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第五十話

ザウバーリング卿は絢爛な執務室で、一枚の書類を手に身体を震わせていた。

端麗な顔が驚愕に染まり、両手の魔導リングが微かに輝きを放っている。


「なんと馬鹿げた報告だ」


彼は小さく呟いた。その声には困惑と喜びが混ざったような奇妙な響きがあった。

報告書には信じられない内容が記されている。


──荒廃していた農地が一夜にして回復。

──水路の汚染が浄化。

──作物の生育が急速に改善。


「ふん……『聖女』などという御伽噺めいた存在が、我が領地を救った?」


彼は言葉には毒を含ませようとしたが、その目は確かな喜びに輝いていた。


「まったく、エレノアのやつ」


深いため息が、豪華な執務室に響く。

魔法の光結晶が、その音に反応するように微かに揺れる。


「この父に心配をかけまいと一人で抱え込んでいたのはいいが、素直に私に相談すればいいものを」


ここ数ヶ月、彼は娘の変調を見逃してはいなかった。エレノアからの報告が徐々に希望を失っていく様子、文面に滲む疲労。

しかし、彼女は決して助けを求めようとはしなかった。


「私と同じ頑固さを受け継いでしまったようだな。困ったものだ」


自嘲気味に笑いながら、彼は報告書に目を戻した。しかし、その時、一つの文字が彼の目を捉えた。


「……呪い?」


ザウバーリングの表情が一変する。彼の指が不吉な光を放ち、彼の少年のような優雅な表情が一瞬にして鋭い剣のように変わった。


「誰がこのような呪いを……?」


彼は立ち上がり、窓際まで歩いた。思考を巡らせながら、指で魔導リングを弄る。

これほどの規模の呪い。しかも、自分のような一流の魔導師でさえ発見できなかったほどの高度な術式……。


「閣下!」


執務室の豪華な扉が大きな音を立てて開かれた。

普段は厳かな雰囲気を保つ執務室に、異様な活気が流れ込んでくる。


「エレノア様の領地が!」

「食料の生産の目途が立ったと!」

「本当に良かった……」


年季の入ったドワーフの執事、几帳面なメイド長、若い給仕たち。

普段は規律正しく、礼儀作法に則った彼らが、まるで祝宴でも始まったかのように賑やかに駆け込んでくる。


「全く、なんという騒々しさか。大貴族の従者にあるまじき……」


しかし、その言葉は途中で途切れた。従者たちの顔には、心からの安堵と喜びが溢れている。

彼らの多くは、ザウバーリングに昔から仕える者たちだ。父娘を本当の家族のように思い、心配し続けていたのだ。


「まったく」


ザウバーリングは小さくため息をつきながら、肩を竦めた。

その仕草には珍しく柔らかさが感じられる。


「閣下」


突然、一人の古参の執事が、厳かな声で告げた。その声音に、室内の空気が一変する。


「お客人がお見えになっています」


ザウバーリングは細い眉を上げた。


「客人?」

「はい」


執事は一礼して続けた。


「魔族の姫君と、人間の英雄殿が」

「ほう『聖女』様とやらが、直々に」


彼の口元に、意味深な笑みが浮かぶ。その表情には、皮肉と好奇心が混ざり合っていた。


「案内しなさい」


従者たちが慌ただしく退室する中、ザウバーリングは窓際に立ち、遠くを見つめた。

窓から差し込む帝都の明かりが彼の少年のような端正な横顔を幻想的に照らしている。


「聖女様。英雄様。さぁどうぞこちらへ」


魔族の姫君メーラは、豪華な宮廷ドレスに身を包み、凛とした佇まいで入室してくる。

一方、アドリアンは軽やかな足取りで彼女に付き添っていた。


「魔環公ザウバーリング閣下。この度は突然の訪問、失礼をお許しください」


ザウバーリングは柔和な表情を浮かべ、静かに頷いた。


「いえ、むしろ歓迎しますとも。我が領地の『救世主』……いや『聖女』様にお会いできるとは」


その言葉には感謝と共に皮肉が込められていたが、アドリアンは意に介さない様子で、むしろ愉快そうに口を開いた。


「おや、ザウバーリング卿。相変わらずお若いお姿で」


彼は軽やかに言った。


「その魔導リング、今日は特別に輝いているように見えますが……もしや喜びのあまり?」


ザウバーリングの眉が僅かに動いた。


「ほう、人間風情が随分と口が達者だな」

「まあ、『風情』とおっしゃらず」


アドリアンは微笑を浮かべたまま続けた。


「このような素晴らしい機会に、種族の違いなど気にしていては楽しくありませんよ」


メーラは冷や汗を流しながら、二人のやり取りを見守っている。

ザウバーリングは小さくため息をつき、しかし口元には微かな笑みが浮かんでいた。


「……そうか。……そうだな」


ザウバーリングは珍しく素直な口調で言った。普段の尖った物言いは影を潜め、そこには純粋な感謝の念が滲んでいた。


「我が領地を、そしてエレノアを救ってくれたことには感謝せねばなるまい」

「おっと。高貴なる魔環公様が、こんなにも素直にお礼を仰るとは。さすがは娘想いの公爵様ですね」

「な……!」


ザウバーリングは一瞬たじろいだが、すぐに取り繕った。


「毎度毎度、貴様は一言……いや、二言多いやつだな」

「いえいえ」


アドリアンは優しく続けた。


「お嬢様の無事を何よりも願い、でも直接は心配を見せられない。さぞかし辛かったのではありませんか?」


ザウバーリングは言葉を失った。その表情には、娘を想う父親としての素顔が覗いている。

ザウバーリング卿……彼は若いドワーフではあるが、娘を想う父としての深い愛情と、公爵としての重責。その両方を背負いながら、彼は常に気丈に振る舞ってきた。


「ふん……人間風情に見透かされるとは、私も年を取ったものだ」


その言葉には、いつもの刺々しさはない。代わりに、どこか自嘲めいた、しかし温かみのある響きが含まれていた。

メーラは、この高名な公爵の意外な一面に、思わず目を見開いた。アドリアンは満足げな笑みを浮かべている。


「いえ、良き父であることに年など関係ありませんよ」


アドリアンの言葉に、周囲の雰囲気が和らいでいく。最初は表情を硬くしていた従者たちも、徐々に安堵の表情を見せ始めた。

年老いた執事は目頭を押さえ、几帳面なメイド長は微かに頷き、若い給仕たちは思わず顔を見合わせる。

そんな暖かい空気の中……不意に、アドリアンが言った。


「さて、じゃあめでたしめでたしってことで!そろそろお祝いの『ふわふわぬいぐるみパーティー』を開催しましょうか!」


その瞬間、執務室の空気が凍りついた。

従者たちが一斉に固まる。年季の入った執事が思わず咳き込み、メイド長は慌てて目を伏せ、若い給仕たちは必死に表情を押さえ込もうとする。

彼らは知っていた。魔環公の密かな趣味を。

──豪華な寝室の奥に隠された、可愛らしいぬいぐるみコレクション。深夜、こっそりとそれらを愛でる主の姿を。

しかし、それは決して口にしてはいけない"禁句"だった。


「な……なっ……」


ザウバーリングの端正な顔が見る見る赤くなっていく。


「な、何を馬鹿な……そんな、私が……」

「ザウバーリング卿……貴方は今まで幾多の政争を勝ち抜いてきた猛者。しかしその反応は……まずいですねぇ。まるで本当のことを認めているようなものです」


ザウバーリングは従者たちの方を向き、声を震わせながら言った。


「何を言っているんだ貴様!私は男らしいドワーフだ!女子供が好むぬいぐるみなど、そんなものに興味があるはずがないだろう!?そうだろう、お前たち!」


従者たちの反応は実に様々だった。

年老いた執事は突然、天井の魔法結晶に深い興味を示し始め。

ベテランのメイド長は「あら、お茶の時間でしたわ」と意味ありげに微笑み。

若い給仕たちは互いの肩を抱え、顔の表情を変えないように極限まで我慢している。


「ほ、ほら!お前たち、なぜ答えない!」


ザウバーリングの声が更に裏返る。


「ザウバーリング卿。趣味というのは人それぞれ。それを恥じるなんて、全くもって貴方らしくありませんよ」


アドリアンはそう言うと、懐からとある物を取り出した。

それは粗末な布で作られた、収穫の女神を模した人形だった。


「この素晴らしく可愛らしい人形も、貴方のコレクションに加えてくれたら」


アドリアンは皮肉めいた口調で言ったが、その瞳は真剣そのものだった。


「きっと、みんなが喜ぶでしょう」


ザウバーリングは息を呑んだ。魔導リングの輝きが静まり、彼の表情が一変する。

その人形に込められた想いが、彼の心に直接語りかけてくるようだった。

不器用ながらも、一生懸命に縫い付けられた祈り。そして何より、領地の未来への希望。

従者たちも、その空気の変化を感じ取ったのか、静かに見守っている。


「これは……」


ザウバーリングは静かに言った。もはや、先ほどまでの慌てた様子は消えていた。


「貴方の領地に住む少女が、エレノア様に人形の作り方を教えてあげたようで。『大好きなお父様』に自分が作った人形を届けてくれとお願いされましてね」


ザウバーリングの目が変わった。魔導師の鋭い眼差しは、この人形に込められた純粋な想いを見抜いていく。


『お父様、ごめんなさい。でも、心配してくれてありがとう』


ザウバーリングの脳裏に、農地が回復して笑顔を取り戻した娘の様子が浮かんだ。

彼は静かに手を伸ばし、人形を受け取った。その手つきは、まるで宝物を扱うかのように優しい。


「確かに」


彼は小さく呟いた。


「素晴らしい人形だ」


ザウバーリングは人形をしばらく見つめた後、照れ隠しに咳払いをした。


「ごほん……そうだな」


彼は皮肉めいた調子を取り戻そうとする。


「私には人形を集める趣味などないが……我が娘の寄贈品ならば、飾っても良いかもしれんな」


その言葉に、従者たちは思わず微笑みを交わした。

ザウバーリングは話題を変えるように、メーラの方へと向き直った。その表情から今までの皮肉めいた様子が消え、凛とした威厳に満ちた表情となる。


「──メーラ殿、そしてアドリアン殿」


彼の声は、まるで誓いを立てるかのように厳かだった。十本の魔導リングが、美しい輝きを放ち始める。


「我が領地と娘を救って頂いたこと、心より感謝申し上げる」


彼は深々と一礼し、続けた。


「そして、ここに誓おう。この魔環公ザウバーリングは魔族の姫を支持する。代々伝わる、この魔導リングにかけて」


その言葉には、揺るぎない決意が込められていた。指の光が、まるで誓いを証明するかのように輝きを増していく。


「魔環公閣下、そして従者の皆様」


メーラが厳かな声で言葉を紡ぎ始めた。彼女の姿は、もはや臆病な少女のものではない。そこには確かな威厳を持った姫君の姿があった。

執務室の魔法の光結晶が、彼女の声に呼応するように輝きを増していく。ザウバーリングの魔導リングもまた、神秘的な光を放ち続けている。


「私は誓いましょう」


彼女は真っ直ぐにザウバーリングを見つめた。


「この信頼に必ず応えると。貴方様と、エレノア様の領地を救えたように、いつの日か、この帝国全体、そして世界を救える存在になると」


従者たちは、思わず息を呑んだ。彼女の言葉には、ただの美辞麗句ではない、確かな力と決意が宿っていた。

アドリアンは静かに微笑んでいる。かつては弱い、守られるだけの少女が、確かな成長を遂げているのだ。

ザウバーリングは、片手に人形を持ったまま、もう片方の手を掲げた。十本の魔導リングが、まるで星々のように輝いている。


「良い誓いだ」


彼は珍しく素直な口調で言った。


「我らが見守らせてもらおう。魔族の姫にして聖女たる君の、これからの物語を」


ザウバーリングの優し気な声が、執務室に響き渡った。




♢   ♢   ♢




時を同じくして、地下帝国グロムガルドの帝都に一台の馬車が到着した。

それは、ドワーフの魔導馬車とは対照的な趣を持っていた。白銀と翠玉を基調とした優美な装飾、生木から編み出されたかのような車体。

大通りを進む馬車に、道行くドワーフたちは首を傾げていた。


「なんだありゃ?」

「あれは……エルフの馬車か?」


帝都の大通りを進む馬車に、ドワーフたちは首を傾げていた。

彼らの魔導機械とは相容れない、自然の力を帯びた馬車。その存在自体が、この地下都市では異質だった。


「見て見て!あそこの建物、全部機械で動いてる!?すごーい!」


突然、馬車の窓から一つの影が身を乗り出した。

金色の髪が光を受けて輝き、知性の宿る瞳が好奇心に満ちて輝いている。ポニーテールを揺らし、少女は街並みを食い入るように見つめていた。


「お姉ちゃん、危ないよ!そんなに乗り出したら、落っこちちゃうよ……!」


可愛らしい声が馬車の中から響く。


「レフィーラ、やめなさい」


穏やかだが、厳めしい男の声が続いた。


「『使節団』として品のある行動をしなさい。私たちはエルフの品格を示しに来たのですよ」


しかし、レフィーラと呼ばれた少女の瞳からは、興奮の色が消えることはなかった。

馬車は、シャヘライトの街灯に照らされた帝都の街路を、優雅に進んでいく。

その中で黄金の髪をなびかせた少女は、新しい発見を求めて、キラキラと輝く目で周囲を見渡し続けていた。


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