、悲しいことも、全部ここに置いていって。新しい世界では、誰よりも活発で、可愛らしいお姫様になれるんだ」


トルヴィアの紅い瞳が、星のように輝きを増していく。

そして──不意に、トルヴィアがアドリアンを見つめて言った。


「ねぇアドリアン……私ね、一度でいいから──」


トルヴィアの紅い瞳から、大粒の涙が零れ落ちる。


「お姫様らしいことを、してみたかった」


止めどなく溢れ出る涙が、痩せこけた頬を伝っていく。


「お父様のように、雄々しく帝国の戦士たちを導いてみたかった……」


涙は止まらない。アドリアンはただ静かに、しかし深い慈しみを込めて耳を傾ける。


「宮廷で、きらきら輝くドレスを着て……誰かと踊ってみたかった」


アドリアンは知っていた。トルヴィアのために用意された、クローゼットの中の煌びやかなドレスたち。

いつか彼女が踊れる日が来ることを願って、何着も大切に保管されていることを。

しかし、それは一度も着られることはなかった。そしてこれからも──。


トルヴィアは激しい痛みに顔を歪めながらも、堰を切ったように話し続ける。

まるで、残された時間のすべてを使って、叶わなかった夢を語り尽くそうとするかのように。


「貴方と肩を並べて、元気に戦って──」

「時には喧嘩もしちゃったり──」

「可愛いなんて言われたら戦士として表面上は怒るけど、本当は嬉しかったり──」


トルヴィアは最後の力を振り絞るように、震える声で想いを紡ぐ。

アドリアンはトルヴィアの痩せこけた手を優しく握りしめながら、一つ一つの言葉に耳を傾けていた。


「うん……とっても素敵な夢だ……。でも大丈夫、これからキミが行くところで、その全てが叶うんだから」


その言葉を紡ぎながら、アドリアンの肩もまた、小刻みに震えていた。


「その世界に、貴方はいるの……?」


トルヴィアの問いに、アドリアンは一瞬手を止める。だが、すぐに優しい笑みを浮かべた。


「残念ながら最初はいないんだ。でも、俺もすぐにそっちに行くよ。それまでは素敵なお姫様の生活を満喫していてね」


そうして、アドリアンはトルヴィアの髪を優しく撫で続ける。


「約束よ?あまり長く待たせないで……一人は、寂しいから」


トルヴィアは、アドリアンの手の温もりを感じながら、幸せそうに目を細めて言った。


「あぁ。約束するよ。そっちに行ったら真っ先に、お姫様を舞踏会にお誘いするからさ」


暫くの間、幸せな静寂が二人を包む。

それは、昔から続いてきた絆を確かめるような時間で──いつまでもこの時間が続けば、と思っていたのに。


しかしやがて、トルヴィアの呼吸が次第に小さく、薄くなっていく。


「ごめんね……少し、眠くなってきちゃった……」

「うん、そろそろ休もうか。目覚めたら、きっと素敵なドレスに身を包んで、素敵な舞踏会の真っ最中だよ」

「ふふ……じゃあ、貴方が来るまで……一人で練習してるから……早く、迎えに……」


トルヴィアの全身から、ゆっくりと力が抜けていく。

まず指先が、次に腕が、そして肩が。

彼女の胸の上で握り合わされていた手がほどけ、柔らかく布団の上に落ちる。


そして最後まで紅く輝いていた瞳が静かに閉じられた。


「ごめんよ」


静寂に満ちた部屋で、アドリアンの嗚咽が虚空に響く。

大切な人を守れなかった無力さと、もう二度と会えない喪失感に、全身が震えていた。


「救えなくて、ごめんよ……」


そんな彼の横で、星の涙が柔らかな光を放っている。

トルヴィアの身体から淡い青い光が立ち昇り、星の涙へと吸い込まれていく。まるで、彼女の想いを全て受け止めるかのように。

嘆き続けるアドリアンは、その光に気付くことはなかった。彼はただ、止めどない涙を流し続けるばかりだった。




♢   ♢   ♢




豪奢な宮殿のホールで、柔らかなシャヘライトの光が二人を包み込んでいた。

英雄と姫君が織りなす優雅な舞踏。アドリアンとトルヴィアは、その一瞬の輝きの中で、静かに踊り続けていた。


「……」


優雅な舞踏の中で、トルヴィアは考え続けていた。

約束を守らない『嘘つき』?アドリアンと自分はなんの約束もしたことはない。

一体、どういう意味なのだろう……。


「あ、あれ……?」


そんな時だった。トルヴィアが、自分の異変に気付いたのは。


頬を伝う熱い感触。それは……。


「なんで……涙が……」


──涙。


瞳から零れた雫が、次から次へと頬を伝っていく。

拭おうとしても、止めようとしても無駄だった。


それは彼女の意思とは関係なく、まるで記憶の奥底から呼び起こされたかのように、止めどなく流れ出していった。

戦場でも決して涙を見せなかった彼女の頬を、溢れんばかりの大粒の涙が伝って……。


「──と、止まらない……止まらないよ……!どうして……!?」


困惑しながらも、止めどなく涙を流すトルヴィア。

彼女の頬を伝う雫を見て、アドリアンもまた、涙を流し……微笑んだ。


「トルヴィア」


永い時を超えて、ようやく果たせた約束のように、アドリアンは静かに言った。


「すぐに追いかけるって約束したのに、お姫様を随分長く待たせてしまった。真っ先にダンスに誘うって約束もしたのに、中々果たせなかった。だから──」


アドリアンの端正な顔に、大粒の涙が伝っていく。


「『お姉さん』。──遅くなって、ごめん」


その言葉を聞いた瞬間、トルヴィアの頬を更なる涙が溢れ出す。

彼女の整った顔が涙でぐしゃぐしゃになっていく。長い間溜めていた想いが一気に解き放たれるように。


二人して泣きながら踊るという奇妙な光景。

だが、ホールにいる誰もが、その光景から目を離すことができなかった。時を超え、時空をも超えた再会を見ているかのような、神々しいまでの美しさがそこにはあった。


そして、アドリアンの頬を伝う涙を見て──トルヴィアは優しく手を伸ばした。


「泣き虫さんね。でも……今度はちゃんと……涙を拭ってあげられる……」


『前の世界』の病弱な姫は、アドリアンの顔に触れようとしても、その細い腕は途中で力尽き、決して届くことはなかった。

しかし今は違う。健やかで強い腕が、しっかりとアドリアンの頬に触れ、その涙を優しく拭い去る。


「随分と待ったけど……特別に許してあげる──。私は、『お姉さん』だから……」


まるで本当の姉が弟の涙を拭うように──彼女の指に、アドリアンの涙が暖かく溶けていった。


──何故そんな言葉が出てきたのか。何故自分は泣いているのか。何が遅かったのか。


トルヴィアには何一つとして理解できない。

だけど、自然とそんな言葉が零れ落ち、腕を伸ばしていたのだ。


アドリアンは黙ってトルヴィアに涙を拭われ、その手の温もりを、静かに感じていた。

そして、ゆっくりと口を開き……。


「──ありがとう」


アドリアンはそう呟き、天井を見上げた。

その表情には、永い時を経て、ようやく果たせた約束の重みと、深い安堵の色が浮かんでいた。


ようやく。


ようやく、あの日の誓いを果たすことができた。


アドリアンとトルヴィアは、静かに舞い続ける。

大きな窓から差し込むシャヘライトの柔らかな光が、涙に濡れた二人の姿を優しく包み込んでいた。


永遠に続くかのような、そんな一瞬の輝きの中で──。


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