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第五十四話

「──人間?」


荒涼とした戦場に、冷たい声が響く。金色のポニーテールが血に濡れ、その瞳には生気が失われている。

足元には無数の魔族の亡骸。彼女……レフィーラの射た矢が、見事な腕前で敵を倒していたのは明らかだった。


「助けなどいらなかったのに。私一人で十分だった」


彼女の目の前に佇むのは深紅の外套を纏った青年。

連合軍の長、大英雄アドリアンである。

彼は煌めく剣を手に、まるで戦場にいることを忘れたかのような悠然とした態度で立っている。


「やれやれ、さすがはエルフの守護者様だ。戦いの最中でも人間を軽蔑する余裕を失わないなんてね」


その瞬間、二人の間に真紅の光線が走る。敵の放った魔法だ。

会話を引き裂くように迫り来る魔法を見て、レフィーラは身構えようとする。


だが──。


「おっと」


アドリアンは会話を続けながら、まるで蠅を追い払うかのように剣を振るっていた。

魔法は一閃と共に真っ二つに裂かれ、彼の背後で無害な光となって消えていく。

レフィーラは冷たい視線で彼を見つめる。人間の英雄が放つ剣閃は確かに華麗で、その技量は認めざるを得ないものだった。だが、その感心を表情に出すことは決してない。


「人間の下らない英雄は、剣を振り回すのと同じくらい、その口も振り回すのね」

「華やかに斬って華やかに死ぬのが人間なんだ」

「そんな短い寿命で得た知識で何が分かるというの?所詮、蝶のような一瞬の命でしょう?」


レフィーラは人間を見下すような冷たい声で言い放った。

矢を放ちながら、エルフとしての誇りを込めて告げる。


(これで黙るでしょう)


だが──。


「おや?確か貴女はまだ俺より年下だと聞いたけど。長命な種族の、お若い『星弓の射手』様?」


アドリアンの言葉に、次の矢を番おうとしていた動作が微かに躊躇う。


(な、なんでそれを……!)

「千年生きるエルフの子供と、人間の青年……どちらが大人なのか、なかなか難しい問題だと思わないかい?」


レフィーラの瞳に、初めて感情の色が宿る。

それは怒りか、それとも別の何かか。彼女の放つ矢が、わずかに軌道を歪めた。


「……うるさい!精霊に加護を貰えない下等種族なんかに、何が分かる!」


必死に強がりを見せるレフィーラ。なのに、この人間は穏やかに微笑むだけ。

まるで子供の駄々をあやすような、そんな優しい笑みを向けてくる。


(どうして……そんな顔で……!)


その時、一人の伝令兵が血相を変えて駆け寄ってきた。


「伝令!魔族の大軍が中央戦線を突破し、我が軍は総崩れの危機に……!主力部隊が壊滅しかけています!」


戦場に轟く魔族の雄たけび。

その音が、レフィーラの鼓膜を震わせる。黒煙の向こうでは、連合軍の陣形が次々と崩れていく。同時に味方の悲鳴が風に乗って届いてきた。


「まぁ、当然の結末ね」


レフィーラは冷ややかに言い放つ。自分の声に、いつもより強い力を込めて。


「人間如きが指揮を執る軍など、所詮この程度。エルフでさえ苦戦する魔族に、短命の種族が勝てる道理などないわ」


(そう、これが現実。人間なんかに何ができるというの)


だが、アドリアンの穏やかな笑みは消えない。


──その時だった。


敵軍の放つ魔法と砲撃が、黒い雨のように二人に迫る。

先程の魔法とは一線を画した死を齎す魔力が、空を蝕み頭上に降り注ぐ。


「っ……!」


レフィーラは目を見開き、身体が硬直する。


まずい、避けれない。


彼女が死を覚悟した瞬間。


──戦場の空気が凍てつく。


無数の氷の結晶が空間に広がり、次第にそれは気高い女性の姿となって具現化する。

氷の精霊女王フロスティールの顕現だった。

彼女は優雅な仕草で手を翳すと、黒い魔力の雨は瞬く間に凍りつき、砕け散った。


(氷の……精霊女王様!?)


レフィーラが幻想的な光景に目を奪われている中、アドリアンは溜息を吐いて言った。


「相変わらず過保護だなぁ。こんなの、俺一人で防げるのに」


その気楽な物言いに、フロスティールは不機嫌そうな表情を浮かべる。まるで、心配性の姉が無鉄砲な弟を叱るような仕草で。

レフィーラの瞳が見開かれる。精霊の女王と、まるで旧知の間柄のように接する人間。それも、彼女の過剰な保護を茶化すほどの関係性。


「最上位の精霊様が……人間に……?」


レフィーラから動揺の声が漏れる横で、アドリアンは楽しそうに話を続ける。


「キミもシルフィードやイフリティアを見習って放任主義になってくれてもいいんだけど。あぁ、でもルミナリアとルナリアの真似はしなくていいよ。彼女達、いつも喧嘩してるし」


レフィーラは息を呑む。 今、何気なく語られた名前は──。


(シルフィード、風の大精霊。イフリティア、炎の王。ルミナリアとルナリア、光と闇の双子神)


エルフでさえ一生に一度も見ることができないような最上位の精霊たちの名を、まるで親しい友人のように語るこの人間。


──彼は、一体……。


「でも、せっかく来てくれたんだし……一緒に踊っていこうか、フロスティール!」


アドリアンは凍てつく戦場へと飛び出した。

氷の精霊女王フロスティールが踊るかのような優雅な仕草で氷の結晶を操る。その一つ一つが、死を齎す魔族の魔力を凍らせていく。


「ア、アドリアンだ!あの男を止めろ!」

「くそっ、近づくな!総軍、後退せよ!奴と氷の精霊が届く範囲に入るな!」


魔族の悲鳴めいた叫びが戦場に響き渡る。

アドリアンの剣筋に合わせるように、フロスティールの氷の結晶が舞う。二人の動きは完璧に同調し、剣が閃くたびに氷の花が咲き乱れ、魔族の放つ黒い魔力を次々と凍てつかせていく。


(こんな……ことが……)


一振りごとに数十の魔族が消え去り、彼が踏み出す一歩ごとに戦況が塗り変わっていく。

ウロスティールとアドリアンが織りなす荘厳な舞台に、レフィーラは言葉を失っていた。


「おぉ、アドリアン様が前線に!英雄が戦場に降り立った!」

「我らの英雄と共に!全軍、突撃せよ!」


兵士たちの歓声が戦場に響き渡る。


(──なぜ?)


レフィーラには信じられなかった。

崩れかけていた戦線が、まるで魔法でも掛けられたかのように立て直されていく。

連合軍の兵士たちは、アドリアンに導かれるように、一斉に前へと進み出す。

人間兵が、エルフの弓兵が、ドワーフの戦士が……種族の壁を超えて一つとなって突き進んでいく。


「あれが、英雄──」


レフィーラの声が、思わず漏れる。 その瞬間、彼女の胸の内で小さな炎が灯った。

今まで感じたことのない、不思議な感情。


レフィーラの──復讐と憎悪に満たされた、暗い心の内で。


小さな炎が灯った。


彼女の全ては、ただアドリアンという存在に釘付けになっていた──。




♢   ♢   ♢




「──ねぇ!ねぇってば!!」

「!」


記憶の海に耽っていたアドリアンは、目の前で頬を膨らませるレフィーラの声で我に返った。

前世の彼女の面影を探そうとしても、そこにあるのは純真な少女の不満げな表情だけ。

一瞬、彼の瞳に悲しみの色が宿る。だがそれは、まるで露が消えるように儚く消え失せ、すぐさま執事らしい優雅な微笑みへと取り繕われた。


「申し訳ございません。貴人の方々の前でとんだ失態を」


しかしアドリアンの謝罪はエルフたちにはどうでもよいことであった。

何故なら、レフィーラのあまりにも品位に欠ける振る舞いに、顔を背けるほどの恥ずかしさを感じていたからだ。


「……いえ、こちらこそ申し訳ない案内人どの。私どもの……その、熱心な若手が無作法を」


アドリアンはその言葉に、にこりと微笑んで言った。


「ご心配なく、フェイリオン様。若さゆえの好奇心は、むしろ素晴らしいものかと」

「……何故、私の名を?」


フェイリオンの瞳が鋭く細まる。


「エルフの方々の到着を告げる使者から、すでに伺っております」


アドリアンは優雅に嘘をつく。その手際の良さに、フェイリオンも疑いを深めることはできない。

そして彼は歩くのを止め、右手を胸に当て、左手を前に伸ばし、優雅に腰を折って頭を下げた。


「それと、案内人などという畏れ多い呼び方は控えていただきたく。どうぞアドリアンと、親しみを込めてお呼び下さいませ」


その完璧なエルフ式の挨拶に、フェイリオンや他の使者は目を見開き、レフィーラは更に興奮した様子で飛び跳ねる。


「すごい!エルフの作法まで知ってるの!?」


フェイリオンが溜め息をつく。


「なぜエルフである貴女が作法を知らずに、人間である彼の方がエルフらしいのでしょうか」


フェイリオンの厳しい言葉に、妖精のペトルーシュカが追従するように意地悪な声を上げた。


「守護者様が飛び跳ねるなんて、見ていて恥ずかしくなるわ。こんな姿、精霊様に見られたらどうするの?」

「お姉ちゃん……お願いだから、大人しくしてて……」


控えめな妹のケルナまでもが、顔を真っ赤にしながら懇願する。

次々と投げかけられる言葉に、レフィーラは動きを止めた。


「うぐっ……」


その頬が、少しずつ赤く染まっていく。

華やかな金髪を揺らし、いつもは堂々としている彼女が、今は恥ずかしさに縮こまるように肩を落としてしまった。


「僭越ながら、一介の執事から申し上げることをお許しいただけますでしょうか」


その時、アドリアンは優し気に微笑んだ。彼は華麗に一回転すると、その手の中に淡い光が灯る。

光が消えると、そこには清楠な森の白百合が掌にあった。


「私から見れば、レフィーラ様こそが最も精霊たちの御心に近く見えます」


アドリアンは優雅に花を差し出しながら言う。

その仕草は、古の騎士が姫君に花を捧げるかのように美しく、そして見る者の目を引いた。


「形式ばかりに囚われず、純真な心で世界を見つめる。それこそが、精霊たちが最も愛する精神ではないでしょうか」


その言葉に、レフィーラの瞳が輝きを取り戻した。


「さぁ、美しき守護者様。優美な宮殿探訪を続けさせていただいてもよろしいでしょうか?」

「は、はい……」


レフィーラはきょとんとした様子で、彼女にしては珍しくしおらしい返事をした。

そして、差し出された百合の花をおずおずと手に取りじっと見つめている……。

いつもなら元気いっぱいに跳ね返すような言葉に、このように静かに応えるなど誰も見たことがない。

周囲のエルフたちは、そんな彼女の様子に首を傾げながらも、静かになったことには安堵の表情を浮かべていた。


「ところで、貴殿は人間。どうしてドワーフの宮殿にいるのです?」

「世界の導きは不思議なものでしてね。私のような者でも、時には思いがけない風に運ばれることがあるのです。エルフの森からの清らかな風が、地底の世界にまで吹き寄せられるように……」


その言葉には何か深い意味が込められているようだったが、誰もその真意を測りかねていた。


「アーレア・シャリス、ミランテ・コロナ?(この人間をどう思う?ペトルーシュカ、ケルナ)」


フェイリオンはエルフの古語で静かに問いかける。人間には理解できないだろうという慢心から。


「エリオン・サファイア……ミスト・エレア……(悪い人には見えないけど……人間だし、油断しちゃ駄目だと思う……)」


ケルナはフェイリオンの後ろに隠れながら、小さな声で答える。


「カレア・ミルフォリア、エルディス・シャミナ……ファラ・エレミア……(確かに胡散臭いけど、この人間から漂う雰囲気は……なんていうか心地いいような……)」


ペトルーシュカは、周囲を軽やかに旋回しながら呟く。


そうしてエルフの言語での会話が繰り広げられる中、アドリアンは屈託のない笑みを浮かべながら優雅に一礼して言った。


「さて、いつまでも高貴なる方々を、このような岩と鉄の野蛮な空間にお立たせするわけにもまいりません」


一瞬の間を置いて、さらに皮肉めいた言葉を紡ぐ。


「ドワーフなりの上品さを心がけた貴賓室へとご案内させていただきます。精霊様の囁きこそ聞こえませんが、魔導機械の軋む音色だけは存分にお楽しみいただけるかと」


その皮肉めいた言葉にエルフたちが眉をひそめる中、レフィーラの瞳は依然としてアドリアンを見据えたままだった──


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