帝国の王城にある中庭は、地底とは思えない美しさを湛えていた。
天井から降り注ぐ魔導結晶の光は、まるで本物の陽光のように柔らかく、その輝きは庭園に植えられた希少な光花の花びらを優しく照らしている。
「う~ん、この花瓶はもう少し左かな……」
「お姉ちゃん……花瓶の場所とか、どうでもいいと思う……」
ケルナは、テーブルの上で花の配置に没頭するレフィーラを心配そうに見守っている。
レフィーラの金色のポニーテールが、魔導結晶の光を受けて揺らめくたびに、妖精の粉が舞うかのような輝きを放っていた。
「うーん、でもこっちの方が光の加減が綺麗かな?」
レフィーラは無邪気な表情で首を傾げる。
「もう!レフィーラ、そんな細かいことより早く準備を済ませなさいよ!」
ペトルーシュカが光を散らしながら、いつものように呆れた声を上げた。
そして──テーブルの一角では、外交官フェイリオンが静かに紅茶を啜っていた。彼の端正な横顔には、何かを思案するような深い陰が浮かんでいる。
「フェイリオン様、お客様がいらっしゃる時間まであと僅かですが……」
「ああ」
護衛のエルフ騎士の声に、彼は穏やかに目を閉じる。
「魔族の姫と……英雄殿が来る時間だな」
フェイリオンは茶会の主として、その場に優美に佇んでいた。魔導結晶の柔らかな光が、彼の長い銀髪に反射して静かな輝きを放つ。
(魔族の姫君と人間の英雄か……)
彼は記憶を辿る。初めて彼らと対面した時、二人はシェーンヴェル卿の従者として自分たちの前に現れた。
完璧なまでの礼儀作法で、まるで生粋の貴族の執事とメイドのように振る舞っていたものだ。
しかし後に真相を知る。シェーンヴェル卿や皇帝陛下から聞かされた驚くべき事実──彼らはなんと、魔族の姫君と、人間の英雄だという。
(魔族に姫などというものがいるとは)
フェイリオンの細い指が、無意識に紅茶のカップの縁を撫でる。
確かに皇帝は二人を貴賓として遇している。
森林国からの使者である自分たちと同等の、いや、もしかするとそれ以上の待遇かもしれない。
それなのに、何故彼らは従者の真似事などしていたのか。
その目的も、真意も、まるで掴めない。まるで霧の向こうを覗くように、謎は深まるばかり。
しかし──
「まぁいい。彼らを茶会へと招けば分かることだ」
フェイリオンは静かにそう呟いた。
彼の瞳の奥には、ただの茶会以上の何かが潜んでいた。それは好奇心か、それとも警戒心か。あるいはその両方か。
「ところで……」
フェイリオンは横目でちらりとレフィーラを見やる。その瞬間、彼の眉が僅かに持ち上がった。
「レフィーラ。貴女は何故、そのような出で立ちを……?」
その困惑の眼差しの先には、まるで別人のように着飾ったレフィーラの姿があった。
普段の彼女からは想像もつかない、優美な淡青色のドレスに身を包み、金色の髪には簪が煌めいている。
いつもの弓を片手に駆け回る快活な少女の面影は、どこにも見当たらない。
「うふふっ」
レフィーラは、長年の修練を積んだ貴婦人のように、上品に扇子を開いて口元を隠した。その仕草は明らかに練習した跡が見える。
「フェイリオン様ったら、この私がこのような優雅な装いをすることが、そんなにも不思議でございますの?」
その気取った物言いは、どう見ても彼女本来の雰囲気からは掛け離れていた。エルフ特有の優美さすら、どこか作り物めいて見える。
一瞬にして、中庭は凍り付いたような静寂に包まれた。
ケルナの手から魔法の杖が音を立てて転がり落ち、ペトルーシュカは光の粒子を撒き散らしながらぽとりと地面に落下する。
騎士たちは口を開けたまま石像のように動きを止め、フェイリオンの瞼は、まるで緊急事態を示す魔導信号機のように慌ただしく瞬きを繰り返していた。
その沈黙を破ったのは、ペトルーシュカの悲鳴のような声だった。
「なんてこと!?レフィーラが『上品な貴婦人』に変身するなんて!これは世界樹が根っこから逆立ちするレベルの異常事態よ!」
その叫びに続いて、ケルナが心配そうな声を上げる。
「お姉ちゃん……もしかして、森の奥に生えてる怪しげなキノコでも食べちゃった?早く吐き出して!このままじゃ取り返しがつかなくなっちゃう!」
「これは深刻だ……」
騎士の一人が震える声で呟く。
「『星弓の守護者』様が淑女になられるとは……これはもう、エルフの歴史書を全て書き換えないといけないレベルの大事件では……?」
その皮肉めいた反応の数々に、レフィーラの表情が見る見る歪んでいく。彼女の手にした扇子が、ミシミシと音を立てて握りつぶされていく。
しかしその途中、何かを思い出したように慌てて取り繕う。彼女の頬が痙攣するように引き攣りながら、必死に怒りを抑え込んでいた。
「み、皆様ぁ。何を仰っているのかしら。このレフィーラは、常日頃から優雅な淑女として振る舞っているはずですわよ……ねぇ!?」
その言葉とは裏腹に、握りつぶされた扇子の残骸が儚げに床に舞い落ちる。
「……貴女が普段から上品かどうかはさておき」
フェイリオンは深いため息と共に言葉を紡ぐ。
「これは単なる午後のお茶会です。お見合いの席でもないのに、そこまでの装いは些かおかしいかと」
「お見合い!?」
レフィーラの体が、まるで弓の弦が弾かれたように跳ねる。その声は、必死に作っていた上品な調子を完全に失っていた。
「うん……そう、お見合い……」
彼女の眼差しが宙を泳ぎ、頬が薔薇色に染まっていく。まるで森の妖精が初めて恋を知ったような、夢見心地の表情。
その様子に、周囲のエルフたちは再び密やかな囁きを交わし始めた。
「もしかしてあの人間に懸想してる訳?あーあ、『星弓の射手』様が堕ちちゃったわね」
ペトルーシュカが皮肉めいた声で告げる。
騎士やケルナたちも、彼女に続き次々と口を開いた。
「このまま人間に夢中になって、森の掟も忘れるのはまずいのでは……あぁ、元より知らないか」
「『星弓の射手』様は男に興味があったのか?食べ物にしか興味がないとばかり……」
「お姉ちゃん、あの人間は食べれないよ……」
その瞬間、彼女の周りに青白い魔力が渦巻き始めた。
「うるっさぁーーーーいっ!!」
上品な仮面が完全に剥がれ落ち、レフィーラの本来の野性的な声が響き渡る。魔力の奔流が彼女の周りを渦巻き、着飾ったドレスがはためく。
「ちょっと好きな人ができたくらいでそこまで言わなくたっていいでしょーーーっ!!」
彼女の手の中に、青く輝く魔法の弓が実体化する。その矢は、世界樹の加護を受けた守護者の証。
一撃で百の軍勢を薙ぎ払うことさえ可能な、精霊界より賜った魔法の武器だ。
そんな『物騒』な武具を顕現させるレフィーラに、周囲のエルフたちはギョッと目を見開くが──
「やぁ、みなさん。随分と賑やかな茶会ですね」
「──っ!?」
突如として響いた、艶のある声に、レフィーラの動きが凍り付いた。
一同が声のする方へと振り向くと、そこには人間の青年アドリアンと、魔族の姫君メーラの姿があった。
以前の執事の姿とは打って変わり、アドリアンは深い緑の外套を優雅にまとった冒険者の姿。
その傍らのメーラは優美なドレスに身を包み、魔族の姫君としての気品を纏っていた。薄紫の髪が風に揺れ、その姿は幻想的な美しさを湛えている。
二人の予期せぬ登場に、エルフたちの間に緊張が走る。
「外交官フェイリオン殿。この度は優雅なお茶会にお招きいただき、光栄に存じます」
「私からも、魔族を代表してお礼を申し上げます。このような機会を設けていただき、心より感謝いたします」
二人は軽やかな足取りで茶会の席へと近づいていく。
レフィーラの顕現させた弓の青い光が、二人の佇まいを幻想的に照らし出す。
「ようこそいらっしゃいました」
フェイリオンは穏やかな微笑みを湛えながら、二人を迎え入れる。その表情からは、内に秘めた警戒の色を微塵も読み取ることはできない。
アドリアンも同じように、微笑みを浮かべながら言った。
「それにしても、エルフの茶会は実に粋なものですね。特に──」
彼はレフィーラの姿に目を向ける。
「お客様を射抜かんばかりの美しい守護者様がいらっしゃる辺りが、とても印象的です」
その意図の見え透いた皮肉に、フェイリオンは思わず額に冷や汗を浮かべる。部下の失態を弁明しようと口を開きかけた、その瞬間──
シュン、と。
風を切る音が響いた。
まるで世界樹の枝から舞い降りる精霊のように、いや、それ以上の速さで、レフィーラがアドリアンとフェイリオンの間に割り込んでくる。
着飾ったドレスも、上品ぶった仕草も、今や意味を失っていた。
彼女は、まるで獲物を見定める森の猟師のような鋭い眼差しで、アドリアンを見上げて──
「フェル・セルアゼリアド……メリーレラ!(結婚してください……!)」
その古のエルフ語が、魔導結晶の柔らかな光に包まれた中庭に響き渡った瞬間、時が止まったかのような静寂が訪れる。
「──」
アドリアンの表情から、いつもの飄々とした微笑みが消え失せ、氷の彫像のように凍りついた。
フェイリオンの瞳が、物理的な限界を超えて見開かれていく。
他のエルフたちは、呆然と口を開けたまま動かなくなった。
「?」
その中で、唯一エルフ語を解さないメーラだけが、無邪気に首を傾げている。
「あのぅ、いま何て?」
その純真な問いかけは、誰の耳にも届かなかった。
魔導結晶の光は相変わらず柔らかく降り注ぎ、噴水の水音だけが、この狂おしいまでの静寂を静かに潤していた。