「な……な……なんて、ことを!」
豪華絢爛な化粧に隠されていた素顔。年相応の細かな皺や、些細な肌の揺らぎ。
数十年間、誰にも見せたことのない素顔。それは彼女自身でさえ、鏡の前で直視することを避けてきた姿。豪華絢爛な化粧の下に隠し続けてきた、年齢という真実。
見られてはいけない。見せてはいけない──。
彼女は咄嗟に顔を隠そうとする。
しかし。
「これこそが、本物の輝美公」
アドリアンの声は優しく、しかし確かな力強さを帯びていた。
「化粧も、装飾も必要としない。ただ、その心の輝きだけで美しい、本当の貴女の姿です」
その瞳には、まるで彼女の全てを見透かすような深い色が宿っている。
反論も、怒りも、全てが彼の真摯な眼差しの前で凍り付いてしまう。今までの高慢な態度も、尊大な振る舞いも、全てが意味を失っていく。
それは、まるで彼が本当の彼女を知っているかのようで……彼女自身が忘れてしまった、本当の自分を知っているかのようで……。
「お、お前が私の何を知っていると言うの!」
「──知っていますよ」
アドリアンの声は静かに、しかし確かな重みを持って響く。
「私は知っています。最後まで気高く輝いていた、美しい公爵の姿を」
「な、何を……!」
「それは、この世界の誰も知らない記憶。けれど、確かにあった真実です」
「嘘よ!」
シェーンヴェルの声が上擦る。
「こんな年老いた私を……誰もが哀れだと感じるはずよ! 皆、私の背後で笑っているはず!」
しかし、アドリアンは優雅に微笑む。その瞳には、深い懐かしさと、確かな敬愛の色が宿っていた。
「もし、本当の美しさが外見だけのものならば──どうして私は今でも、貴女の姿に心を奪われているのでしょうか」
「何を言って……」
シェーンヴェルは顔を上げ、アドリアンを見上げる。
そして──。
「!」
彼女の瞳が驚愕で見開かれる。
──アドリアンの頬を、一筋の涙が伝っていた。
いつもの皮肉めいた笑みも、余裕に満ちた表情も消え失せ、ただ純粋な悲しみに満ちた瞳で彼女を見つめている。
部屋の空気が凍り付く。エルフたちが息を呑み、メーラが思わず手を胸元に寄せる。誰も見たことのない光景だった。
あの飄々とした態度のアドリアンが、このような感情を露わにするなど。
「アド……?」
メーラの呟きはアドリアンの耳には届かなかった。何故なら、アドリアンの脳裏には、別の世界での彼女の最期が蘇っていたのだから。
荒れ果てた戦場の中で、豪華な装飾は泥と血に塗れ、自慢の美貌は傷痕で歪められ、完璧だった姿は跡形もない彼女の姿。
しかし──。
化粧も、装飾も、虚飾も全て失った姿で、却って彼女は真実の美しさを放っていた。
『ふふ、私ったら、随分と『みっともない』姿になってしまったわね……」
震える手で、彼女はアドリアンの頬に触れた。
その時のアドリアンはまだ、皮肉めいた言葉で己の心を隠すことを覚えていなかった。だから、ただ純粋な想いのままに、涙を流しながら告げたのだ。
『シェーンヴェル……貴女は美しい。今この瞬間が、俺の見た中で一番輝いている。世界を想う君の心が、こんなにも眩しく……あぁ、ごめんよ。気の利いたことを、言えなくて』
それは、年若い英雄の、偽りのない言葉だった。
それを聞いたシェーンヴェルは、慈しみに満ちた微笑みを浮かべ……自分から見ればまだ幼い英雄の頭を撫でる。
まるで愛しい子に、大切な孫に向けるような、そんな雰囲気を纏わせて。
『ふふ……本当に、気の利かない子ね。でも──久しぶりに、素顔を見せられてよかったわ』
震える手から徐々に力が抜けていく。
『本当の美しさは、外見じゃなくて……内にあるものだったのね。それを最後に、貴方と……話せてよかった』
その言葉と共に、シェーンヴェルの手が静かに滑り落ちる。しかし、その顔には穏やかな微笑みが浮かんでいた。
化粧も、装飾も、虚飾も全て失われた彼女の姿。傷つき、汚れ、歪められた姿。
けれど──。
物言わぬ彼女の表情には、アドリアンが見たことのない、この世で最も貴く美しい輝きが宿っていた。
「シェーンヴェル。あの時は、気の利いた事を言えなかったけれど──」
アドリアンが震える手で彼女の頬を包み込む。
かつての二人とは立場が逆転していた。あの時は、成熟した大人のシェーンヴェルが、未熟な若者のアドリアンを導くように最期の言葉を告げた。
しかし今は、成熟した大人のアドリアンが、美しさに囚われ迷い続けるシェーンヴェルを包み込もうとしている。
「今度は、俺が貴方を導くよ。気の利いた言葉でね」
その言葉に込められた深い想いに、シェーンヴェルの瞳が震える。
アドリアンの手が、彼女の素顔を優しく包み込む。
「エルフの方々」
アドリアンは静かに声を上げる。
「シェーンヴェル卿の美しさを、どう思われますか?」
その問いかけに、シェーンヴェルの身体が強張る。自らの素顔を、類まれなる美貌を持つエルフたちに晒されることへの恐怖が、彼女の全身を震わせる。
しかし──。
外交官フェイリオンは、静かにシェーンヴェルを見据えた。その瞳には、先ほどまでの皮肉めいた色は消え、深い森の底のような静謐さだけが宿っている。
「我々エルフは、外見ではなく魂で美醜を判断します」
彼の声が、清らかに響く。
「確かに、シェーンヴェル卿の魂は虚飾で塗れています。まるで厚い化粧のように、本来の輝きを隠してしまっている……」
一呼吸置いて、フェイリオンは続ける。まるで、目には見えない何かを覗き込むように。
「しかし……そこの人間の執事が感じているであろう貴女の魂は、確かに美しい。本人すら気付かぬ美しさを、どうやら彼は分かっているらしい──」
シェーンヴェルはハッとして顔を上げる。エルフたちの瞳は、彼女の素顔を見てはいない。もっと深く、もっと本質的な何かを見つめている。
その瞬間、彼女の中で何かが崩れ落ちた。長年築き上げてきた価値観が、砂の城のように音もなく崩れていく感覚。
「貴女には呪いが掛かっていたのです。世界一の美姫という仮面に囚われ、自らを縛り付けた呪い。その重圧に耐えかね、一日に十着もの装いを替え、76回もの目薬を差す……なんとも美しい呪いではありませんか」
そう言って、アドリアンはまるで子をあやすように、シェーンヴェルの頭を優しく撫でる。
それは、かつて彼女が最期に若きアドリアンにした仕草そのもの。歳若い青年に頭を撫でられるという屈辱だが、しかしシェーンヴェルはただ黙って、その温もりを受け入れていた。
(暖かい……)
シェーンヴェルはアドリアンの掌から伝わる温もりに、不思議な心地よさを感じていた。
その時、彼の手から微かな光が零れ始める。それは彼女の全身を包み込むように広がり、まるで長年積もった埃が払われていくような感覚を伴っていた。
「さぁ、この『美しい』重圧から、解放されましょう」
その言葉には、表層の皮肉とは別の、深い意味が込められているようだった。
シェーンヴェルの中で、何かが溶けていくような感覚。これまで彼女を支配していた強迫的な衝動が、まるで春の雪のように静かに消えていく。その正体に気付くことなく、しかし確かな解放感を伴って。
「……!」
エルフたちの瞳が、その変化を見逃さない。特にフェイリオンは、シェーンヴェルの周りに漂っていた得体の知れない闇が、少しずつ晴れていくのを感じ取っていた。
しかし、それが何であったのかを口にする者は誰もいない。
ただ、アドリアンの瞳だけが、確かな安堵の色を宿していた……。
♢ ♢ ♢
「……こほん!」
シェーンヴェルの恥ずかしげな咳が響く。
先ほどの出来事──歳の離れた青年に頭を撫でられ、まるで子供のように安らかな表情を浮かべていたことを思い出し、頬が赤らむ。
フェイリオンもまた、アドリアンという謎めいた存在に疑念を抱きながらも、シェーンヴェルと向き合う。
二人の間からは、先ほどまでの尖った空気が消え失せていた。
その様子を見て、アドリアンとメーラは安堵の吐息を漏らす。
「さぁ、これで『高貴なる耳長の方々』と『地底の野蛮人』が、やっと心を通わせられますね。お互いの『愛らしい』皮肉の応酬も、一旦お休みということで」
「アド!」
メーラの言葉で、アドリアンは「おっと」と呟き口を手で覆う。
見るとシェーンヴェルとフェイリオンから一斉に冷ややかな視線が注がれていた。
「皮肉を言うのは私一人になっていましたか。それは失敬。この『従順なる僕』、少々調子に乗りすぎました」
その茶目っ気のある仕草に、シェーンヴェルとフェイリオンは思わず笑みを漏らす。
「では」
「そうですね」
二人は顔を見合わせ、穏やかな表情を交わす。
「エルフとドワーフの会談と、参りましょうか」
その言葉には、もはや皮肉も敵意も含まれていない。豪奢な装飾を失ったシェーンヴェルと、高慢さを脱ぎ捨てたフェイリオン。
二人の間には、かつてない穏やかな空気が流れていた。この茶番のような外交が、本物の和解へと変わろうとしている。
不意に。アドリアンの脳裏に、前世の彼女の最期の微笑みが重なった。
「今回、我々が帝国に赴いたのはエルム平野での王国との戦の件で──」
「なるほど、森林国が懸念されるのは分かりますわ、ただ、それに関しては──」
会談は滞りなく、穏やかに進んでいく。
アドリアンはそれを確認すると、誰にも気付かれぬように、微笑みながら静かに廊下へと姿を消した。
(俺の役目はここまで。後は外交官同士の仕事だ)
廊下に出て、アドリアンは部屋の外に待機していた魔導機械兵に軽やかに挨拶をする。
もはや警戒の必要はない。中で交わされる会話は、エルフとドワーフの未来を紡ぐための真摯な対話となるだろう。
そして。
人気のない廊下に差し掛かると、彼の雰囲気が一変する。
執事としての優雅さは影を潜め、英雄としての鋭い気配が漂い始める。
彼は自らの掌を見つめた。シェーンヴェルの頭を撫でた時に取り除いた、得体の知れない闇の気配。
これは確かに──
「洗脳魔法」
アドリアンの目が鋭く細まる。
誰かが意図的に仕掛けた微弱な洗脳。それが彼女の心を歪め、放蕩と虚飾へと追いやっていたのだ。
シェーンヴェルの心を歪め続けていた本当の原因が、この掌の中にある。
アドリアンは拳を握りしめ、その中の呪いを滅殺する。掌から漆黒の靄が消え去る瞬間、廊下に轟然たる魔力が充満する。
「──彼女を穢したな」
その声には、これまでの執事としての優雅さも皮肉めいた色も消え失せ、純粋な怒りだけが残っていた。
確かに、放蕩癖は彼女本来の性質でもある。しかし、今世では誰かの意図によって肥大化され、異常なまでに膨れ上がっていたのだ。
──そして、それは彼女だけではない。
ザウバーリング卿……。
アドリアンの加護は、彼からも洗脳魔法の痕跡を感じ取っていた。
「ザウバーリング卿の洗脳魔法は、領地の事件が解決したことで自然と解かれた。そして今、シェーンヴェルの呪いも俺が解放した……。二人に共通するのは、精神的な弱みに付け込まれたということか」
アドリアンの拳が強く握られる。
「通常であれば、魔環公や輝美公のような一流の魔法使いが、こんな洗脳魔法に影響されることなどありえない。二人とも精神的に圧迫されたところを狙われた」
その言葉には、冷たい怒りが込められていた。心の弱さに付け込み、歪めた者への憎しみが、静かに燃え上がる。
アドリアンの脳裏に、前世のシェーンヴェルの姿が蘇る。世界のために命を捧げ、彼女が残した、気高い生き様。
ザウバーリングもまた、アドリアンの大切な戦友だった。皮肉めいた言葉の裏に、常に深い思いやりを秘めた男。アドリアンの無謀な作戦にも付き合い、時に諫め、時に励まし……。
──それなのに。
アドリアンの掌から、凄まじい魔力が漏れ出す。
彼の記憶の中で永遠に輝き続ける、公爵たちの、あの美しい最期の光景を。
その清らかな記憶を、誰かが意図的に汚したのだ。
「絶対に、許さない」
その言葉には、もはや皮肉も余裕も存在しない。ただ純粋な、そして冷徹な殺意だけが込められていた──。