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第六十三話

凍り付いた空気の中、レフィーラが突如として我に返ったように目を瞬かせた。


「あら」


彼女は上品ぶった仮面を取り戻そうとしながら、安堵の吐息を漏らす。


「私ったら、つい大胆な言葉を口走ってしまいましたわ。でも──」


彼女は壊してしまった扇子の代わりに手を口元に当て、小さく笑う。


「人間の方にエルフ語が分かる筈もありませんもの。危うく取り返しのつかないことになるところでしたわ」


その言葉が響いた瞬間、フェイリオンをはじめとするエルフたちの背筋を、凍てつくような戦慄が走り抜けた。


(ま、まさか……!)


フェイリオンの顔が、みるみる青ざめていく。


(シェーンヴェル卿との会合の時、レフィーラは呆けていて何も話を聞いていなかった……?つまり……)


彼の頭の中で、恐るべき事実が閃光のように走る。

アドリアンが流暢なエルフ語を操ることも、それどころか古代エルフ語まで理解していることも、この天然な守護者は完全に覚えていないのだ。

そして、その驕りの上で、あのような大胆極まりない告白を──

一同の顔が蒼白に染まっていく中、アドリアンは……。


「えーっと。うん。なるほど……?」


アドリアンは頭を掻きながら、珍しく言葉に詰まった様子を見せる。いつもの鮮やかな切り返しも、今は影を潜めているようだった。

その異様な光景に、メーラは首を傾げた。あの機知に富んだアドリアンが言葉に窮するなど、まさに世界に裂け目でも開きそうな珍事である。


「あの、レフィーラ様は今なんとおっしゃったのでしょう?」


その純真な問いかけに、アドリアンは一瞬だけ思案するような表情を浮かべた。


「あのね、そのね、メーラ……あぁいや、メーラ姫。私もエルフ語には『そこまで』詳しくないので……恐らく本日は素晴らしいお天気で、といった実に乙女的なエルフの挨拶かと」


その言葉と同時に、彼はさりげなくフェイリオンに視線を送る。

聡明な外交官は、額に冷や汗を浮かべながらも、即座にその意図を理解した。


「姫とその騎士よ。申し訳ございません。レフィーラは……その、まだ『百年も経っていない』若手で、つい母国語が口を突いて出てしまう癖がございまして。誠に失礼な真似を」


フェイリオンは穏やかな微笑みを浮かべながら、さらに言葉を継ぐ。


「彼女の言葉の意味は『エルフと人間の友好が永遠に続きますように』という、実に深遠な祈りでございます。若さゆえの情熱的な表現をお許しください」

「違うわ!私は結婚し──もごぉ!?」


レフィーラの叫びは最後まで届くことはなかった。

エルフの騎士たちと、光を散らす妖精のペトルーシュカが、まるで古の魔獣を封印するかのような勢いで彼女の口を押さえたのだ。


「守護者様、時には沈黙の美徳を学ばれるのも良いかと存じます」

「この子の口、精霊封印術で縫い合わせちゃおうかしら」

「むーっ!むっー!」


着飾ったドレス姿のまま暴れるレフィーラを押さえ込む騎士たち。その光景にメーラは首を傾げ、アドリアンは思わず苦笑を漏らす。

しかしフェイリオンは、まるで目の前の騒動など存在しないかのように、優雅な仕草で二人に向き直った。


「さて、魔族の気高き姫君と、その勇敢なる守護者殿。どうか我らと共に、この穏やかな午後のひとときをお過ごしください」


フェイリオンの声が、柔らかい地底の風に乗って響き渡った。




♢   ♢   ♢




優雅なテーブルを囲んで一同が席に着く。

レフィーラは騎士たちに両脇を固められ、今や大人しく紅茶を啜っていた。


「魔族の姫君、それにアドリアン殿」


フェイリオンは端正な横顔を僅かに傾げながら切り出した。


「先日は誠に申し訳ございませんでした。貴女が魔族の姫君とは……私どもの見識の浅さを恥じるばかりです」


その言葉には、外交官としての謝意が巧みに織り込まれていた。

シェーンヴェルとの会談の折、従者の装いをしていた二人を、まさか高貴な身分の者とは思いもよらなかったのだ。


「いえいえ」


アドリアンは爽やかな微笑みを浮かべる。


「あの時の我々は紛れもなく『従者』でしたからね。エルフの皆様に失礼があったとは思えません」


フェイリオンの瞳が、わずかに細められる。その鋭い視線には、幾重もの疑問が潜んでいた。


「そう言って頂けると有難い。……ところで、お二方は何故従者の真似事を……?」


その問いかけに、アドリアンは意味深な微笑みを浮かべた。まるで、この質問を待っていたかのように。


「ああ、それはですね。時には『主人』よりも、『従者』の方が、物事の真実を見抜けるものなのです」


アドリアンの言葉に、フェイリオンは「ふむ」と小さく呟く。その表情からは、全く納得していない様子が窺えた。


(まったく、この説明では何も分からんな)


……と、そう言いたげなフェイリオンの表情に、アドリアンは内心で苦笑する。

シェーンヴェル卿の支持を取り付けるための策略だと正直に話すことは可能だが、そうなれば今後の行動に、エルフたちが首を突っ込んでくる可能性も否めない。


「さて」


アドリアンは話題を切り替えるように、紅茶を口に運ぶ。


「私からも一つ、気になることを伺ってもよろしいでしょうか?」

「なんでしょう?」

「……よろしければレフィーラ嬢が私に寄り添っている理由を、ご教示いただけないでしょうか」


その言葉に、一同がハッと気付く。

いつの間にかレフィーラは、アドリアンの真横まで椅子を移動させていた。

彼女は幼い子鹿のように目を輝かせ、アドリアンを見上げている。


「レ、レフィーラ!」


フェイリオンは慌てて護衛の騎士たちに合図をする。しかし反応がない。

見ると、騎士たちはレフィーラに吹き飛ばされたのか、地面に転がって気絶していた。

彼女は、もはや上品ぶった仮面を完全に捨て去り、天真爛漫な口調でアドリアンに詰め寄る。


「ねぇねぇ、アドリアンっていう名前、とっても素敵な名前ね!」

「あ、それで、そこのメーラ姫とはどういう関係なの?恋人じゃ……ないわよね?」

「あとねぇ、その外套の色、すっごく素敵!剣術は得意?魔法は?ドワーフの機械も使えるの?好きな食べ物は?年齢は?趣味は?結婚は……」


彼女の質問は降り注ぐ光のように止まることを知らない。


「レフィーラ!」

「お姉ちゃん、やめて!」

「ほんとに封印術を使うわよ!」


フェイリオン、ケルナ、ペトルーシュカは必死に彼女を抑えようとするが──


「いえ、構いませんよ」


アドリアンは優しく笑みを浮かべながら言う。


「上品ぶった『淑女』よりも、むしろこういう素直な守護者様の方が、私は好ましく思います。偽りのない心こそが、最も尊いものですからね」


その言葉に、レフィーラの瞳が一層明るく輝き始める。

しかし──


「なるほど」


メーラが、僅かに頬を膨らませながら言う。その声には、氷のような冷たさが混じっていた。


「私の『忠実な』騎士様は、見知らぬエルフの女性とすっかり打ち解けているようですわね。さすがは英雄様、心が広いこと」

「メーラ?あ、いやメーラ姫。誤解ですよ?私はただ……」


アドリアンが焦りの色を滲ませながら言い訳を始めようとした、その時。


「あら、仲が良いことは素晴らしいことじゃない!」


レフィーラは無邪気な笑顔で割り込む。


「それにフェイリオンも、二人と一緒に行動するようにって私たちに命令したもの。ねぇ、そうよね?」


その瞬間、魔導結晶の光さえも凍り付いたかのように、場の空気が一変する。

ケルナとペトルーシュカは「あちゃー」と肩を落とし、思わず顔を背けた。

そして、フェイリオンの顔は不自然に引き攣っていた。


(な、なんということを……!)


フェイリオンの心中は嵐のように荒れ狂っていた。

確かに彼は、レフィーラとケルナに密命を下していた。アドリアンと魔族の姫の素性を探るようにと。

そして、この茶会もエルフと魔族・人間の異文化交流という名目で、二人に寄り添う機会を作るための策だったのだ。

しかし、それは決して口に出してはならない秘密。まして、当の本人たちの前で──


これはもう、計画は失敗──


フェイリオンがそう思い詰めた瞬間、アドリアンの軽やかな声が響いた。


「なるほど。フェイリオン殿は異種族交流に並々ならぬ関心をお持ちなのですね」


彼は紅茶を優雅に啜りながら、意味深な微笑みと共に続ける。


「是非、私たちにエルフの文化をご教示いただきたい。魔族の姫君も、人間の英雄も、森の民の神秘的な叡智には興味津々ですから」


その言葉を聞き、フェイリオンは眉を顰めた。

明らかに策略は見破られている。それなのに、何故こんな寛容な態度を示すのか。

一方、メーラの紫紺の瞳には、アドリアンの真意が映し出されていた。


「……」


グロムガルド帝国との対シャドリオス連合が成立しても、世界にはまだ多くの国々が存在する。そしてその中には、エルフの森林国も含まれているのだ。

アドリアンは既に先を見据えている。この段階で外交官という高位のエルフに『借り』を作っておけば、いずれ森林国の支持を得る際の糸口になる。そういう計算なのだ。


しかし──


(なんだろう……この、気持ち)


メーラの心に、不思議な靄がかかり始める。あの愛らしいエルフの少女が、アドリアンの傍らに付き従うことを想像すると、何か言い表せない感情が胸の奥で渦を巻く。

それは嫉妬なのか、それとも──彼女の指先が、無意識のうちにドレスの裾を強く握りしめていた。


「メーラ姫も、宜しいでしょう?」


アドリアンの声が、メーラの葛藤する心に響く。

嫌だ……。本能的にそう叫びたい衝動に駆られる。しかし──


(でも、世界の為、魔族の解放の為に……)


そう自分に言い聞かせ、口を開こうとした瞬間。


「やったーー!!」


金色の閃光が、メーラの視界を横切った。

レフィーラが、まるで幼い妖精が花に抱きつくように、アドリアンに飛び込んでいく。その仕草には、もはや淑女のかけらもない。


「これからよろしくね、アドリアン!」


天井からの魔導結晶の光を受けて輝くレフィーラの笑顔。

その無邪気な表情が、メーラの理性の最後の一線を踏み越えた。

一瞬の静寂──そして。


「やっぱダメーーーー!!!!」


メーラの叫びが中庭に響き渡る。

フェイリオンもケルナも、ペトルーシュカも、気絶していた騎士たちさえもが、その叫びに背筋を正す。

そしてアドリアンは──レフィーラを抱きとめたまま、やれやれ、と肩を竦めたのであった。




♢   ♢   ♢




「出て行けーーーーっ!!」


ベレヒナグルの怒号が研究室に響き渡る。

──そんな経緯で、メーラの激しい抵抗も結局は諦めという形で収束し、森の守護者レフィーラが同行することになった。

……のだが、その結果がこうも早く災いを招くとは。


「わぁ!この機械も光ってる!ねぇねぇ、これは何をする機械なの?」


レフィーラは既に先ほどの失態など忘れたかのように、別の魔導機械に目を輝かせながら駆け寄っている。


「こらっ!その装置に触るな!それは極めて繊細な……」


ベレヒナグルの制止の声も空しく、レフィーラの好奇心は止まる所を知らない。

アドリアンは思わず苦笑を浮かべる。天真爛漫なエルフの守護者と、機械に魂を捧げた偏屈な公爵。

その組み合わせは、まるで油に水を注ぐようなものだ。


「う~ん、こりゃ早まったかな?」


研究室に響く機械の音と、レフィーラの歓声と、ベレヒナグルの怒号と……そして、アドリアンの呟きが、容赦なく混じり合い、調和した。


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