エルフとドワーフの会談はつつがなく終わり、帝国と森林国の国交は回復の兆しをみせていた。
長年に渡る相互不信は一朝一夕には解消されないものの、少なくとも互いを「野蛮人」や「傲慢な耳長」と罵り合うことは減る筈だ。
「……ふぅ」
そんな変化の中、シェーンヴェルは一人、自分の部屋でくつろいでいた。
かつての豪奢な部屋は、今では控えめな気品を湛えている。
一日に76回の目薬も、30分おきの空気の入れ替えも、10着のドレスの着替えもない。
あれだけ群がっていた従者たちも数人にまで減り、彼女の纏う衣服も常識的な貴族の範囲内に収まっていた。
「なんて貧相な部屋。貧相な従者の数。貧相な衣装……」
シェーンヴェルは自嘲気味に呟く。
その声には以前のような苦々しさはない。むしろ、長年の重圧から解放されたような、穏やかな響きを帯びていた。
そうしてソファーに座っていると、背後から二人分の足音が響いてくる。
アドリアンの軽やかな足取りと、メーラの控えめな足音。
シェーンヴェルの唇が、微かな笑みを形作る──。
「世界一の美姫におかれましては、今日もご機嫌麗しく。ところで、新しいドレスは注文しなくてよろしいので?」
アドリアンの声には、いつもの皮肉めいた色が混じりながらも、どこか穏やかな温かみが漂っていた。
「ええ、もちろんよ。一日に十着は欲しいところだけれど……」
シェーンヴェルは振り返らずに応える。
「さすがにそれは、私の『従順なる僕』に叱られそうですわ。今日は一着だけで我慢するとしましょうか」
その言葉には、かつての尖った響きはない。長年の友人との穏やかな会話のような、温かい空気が流れていた。
暫く経ったころ、不意にシェーンヴェルは呟く。
「──連合の件」
その言葉に、メーラは身体を揺らす。シェーンヴェルは優雅に紅茶を飲みながら、振り向かずに言葉を紡ぐ。
「シャドリオス連合。人間、魔族、ドワーフ、エルフ……様々な種族が手を取り合い、シャドリオスに対抗する……まるで子供のお伽噺のようで笑っちゃうわ。『世界一の美姫』である私が、そんな荒唐無稽な話に乗るとでも思ったのかしら?」
シェーンヴェルは肩を小さく竦める。その仕草には、これまでの彼女らしい気取りが残っていた。
「私は魔族の姫のために、そんな夢物語めいた提案に賛成する道理などありませんわ」
「閣下……」
メーラのしょんぼりとした声が、部屋の空気を震わせる。
「地位も名誉も、全てを失いかねない賭けに。まして、ドワーフの高位貴族が、魔族の味方をするなんて……帝国中の笑い者になってしまうでしょうね」
メーラは俯き、アドリアンの服の裾をギュッと握る。
しかし、アドリアンは穏やかに微笑んだままだ。彼は知っていた。この後に続く言葉を。
「──でも」
シェーンヴェルはそっと目を閉じ、深い息を吐く。
「魔族の姫ではなく、私の『従順すぎる』メイドの為ならば」
カチャリと。ティーカップとソーサーの触れ合う音が響く。
「この『世界一美しい』輝美公が、体面なんて下らないものを失うのも悪くはありませんわ。たとえ、世間から非難されようとも」
そう言って、シェーンヴェルはくるりと二人の方へ振り向く。
そこにあったのは、もはやかつての豪勢な化粧を施した仮面のような顔ではなかった。
年相応の皺も、些細な肌の揺らぎも、全てが彼女という存在の温かみを感じさせる要素となっていた。
「これはこれは。いつぞやの『世界一美しい』御方が、さらに美しくなられましたね。化粧を落とすたびに泣き叫んでいた方とは思えないほどに」
アドリアンの言葉は本心からのものだ。
これこそが、彼が本当に美しいと思える輝美公の素顔。
「閣下……」
メーラは純粋な感動を瞳に湛えて言う。
「本当に、綺麗です。私が見てきた女性の中で、一番……」
その素直な言葉に、シェーンヴェルは思わず頬を染める。
かつての彼女なら、このような率直な褒め言葉など無視していただろう。
しかし今は──その言葉が、心から嬉しく感じられた。
シェーンヴェルは立ち上がる。
豪奢な装飾も、複雑な結い上げもない、ただ自然に流れる美しい金髪が、窓から入り込む光に煌めき靡く。
「よく、私の『任務』を完璧に遂行してくれましたね」
彼女は意味深な微笑みを浮かべる。
「エルフを怒らせることなく、会談を成功させるという『無理難題』を。私が意図的に台無しにしようとしたというのに、貴方は見事に乗り越えてくれた。さすがは私の『従順すぎる』執事様」
その言葉の裏には、確かな感謝の色が潜んでいた。
「私の従順なメイド、メーラ」
その声には、かつての威圧的な響きはない。
まるで愛しい家族を見守るような、優しさに満ちた声色。
「貴女がこれから何を成すのかは、私には分からない。きっと、私の想像をはるかに超えた、途方もない運命が待ち受けているのでしょう」
シェーンヴェルは一歩、メーラに近づく。
そして、彼女の薄紫の髪を優しく撫でる。
「でも、貴女が貴女である限り……」
彼女は静かに、しかし確かな決意を込めて続ける。
「その純真な心を失わない限り、私は持ちうる限りの権力を以て貴女を助けましょう──」
その言葉に、メーラとアドリアンは顔を見合わせ、穏やかな微笑みを交わす。
そして二人は、まるで本物の従者のように、シェーンヴェルの前に跪いた。
「「貴女の美しさに、誓いましょう」」
アドリアンとメーラの声が、静かに響く。
「「必ずや連合を纏め上げ、そして世界の脅威たるシャドリオスを、退けてみせると」」
二人の声が重なり合う。
その時、シェーンヴェルの表情が、かつて見たことのないような柔らかな笑みへと変わった。
「──そう。ふふ、頑張りなさいな」
その言葉に込められた決意と、シェーンヴェルの優しい微笑みは、三人の心の中で確かな光を放ち続け穏やかな部屋に溶けていった。
♢ ♢ ♢
エルフの一行は暫く王城に滞在することとなった。
王城にある貴賓室の窓から見える地下帝国の帝都の景色……。
そんな芸術的な歯車と魔導結晶の輝きが織りなす光景に、フェイリオンは端正な顔で思案を巡らせていた。
「……」
ドワーフとの国交正常化は順調だ。無論、何百年にも及ぶ確執はそう簡単にはぬぐえない。だが、表面的には多少の改善が見込めるだろう。
エルフとドワーフの溝は、僅かながらも埋まり始めている。
しかし、そんなことはどうでもいい。
フェイリオンの頭の中には一人の人間の青年……執事服を着たアドリアンの姿が浮かんでいた。
エルフの最上級の作法を完璧に理解し、自信の過去すら知る謎の男。シェーンヴェルの心すら、まるで手のひらで転がすように操った不可思議な存在。
(あの人間は一体何者なのだ)
フェイリオンの瞳が細くなり、危険な色を帯びていく──。あのような謎の存在を、このまま放置していいものだろうか。
不審な者は排除するのが、最も確実な方法ではないだろうか。
そんな危険な思考に辿り着きかけた、その時。
バタン、と部屋の扉が勢いよく開かれた。
「フェイリオン!見て、これ凄いのよ!」
「お、お姉ちゃん、そんなに走ったら……!」
レフィーラとケルナ、そして妖精のペトルーシュカが、まるで嵐のように部屋に飛び込んでくる。
レフィーラの手には、小さな歯車が幾重にも組み合わされた魔導機械の玩具が握られていた。
「もう、レフィーラったら!その年で何をはしゃいでるの!しかも見るからに子供向けの玩具じゃないの!」
「でもでも、これ面白いんだってば!ほら、この歯車の動き方!あ、この結晶の光の色が変わった!」
ペトルーシュカが呆れた声を上げるが、レフィーラは目を輝かせながら、玩具を夢中で観察している。
(はぁ……)
殺気も危険な思考も、彼女の無邪気な様子の前では霧散するほかない。
彼は額に手を当て、呆れたような表情を浮かべながら椅子へと腰掛けた。
「フェイリオン、これ見てよ!ほら!」
レフィーラは玩具をフェイリオンに差し出すが、彼はそれを手で制した。
「私はいい」
「えー?面白いのに……」
レフィーラは口を尖らせながら、再び玩具をいじり始めた。小さな歯車が軽やかな音を立てて回転し、その度に魔力の光が虹色に輝く。
そんな彼女を放置して、ペトルーシュカはそっと口を開く。
「……ねぇ、フェイリオン、あの人間のことを考えてたんでしょ?」
その声色には、どこか不安げな響きが含まれていた。
妖精は精霊に最も近い存在。
時として、魂そのものを見通すことさえできると言われており、その特異な能力はエルフですら完全には理解できない神秘的なものだった。
「……私ね、あの人間を見ると」
ペトルーシュカの声が、まるで風鈴のように繊細に響く。
「爽やかな、風のような魂の鼓動を感じるの。まるで、朝露に輝く太陽のような、春風に乗って舞う花びらのような」
妖精は言葉を選びながら、慎重に続ける。
「エルフの誰よりも……いいえ、私が見てきた中で一番眩くて、綺麗な光。でも同時に、どこか深い悲しみも秘めているような……」
その答えを聞いたフェイリオンは静かに目を瞑る。
ペトルーシュカの言葉が、彼の中の何かを揺さぶっていく。危険な存在として処理すべきか、それとも……。
彼の長い年月で培った直感は、この存在の特異性を示唆していた。
──外交官フェイリオン。
エルヴィニア森林国の重鎮であり、守護者よりも地位が高いエルフ。名家の長として、彼は森の民たちの意思を背負っていた。
今回の目的は、エルム平野での王国と帝国の争いに抗議すること。その戦火が、彼らの聖なる森に及ぶことを危惧してのことだった。
そして、その目的の中にはドワーフの国との関係改善など、微塵も含まれていない。
むしろ、これ以上争いを拡大させるなら王国、帝国の双方に武力を以て理解させてやろうという、強硬な意思を示すために来ていたのだ。
世界の安寧を侵すものには、容赦なく報復するという警告を。
だからこそ、守護者である『星弓の射手』レフィーラ、そして『光翅の審判者』ペトルーシュカを同伴させてきた。
レフィーラの矢は百の軍勢に匹敵し、ペトルーシュカの魔法は要塞すら崩壊させる一騎当千の猛者。
何が起こっても、彼女たちの力ならばこの帝都から脱出できる。それが、当初の計算だった。
しかし──。
そんな強硬な態度で臨むはずだった外交が、一人の謎めいた執事によって、まったく異なる方向へと導かれてしまった……。
「暫くはこの帝都に滞在することにしましょう」
フェイリオンは窓際でそう呟く。窓の向こうでは、魔導結晶の光が闇に浮かび上がり始めていた。
「幸いにも、皇帝陛下も、シェーンヴェル卿も我々の訪問を歓迎してくれているようですしね」
その言葉には、当初の強硬な態度からは想像もつかない柔らかさが混じっていた。
エルフとドワーフの関係改善など考えてもいなかった筈なのに、気付けば状況は大きく変わっている。
彼は玩具に夢中になっているレフィーラとケルナの方へと向き直る。彼女たちは歯車の動きに見入り、無邪気な笑顔を浮かべていた。
「レフィーラ、ケルナ」
「なにー?今いいところなんだから邪魔しないでよー」
レフィーラは玩具から目を離さずに返事をする。
しかし、フェイリオンが次に発した言葉で動きを止めた。
「暫くあの人間と共に行動し、正体を探ってきなさい」
「えっ……」
「はぁ……?」
その予想外の命令に、二人は同時にポカンと口を開ける。
レフィーラは驚きのあまり、手にしていた魔導機械の玩具を取り落としてしまう。
「あ……」
ポン!
突如として小さな爆発音が響き、白い煙が部屋に立ち込める。歯車が四散し、魔導結晶の欠片が床を転がる。
「ちょ、ちょっとレフィーラ!それ高価な玩具だったのに!」
「うええぇぇ!ご、ごめんなさい!あの、これって修理できるかな……?」
ペトルーシュカが光を散らしながら怒る。
「いい年して玩具に夢中になってるんじゃないわよ!」
慌てふためく姉妹と、呆れた妖精の声が部屋に響く中、フェイリオンは静かに目を閉じる。
「ぎゃー!!なんか煙出てきた!!」
「お姉ちゃん、あの歯車が天井まで……」
姉妹の騒動を背にしながら、フェイリオンの思考は深い闇へと沈んでいく。
(我等に益する者ならば良し)
彼の瞳の奥に、冷たい光が宿る。
(そうでないのならば……)
部屋の喧騒は、そんな彼の物思いには届かない。
夕暮れの帝都で、新たな策略の影が形作られ始めていた……。