無数の歯車が刻む時を彩る音が、深い闇の中で響き渡っていた。
執務室とも研究室とも付かぬその空間で、魔導機械たちは淡い光を放ちながら、生命を持つかのように静かに稼働を続けている。
「7929号よ、君の動きが少し鈍いようだが」
モノクルの奥で、機計公ベレヒナグルの鋭い眼光が輝いた。彼の手にした機械仕掛けの杖が、規則正しい音を刻みながら大理石の床を叩く。
「ふむ……」
彼は髪を掻き上げながら、愛おしそうに魔導機械に手を伸ばす。その指先には、幾つもの機械仕掛けの指輪が煌めいていた。
「シャヘライトの含有量が0.03%増加しているな。これでは効率が落ちる一方だ」
ベレヒナグルは優雅に杖を振り上げ、魔導機械の中枢に触れる。するとその瞬間、部屋中の歯車が一斉に逆回転を始めた。
天井のシャンデリアまでもが、まるで時が巻き戻るかのように揺れ動く。
「さて、新型魔導機械兵の設計の進捗は……」
彼が呟くや否や、部屋の隅に置かれた古めかしい魔導計算機が、まるで主人の言葉を待っていたかのように作動し始めた。
真鍮の歯車が高速で回転し、次々と複雑な計算結果を吐き出していく。
「ほう、予想以上の完成度か」
──その時、執務室の扉が轟音と共に開かれた。
突然の来客に、魔導機械たちが不規則な音を立てて震える。
ベレヒナグルは振り向きもせずに言った。
「礼儀というものを知らんのかね、若者よ」
「失礼。でも、機械相手に礼儀というのも面白い発想ですね」
その声の主は、かの英雄アドリアンであった。
ベレヒナグルはゆっくりと体を向け、モノクルの奥の目を細めた。その瞳には、幾何学的な模様が浮かび上がっている。
「ふむ『英雄』とやらは随分と暇なようだ。このような無機質な部屋で時間を潰すとは」
「実は暇じゃないんですよ。ベレヒナグル卿に人の言葉の暖かさを伝えるのに忙しくて」
その言葉に、ベレヒナグルは一瞥もくれずに、その視線は目の前で稼働する魔導機械に注がれる。
「7929号、君の動きがまた0.05秒遅れている。これは調整が必要だな」
アドリアンの存在など、まるで空気のように無視して語りかける様子に、アドリアンは思わず苦笑を浮かべた。
「相変わらずですね。人間やドワーフより機械の方が大事で?」
「生き物は気まぐれで不完全な存在なのだよ」
ベレヒナグルは機械仕掛けの杖で、優雅に魔導機械の一部を調整しながら続けた。
「だが、この子たちは違う。完璧な論理で動き、決して裏切ることのない、理想的な存在だ。そうだろう? 7929号」
からんっ、という音と共に、魔導機械が小さく震えた。
「ベレヒナグル卿。機械と話すくらいなら、たまには舞踏会にでも顔を出されては? シェーンヴェル卿なら、きっと歓迎してくれますよ」
その皮肉めいた提案に、ベレヒナグルは聞こえないふりをして、さらに大きな声で魔導機械に語りかけた。
「8275号、君のシャヘライト循環システムも調整が必要のようだ。今夜は徹夜になりそうだ」
その様子を見たアドリアンはゆっくりと部屋の中を歩き始めた。
その足音が、規則正しく響く歯車の音と不協和音を奏でる。
「まぁ、魔導機械との密月を邪魔するつもりはありませんが──」
アドリアンは意図的にゆっくりと足を進め、部屋の隅に鎮座する大型魔導計算機の前で立ち止まった。
その装置は、重厚な黄金と銀の無数の歯車で構成された真四角の魔導機器で、幾何学的な模様の間から神秘的な光を放っている。
「やぁ、計算子ちゃん。久しぶり」
その不遜な声が、規則正しい歯車の音を切り裂いた。
「君のご主人様に伝言をお願いできるかな?0と1で構成された言語なら、彼も一考してくれるかもしれないからさ」
アドリアンは計算機に向かって、まるで幼子に話しかけるような甘ったるい声で続けた。
「『その精密な頭の中も、たまにはメンテナンスが必要ですよ』……って。生身のドワーフと話すのが一番の、うーん、潤滑油かな?」
その瞬間、レヒナグルのモノクルの奥に、危険な輝きが宿った。
幾何学的な紋様が彼の瞳の中で高速に回転を始め、その体の周りでは装飾的な歯車が次々と展開されていく。
まるで機械の蝶が舞い立つかのように、銀色の装甲が彼の体を優雅に包み込んでいった。
「貴様──」
研究室の気温が一気に下がり、アドリアンの吐く息が白く霧散する。
無数の魔導装備が完全展開された時、ベレヒナグルの放つ殺気は、まるで凍てつく機械の意思そのものであった。
しかしその殺気の中、アドリアンはまるで春風に当たるかのような穏やかな表情を浮かべていた。
「素晴らしい装いだ、ベレヒナグル卿。これなら機械たちも安心して『パパ』と呼んでくれるでしょうね」
彼の余裕げな態度に、ベレヒナグルの展開した魔導装備が更なる唸りを上げる。
銀色の歯車が高速で回転し、まるで主の怒りを代弁するかのように青白い光を放った。
その時──
「わぁー!!なにこれ!すごいすごい!」
突如響き渡った歓喜の声に、部屋の空気が一瞬にして凍り付いた。
ベレヒナグルがゆっくりとその方向へ視線を向けると──そこには、金色のポニーテールを躍らせる一人のエルフの少女の姿があった。
「ねぇ!この青い光、まるでお月様みたい!」
彼女は子供のようにはしゃぎながら、ペタペタと精密機器に触りあちこちを観察している。
ベレヒナグルの展開していた戦闘用魔導装備が、その純真な歓声の前に、少しずつ崩れていく。
「エルフ……?って、おい!そこの装置に触るな!」
しかし彼の制止の声も空しく、レフィーラは既に別の機械の前で跳ねるように走り回っていた。
「あ!これもきれい!」
彼女は軽やかに跳ねながら、次々と精密機器に手を伸ばす。
「この光、妖精みたいで──」
「さ、触るな!それは極めて繊細な──」
その言葉が終わる前だった。
レフィーラの指先が、金色に輝く魔導解析装置に触れた瞬間──
ピーッ!
青白い煙を吐き出しながら、小さな爆発音が響き渡った。
部屋の中が一瞬にして静まり返る。歯車の音さえ、まるで息を潜めたかのように止まった。
煙の向こうでは、高価な魔導機械が黒こげになって、かすかに火花を散らしている。
「えーっと……」
レフィーラは横目で、しかし申し訳なさそうにベレヒナグルの様子を窺っていた。
「これって、もしかして大切な機械……でした?そのぉ……ごめんっ!」
レフィーラは可愛らしく舌を出して謝った。
しかし──
「出て行けーーーーっ!!」
ベレヒナグルの叫び声が轟いた。彼の体が怒りに震え、モノクルの奥で幾何学模様が狂ったように回転している。
一方、アドリアンはその惨状を見て、やれやれと肩を竦めた。
「あの機計卿から、こんなに情熱的な声が聞けるとは感動だな。やれやれ……」
なぜ自分がこのエルフの少女と行動を共にしているのか──その記憶が、彼の脳裏に蘇っていく……。
♢ ♢ ♢
シェーンヴェルの支持を取り付けた後。
アドリアンとメーラは王城の一室でくつろいでいた。
残る公爵は後二人。機計公ベレヒナグルと鋼鉄公アイゼン……。
アドリアンはスモークから聞いた情報を元に、彼らをどう攻略するかを考えていた。
「メーラ、次はお人形遊びを見学しに行くよ。ただし、お人形は全部金属製でね」
「……え?それって、どういう……」
「可愛い機械の子たちに、俺たちも挨拶しないとね。生身の来客なんて珍しいだろうから、きっと歓迎してくれるさ」
二人がそんなやりとりをしている時だった。不意に、扉に軽やかなノックの音が響いた。
(誰だろう?)
二人が顔を見合わせた時には、既に扉は開かれていた。
そこには、燃えるような赤い髪を靡かせる少女──帝国の姫君、トルヴィアが立っていた。
「こんにちわ。遊びに来たわ、魔族の姫様に、生意気なクソガキさん」
いつもの重厚な鎧姿ではない。淡い紫紺の裾の長いドレスに身を包み、金の装飾を施した冠を被った彼女は、まさに童話から抜け出してきたような気品に満ちていた。
その姿は、まさしく帝国の姫君そのものである。
「えっ……!?」
メーラは驚きのあまり、ソファから飛び上がらんばかりの勢いで立ち上がる。
「ト、トルヴィア姫!?ご、ごごきげんうるわしゅう……!?」
突然の『本物の姫』の登場に、メーラは慌てふためくが、アドリアンは足を組んだまま、ゆったりとした体勢で椅子に座り続けていた。
その表情には、穏やかな微笑みが浮かんでいる。
「やぁ、トルヴィア」
アドリアンは、古くからの友人を迎えるかのような気さくな調子で言った。
「今日は随分と『お姫様』らしい恰好だね。いつもの鎧姿も素敵だけど──俺は『姫様』らしい格好の方が好きかな」
トルヴィアは、目の前の無礼な男、アドリアンに冷ややかな視線を投げかけ、言った。
「そう思うなら、その不遜な態度を改めたらどう? 『姫様』の前でその座り方は、いささか無礼じゃないかしら」
「おや、申し訳ない」
アドリアンは意図的にさらに深く椅子に身を沈めながら、艶のある声で返した。
「そうだね、『姫様』にふさわしい態度と言えば──即座に跪いて求婚するくらいかな?どうだい、試してみる?」
トルヴィアの表情が一瞬崩れる。
「や、やめて。いや、やめろ」
メーラは二人の間で、まるで剣と剣がぶつかり合うような会話を、困惑した表情で見つめていた。
「ところでトルヴィア姫様。ノックした後に返事も待たずに扉を開けるのは、如何なものかな? さすがの俺でも、少しは心の準備が欲しいんだけど」
「ふんっ」
トルヴィアは鼻を高くしながら返した。
「アンタになんか敬意を払う必要はないわ。まして、返事を待つ義理もないでしょう?」
「あぁ、なるほど。つまり、俺の着替え中の姿が見たいってことかな? いいよいいよ。じゃあ今度はノックもせずに扉を開けてごらん。きっと素敵な光景に出会えると思うよ」
トルヴィアの顔が見る見る紅潮していく。
「っ!──今度から、ちゃんと返事を聞いてから入るわ」
その言葉に、アドリアンの表情が満足げに緩んだ。メーラは思わず溜め息をつく。
まるで二人とも子供のような言い合いを、いつまで続けるつもりなのだろう。
「この男に何を言っても無駄ね……本当に疲れるわ」
その声には、激しい戦いの後のような疲労感が滲んでいた。そんな中、メーラが恐る恐る声を上げた。
「あ、あの……姫様、今日はどういったご用事で……?」
その問いかけに、トルヴィアの瞳が大きく見開かれた。
「あっ!そうそう!」
彼女は何かを思い出したように、急いで紫紺のドレスの袖に手を伸ばした。
「下らない男と話してるせいで、危うく忘れるところだったわ」
トルヴィアは胸元で軽く咳払いをすると、背筋を伸ばして姿勢を正した。
まるで、先ほどまでの口論など無かったかのように、帝国の姫としての威厳を取り戻す。
「これは、メーラ姫に……」
彼女はメーラに向かって、まるで宝物を扱うかのように両手で丁寧に一通の手紙を差し出す。
上質な紙に施された金の箔押しが、部屋の明かりを反射して輝いている。
そして──
「……あとアンタ宛てに」
アドリアンの分は、紙屑でも投げ捨てるかのように、片手で乱暴に放り投げた。
二人は怪訝な表情を浮かべながら、見事な金色の紋章が押された封筒を見つめる。エルフ特有の曲線的な装飾が、封蝋に美しく刻まれていた。
「……おや、これは」
アドリアンが不思議そうに封を開こうとした時、トルヴィアの艶のある声が響いた。
「魔族の姫と、『自称』英雄に──」
彼女は「自称」という言葉を噛みしめるように、ゆっくりと強調して言う。
「──エルフからのお茶会のお誘いよ」
その言葉が部屋に響き渡った時、シャンデリアの光がきらりと輝いた。まるで、これから始まる新たな物語を予感させるかのように。