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第五十七話

貴賓室は緊張に包まれていた。

その中でただ二人、アドリアンとメーラだけが絶え間なく動き続ける。アドリアンの一挙手一投足は完璧な執事の所作そのもの。

一方のメーラは、少々ぎこちないながらも一生懸命な仕草で給仕を手伝う。この帝国で、奴隷の首輪を付けていない魔族がメイドをしているという奇妙な光景にエルフ達は戸惑うばかりだ。


「お、お姉ちゃん……あの人間、私達の言葉分かって……お姉ちゃん?」

「ほけぇ……」


一方、レフィーラだけはその場の緊張に全く気付いていないようだった。

彼女の瞳は、アドリアンの優雅な立ち振る舞いに見惚れたまま。最早会話の内容など頭に入る余地はない。


「間抜けな顔を晒して何してるの!?しかもその薄い胸を張ってさぁ!」

「痛っ!ちょっとペトルーシュカ!胸のことは関係ないでしょ!」


レフィーラが頬を膨らませて抗議するも、妖精は更に容赦なく頭を叩き続けていた。

その姿にケルナは困ったような表情を浮かべ、アドリアンは横目でその光景を見て微笑みを浮かべつつ、言葉を紡ぐ。


「天空の花園より舞い降りし麗しのお嬢様方。この地底の粗末なお茶会は、お心に適いますでしょうか? 精霊の囁きこそ届かぬ場所ではございますが、せめて紅茶の香りだけでも、天上の優雅さをお届けできれば」


アドリアンの声に、ケルナは瞬時に身を縮める。人見知りの彼女は、特に男性には口も聞けないほどだ。

その反応を見たアドリアンは、優しい微笑みを浮かべながら、魔法でそっと小さな籠を取り出した。

中には新鮮な木苺が、朝露を宿したまま美しく盛り付けられている。


「可愛らしいお嬢様、よろしければこちらを」


ケルナの前に差し出された木苺。それは彼女の好物だった。


「え……?」


レフィーラとケルナ、そしてペトルーシュカが驚愕の表情に染まった。


「えーっと、何でケルナの好物を知ってるの?」


ペトルーシュカが疑わしげに問いかける。


「ああ、これは」


アドリアンは懐かしむような、しかし何処か悲しげな微笑みを浮かべる。


「昔、とあるエルフの乙女から聞かせていただいたのです。『妹は木苺が大好きだった』っとね」


その言葉に三人の表情が更に困惑の色を深める。しかし不思議なことに、ケルナの緊張は少しずつ解けていく。

この人は……怖い人じゃないのかもしれない。そう思い始めた時、木苺の甘い香りが漂ってきた。


「そして……」


アドリアンはレフィーラの前にも、美しい矢を一本差し出した。

その矢じりには、月光のような輝きを放つ銀が使われ、羽には精霊の祝福を受けた白鳥の羽が使われている。


「見事な矢……」


レフィーラの目が輝く。それは彼女の理想とする矢そのものだった。

更にペトルーシュカの前には、手のひらサイズの水晶の花が置かれる。妖精たちが好む、魔力を宿した装飾品。


「ちょ、ちょっと!どうして私たちの好みまで……!」


アドリアンは、どこか懐かしむような表情を浮かべながら言う。


「かつて、他種族を見下ろすことしかできなかった『高貴な射手』が、珍しく私めに心を開いて『理想の矢』について語ってくれましてね。そして、彼女の傍らで、人間を『地を這う虫けら』と罵っていた気位の高い妖精様が、つい『私は水晶の花が好きなの』と本音を漏らしてくださったものです」


その言葉に、レフィーラとペトルーシュカは更に困惑の色を深める。

まるで、彼女たちのことを昔から知っているかのような……そんな不思議な既視感を覚えながら、二人はアドリアンに手渡された贈り物を、おずおずと受け取った。


「さて、誉れ高き騎士の皆様にも」


アドリアンは騎士たちの前で優雅に一礼すると、エルフの戦士が好む香り高い薬草茶を差し出す。

戦場での疲れを癒すという伝統的な一品だ。その香りは、一瞬にして彼らを故郷の森へと誘うほどの懐かしさを帯びていた。


「戦場でも気品を失わぬ騎士の皆様に相応しく、エルフの伝統茶を。私の戦友たちは皆、戦場でもこの茶を飲んで心を癒していたものです」


戸惑いながらも、彼らは思わずその香りに目を細める。


「さて、フェイリオン外交官閣下には……」


そして最後に、アドリアンは外交官フェイリオンの前に立つ。

部屋の者たちは皆、固唾を飲む。エルフの貴族の中でも最高位に位置するフェイリオンに、この意外性に富んだ執事は一体どのような対応を──。


(……面白い人間だ、本当に。だが──)


フェイリオンもまた、微かな笑みを浮かべていた。名家の出身である彼は、どのような珍品、逸品を出されようとも動じることはない。

むしろ、その品に相応しい皮肉で切り返してやろうと、内心で策を練っていた。


しかし──。


アドリアンが取り出したのは、一本の見すぼらしい枝だった。


「……なに?」


フェイリオンの表情が僅かに歪む。高価な茶葉でも、伝説の逸品でもない。ただの枝。


「この枝は、何か特別なものなのですか?」


フェイリオンは困惑を隠せない様子で尋ねる。

しかしアドリアンは首をゆっくりと振った。


「いいえ、申し訳ないのですが、これはただの枝でございます。世界樹の枝でも、精霊の宿る聖木の枝でもございません。誰にも気付かれることなく朽ちていくはずだった、なんの価値もない一本の枝」


その言葉に込められた意味深な響きに、フェイリオンの表情が更に困惑の色を深める。

そして、アドリアンは静かにその枝を掲げ──。


「エルディアス・ミラカレア・セーフェイラシア……──ユグドラ」


フェイリオンの瞳が驚愕で見開かれる。その詠唱は、彼が幼き日々に、深い森の中で一人密かに口ずさんでいた祈りの言葉そのものだった。

アドリアンの手の中で、見すぼらしい枝が微かな光を放つ。その輝きは、森の奥で見つけた光と同じ──。


「ば、馬鹿な……」


フェイリオンの心の中で、遠い記憶が蘇る。世界樹の麓で、まだ幼かった彼は一人の迷子になっていた。

高慢な家柄の誇りから、誰にも助けを求められず、ただ一人で森をさまよい続けた。

そして夜が更けていく中、彼は一本の枝を見つけた。誰にも気付かれることなく朽ちていくはずだった、ただの枝。

その時、彼は初めて祈りの言葉を唱えた。エルフの誇りも、貴族の面目も忘れ、ただ純粋な祈りを。

その経験を知る者は、この世界に誰一人としていないはず──。


「貴殿は一体」


フェイリオンの手が微かに震える。

木の枝を受け取り、まるで大切な宝物でも見るかのようにじっと見つめる彼の姿に、エルフたちは戸惑いを隠せない。


「フェイリオン様……?」


騎士たちが困惑の色を深める。彼らは主の、このような素の表情を見たことがなかった。

フェイリオンの問いかけにアドリアンは何も答えない。

ただ意味深な微笑みを浮かべたまま、ゆっくりとシェーンヴェルへと視線を移す──。


「……」


そこには、豪華絢爛な扇子を広げ、明らかな不満の表情を浮かべるシェーンヴェルの姿があった。

アドリアンの予想外の行動に、彼女の計画は完全に狂わされてしまっている。


「私の従順なる僕は、随分と器用なことで」


折角の罵詈雑言も、全てがアドリアンの『翻訳』によって愛らしい駆け引きへと昇華され、エルフたちの高慢な態度さえも、この男の手の中で可愛らしい儀礼へと変えられてしまう。


「これでは私の『歓迎の言葉』が台無しではありませんこと? せっかくエルフの皆様にお伝えしたかった本音も、全て綺麗な建前に包まれてしまうなんて」


扇子が乱暴に閉じられる音が、部屋に響く。


「お褒めの言葉、身に余る光栄でございます。私は、閣下の率直すぎるお言葉を、少々お化粧させていただいただけ。もっとも、閣下の日々の化粧ほど厚くはございませんが」


その謝罪に、シェーンヴェルの眉が盛大に痙攣する。

しかし、アドリアンは相変わらずの優雅な微笑みを湛えたまま。


(さて、これからが本当の勝負だ)


シェーンヴェルの不機嫌な横顔を見つめながら、彼は内心で決意を固める。

彼女を本当の意味で認めさせるには、単にエルフたちの怒りを抑えるだけでは足りない。彼女の要求以上の結果を──エルフたちとの真の和解を導き出さねばならないのだから。


「シェーンヴェル卿。貴女の美の『完璧』を求め続けるお姿は、世界一美しい」


その言葉には、いつもの皮肉めいた色合いがない。むしろ、どこか悲しげな響きさえ含まれていた。


「ですが──私は、もっと美しい貴女を知っています。化粧に隠された素顔も、宝石に彩られていない髪も、そして……」


アドリアンは突如、シェーンヴェルの豪華な装飾品に手をかける。

彼女は突然の行動に抵抗しようとするも、何故か身体が動かない。彼の黒い瞳に捉えられ、まるで時が止まったかのように。

その瞳の奥には、彼女の知らない記憶が映っている──民のために命を懸け、その美しさすら捨て去って戦った彼女の姿。

豪奢な装飾も虚飾も全て失い、しかし心だけは最後まで気高く輝いていた世界の姿。


「私は知っています。ドレスも、装飾も、化粧も必要としない、本当の『輝美公』の姿を」


アドリアンの言葉が、部屋の空気を切り裂く。


「なぜなら貴女は──かつて、その美しさすら世界に捧げた方なのですから」


一本。また一本と。髪飾りが外され、整えられた髪型が崩れていく。宝石のピンは静かに、しかし確かな音を立てて床に落ちる。

アドリアンは静かに手を翳す。淡い光が周りを包み込み、シェーンヴェルの完璧な化粧が、まるで蝶が羽ばたくように剥がれ落ちていく。


「なっ……!」


驚愕の表情を浮かべるシェーンヴェルの『素顔』が、晒される──。


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