「う~ん。このドレス、着たのは何回目だったかしら?」
広大なドレスルームの中で、一人の美女が飽きた様子で従者たちを見下ろしながらそう言った。
部屋の片隅で震える若いドワーフの執事は、巨大な着用記録の革表紙の本を胸に抱きしめながら、おずおずと前に出た。
彼の額には冷や汗が浮かんでいる。なにせ、彼女の機嫌を損ねれば、即座に北方の氷雪鉱山送りになることは、帝国中の誰もが知る事実なのだ。
「一昨日、舞踏会で初めてお召しになったものでございます」
その言葉が部屋に響いた瞬間、空気が凍りついた。召使いたちの動きが一斉に止まる。
「まぁ!」
彼女の目は劇的に見開かれ、まつげの先につけられた希少なシャヘライトの粉が、きらりと光を放つ。
「一回も着たの!?それはもうゴミも同然じゃない!すぐに捨てなさい!」
その声は次第に高くなり、部屋中の召使いたちが身を縮めた。シャンデリアまでもが震えているように見える。
困惑した執事は、勇気を振り絞って反論を試みる。
「しかし、お値段が……」
「あら、たった数千万じゃない」
輝美公は、帝国特産の孔雀の羽で作られた扇子を、まるでオーケストラの指揮者のように優雅に操りながら言い放った。
「私の輝きを曇らせる方がよっぽど高くつくわ」
「では、慈善団体に寄付を……」
「ありえないわ!」
その叫び声に、窓ガラスが共鳴して震えた。
「私の着た服を平民が着るなんて!あぁ悍ましい!帝国の威厳が泣くわ。即刻焼却なさい!」
その時、隣室から悲鳴が響き渡った。まるで誰かが殺されたかのような断末魔の声だ。
「大変です!お召し替えの時間が30秒遅れております!」
彼女の顔から血の気が引いた。真珠のような肌が、さらに白く変わっていく。
召使いたちは、まるで災害が起きたかのように慌てふためいた。
「なんてことなの!」
彼女は華奢な指で額を押さえる。
「もう取り返しがつかないわ。今日の予定を全部キャンセルして、美容師を100人呼びなさい」
そうして、また一つの高価なドレスが「廃棄」の烙印を押されて運び去られていく。
その値段で小国一つは買えただろう。
従者たちは溜め息をつきながら、今日も増え続ける焼却リストに新たな項目を書き加えた。
──そう、彼女こそがグロムガルド帝国を統べる四人の公爵の一人、輝美公シェーンヴェル。
ドワーフらしい小柄で整った体躯。最高級の化粧品と厳格な美容術により、その肌は陶磁器のように滑らかで輝いている。実際の年齢は相当なものだが、その容姿は十代の少女としか見えない。
銀色がかった髪は、まるで月光を編み込んだかのように美しく、幾重もの編み込みには、無数の宝石がきらめいている。
「ふぅ……私の美しさを保つのには『時間』こそが重要なのよ。一秒でも遅れればこの美貌は損なわれてしまう……」
彼女は巨大な魔導鏡の前で、くるりと回る。幾重にも重なったドレスの裾が、優雅に宙を舞う。
特注の香水が漂う指先を揺らしながら彼女は微笑んだ。その笑顔は可憐で愛らしいものの、その瞳の奥には鋭い知性が宿っていた。
「美しさは力よ」
彼女は鏡に向かって微笑んだ。
「そして、この私が世界で最も美しい。つまり──」
彼女の周りを取り巻く従者たちは、その言葉の続きを知っていた。
「つまり、この私が最も力を持つ存在だということ」
美と知性と権力を兼ね備えた、生ける芸術品。それが、輝美公シェーンヴェル卿であった。
「さぁ、今日の私の髪をセットしなさい。時間は……そうね、四時間以内でお願いするわ」
そうして美容師たちが輝美公シェーンヴェル卿の髪を整えている時だった。
新しい召使いが二人、恭しく頭を下げて現れた。
一人は凛とした佇まいの黒髪の青年で、もう一人は優美な紫髪の少女。
「輝美公閣下。本日より、お側近くにてお仕えさせていただく身でございます。私めの心臓が止まるまで、閣下の瞳の輝きを曇らせぬよう、細心の注意を払って努めさせていただく所存です」
完璧な召使いの作法で挨拶をする二人に、シェーンヴェルは一瞥もくれずに言い放った。
「あら、新入り?まずは基本から教えてあげましょう。私の瞳の輝きを保つには、一日に最低でも76回の目薬が必要なの。それも、清純な人魚の涙でないと意味がないわ。今すぐ用意しなさい」
また輝美公の無茶ぶりが始まった、と周囲の従者たちは呆れたような、慄くような、奇妙な表情で顔を見合せた。
しかし、その新入りの召使いたちは戸惑うような素振りも見せずに続けた。
「かしこまりました。しかしご存じでしょうか?『清純な人魚』は絶滅危惧種だということを。彼女たちに『清純』という概念は存在しないので」
青年は優雅に微笑みながら、まるで当然のことを述べるような口調で告げた。
「その代わりに『世界一美しいと自負なさる方の、些細な願いが叶わなかった時の涙』はいかがでしょう?より希少価値が高いとの評判でございます」
その瞬間。誰もが動きを止めた。
魂まで凍えるような魔力の圧がシェーンヴェルの背中から放たれ、その部屋にいた全ての者が恐怖で動けなくなる。
それでもなお、シェーンヴェルは優雅に髪を梳かさせながら、まるで些末な事を言うかのように告げた。
「今回の新人はどうやら北方送りになりたいようね。氷雪鉱山での労働も、悪くない経験になるでしょうけど」
彼女は意図的に間を置いてから続けた。
「──でも、私は慈悲深いから、もう一度だけチャンスをあげるわ」
その声が一段と高くなる。
「私の靴下は一度履いたら即座に純金の糸で編み直すの。今履いているものも、もう3分も経っているから編み直して頂戴」
この更なる無茶ぶりに、周囲の召使いたちが息を呑む中、青年は優雅に一礼すると、春風のような爽やかな微笑みを浮かべて答えた。
「承知いたしました。──しかしながら……」
艶のある声が部屋中に響く。
「単なる純金では、閣下の品格には到底及びますまい。伝説の錬金術師に依頼し、『貴族の傲慢』を調合した特別な糸で紡いではいかがでしょうか。その方が、閣下の完璧で覚束ない足元により相応しいかと」
その場の空気が一変し、まるで氷の刃が舞い散るような冷気が部屋中を包み込む。
「──お前、死にたいようね」
彼女の纏う殺気は、かつて誰も見たことのないほどの威圧感を放っていた。
美容師たちは手を止め、召使いたちは震え上がり、中には気を失う者まで出始めた。
しかし、その威圧的な空気の中、青年は相変わらず優雅な微笑みを絶やさない。
シェーンヴェルが怒りに震える手つきで椅子から立ち上がり、ゆっくりと振り向く。
だが、次の瞬間。
彼女の目が驚愕で見開かれた。
「な……に?」
そこにいたのは、人間の青年アドリアン。忘れもしない、謁見の間で散々虚仮にしてくれた憎き人間。
そして横に控える紫髪の少女は、魔族の姫メーラ。二人の周りには、もはや召使いの仮面など微塵もない威厳が漂っていた。
「な、なぜ……ここ、に……」
シェーンヴェルの動揺があまりに激しかったせいか、念入りに整えられた髪型が崩れ始める。
「おっと」
アドリアンは意地の悪い笑みを浮かべた。
「これは大変だ。髪型が30秒も経たずに崩れるとは帝国の危機でございますね。急いで追加の美容師さん達を呼び寄せた方がいいかと」
「お、お前……!アドリアン……!」
「ご名答」
アドリアンは軽く会釈した。その仕草には相変わらずの優雅さがあった。
「お噂の英雄、参上いたしました。シェーンヴェル卿の『一度着たら即捨て』という逸話を聞いて、これは是非拝見せねばと思いまして。確かに素晴らしい。私の想像の100倍は贅沢でしたよ」
シェーンヴェルは言葉を失った。彼女の周りの召使いたちは、事態が把握できず右往左往している。
その様子を見たメーラが、初めて口を開いた。
「シェーンヴェル卿。騙すような真似をして申し訳ございません」
メーラは、メイド服の裾を優雅に持ち上げ、まるで舞踏会での挨拶のように可憐に膝を折った。
その佇まいは、魔族の姫というよりも、純真な少女のようでさえあった。
「此度は貴女様とお話をしたくて、こうして参上いたしました。『帝国一の美貴族』と噂される方と、一度じっくりとお話がしたくて」
「お前達と話すことなんて何も──!」
シェーンヴェルの言葉を、アドリアンが軽やかに遮る。
「おやおや、シェーンヴェル卿。この『帝国一の英雄』と『魔族の麗しき姫君』が、貴女の従者として献身的にお仕えしているうちに、ゆっくりお話された方が賢明かと」
その声には意地の悪い色が混じっている。
「でなければ、貴女の『一度着たら即捨て』という逸話が、もっと面白い形で広まってしまうかもしれませんよ?」
その言葉に、シェーンヴェルの体が強張る。その瞬間、念入りに整えられた髪型が音を立てて崩れ落ちた。
百人の美容師が何時間もかけて整えた何十本もの宝石のヘアピンが床に転がり、豪奢な装飾を失った彼女の長い金髪が、自然な流れで肩を覆う。
「おや?」
アドリアンが目を細めて言った。
「その飾り気のない髪型の方が、ずっと素敵ですよ。やはり『本物の美しさ』というものには、余計な装飾など必要ないものですからね」
くるりと、アドリアンが燕尾服を翻した。その表情は、いつの間にか凛と引き締まっていた。