「さて」
ざわめく群衆を他所に、メーラは優雅に一歩前に進み出た。彼女のドレスが、地下の淀んだ空気を優美に揺らしている。
「この土地は邪なる呪いを掛けられています。なんと、酷いことでしょう」
その言葉を聞き、ドワーフたちは顔を見合わせる。不安と期待が入り混じった表情で、彼らは小さな囁き声を交わし始めた。
「呪いだって?」
「だから作物が育たなかったのか……?」
メーラは伝説の聖女のように、静かに続けた。
「突然現れた魔族の姫に、皆様が疑いの目を向けるのは当然のこと。まして、聖女などと名乗るこの私を」
彼女は軽やかな仕草で地面に膝をつき、枯れた土を掬い上げた。
「ですが、どうかご覧ください」
その仕草には、どこか芝居がかった優雅さがあったが、同時に不思議な説得力も漂っていた。
メーラは掌の中の土を見つめ、大げさに目を閉じ、祈るような仕草を見せた。
「邪なる力よ、この地から去って……」
その瞬間、彼女の手から柔らかな光が広がり始める。
乾いた土が淡く輝き、見る見るうちに生命力を取り戻したような色合いへと変化していく。
「つ、土が!」
「光ってる……?」
群衆から驚きの声が上がった。エレノアも、その光景に目を見張っている。
メーラは小さく笑みを浮かべた。しかし、その内心は内気な少女らしく必死さと気弱な気持ちが溢れている。
(少し大げさすぎたかな……でも、これくらいの演出をしないと。アドリアンが言ってた通り、人の心を動かすには、こういう……)
ちらりと背後を見ると、アドリアンは両手を胸の前で組み、まるで聖女を崇拝する信者のように祈りを捧げているふりをしていた。
その姿は完璧な演技なのに、どこか茶目っ気が感じられる。
──無論、この聖なる力はアドリアンのものだ。メーラの力に見せかけて、気付かれないように魔法を使っているだけ。
アドリアンと視線が合うと、彼はにこりと微笑んでメーラに向かってウインクをした。
その仕草は「その調子だよ」と言っているようでもあり、「もっと大げさにやっていいよ」と冗談を言っているようでもあった。
「ふふっ」
メーラは気持ちを立て直し、再び聖女らしい表情を作る。しかし、彼女の頬は僅かに赤みを帯びていた。
「さあ、皆様」
メーラは立ち上がり、再び気品溢れる声で言った。
「この土地に再び豊かな実りをもたらしましょう。私に、お力を貸していただけますか?」
「力?でも、俺たちにゃあ何も……」
「いいえ。皆様の願いと祈りこそが、私の力となるのです」
そう言って、彼女は農地を歩き始めた。ドレスの裾が、枯れた土を優雅に掃いていく。
「さあ、皆様も私と一緒に」
彼女は荒れ果てた農地へと歩み出た。豪華なドレスの裾が、死んだように見える土を掃いていく。
メーラが手を翳すたびに、不思議な光が広がっていく。乾ききった土から、青々とした若芽が顔を出し始める。彼女は芽生えを見つめ、まるで子供を愛でるように微笑んだ。
「まあ、なんと力強い芽なのでしょう。この子たちは、皆様の信念を待っていたのですね」
濁り切った水路に触れれば、その指先から輝きが広がり、濁った水が清らかな青さを取り戻していく。
「この水も、皆様の純粋な想いを待ち望んでいたのです」
淀んでいた空気は、彼女が通り過ぎるたびに清々しさを取り戻していった。まるで洞窟の地下深くに春の風が吹き抜けたかのように。
「この土地は、決して死んでなどいませんでした。ただ、深い眠りについていただけなのです」
ドワーフたちは息を呑んで、この奇跡的な光景を見守っていた。
年老いた農夫の頬を涙が伝う。子供たちは歓声を上げ、若いドワーフたちは畏敬の念に満ちた目でメーラを見つめている。
エレノアもまた、呆然とその様子を見つめていた。
「そ、そんな……彼女は、本当に聖女……」
エレノアの目は輝きに満ちていた。希望という名の光が、彼女の瞳に宿っている。
思わず漏れるその呟きに、アドリアンは彼女の傍らに立ちそっと言った。
「どうです?『聖女』様の力は」
「……」
エレノアは言葉もなく、ただ茫然と佇んでいた。
だが、その奥には隠しきれない希望が……。
しかし。
──その表情を見た瞬間。
アドリアンの心に、鋭い痛みが走った。
(ああ……キミのそんな表情を、見れるだなんて)
彼の脳裏に、前世の記憶が鮮明に蘇る。似て非なる世界での、この同じ場所。
そこには、今のような希望の光は存在しなかった──。
♢ ♢ ♢
枯れ果てた土地。死臭漂う空気。かつては帝国の誇りであった地下農場は、今や地獄絵図と化していた。
黒い斑点のような呪いの痕が床や壁を這うように広がり、それは次第に虫のような形となって蠢いている。
腐敗した水路からは異様な臭気が立ち込め、魔法の光結晶さえも輝きを失っていた。
「英雄様。どうか、この階層の民を引き連れてお逃げくださいませ」
エレノアの、少女のような外見をした領主の声が、英雄アドリアンの耳を打つ。
彼女の表情には、もう疲労と諦めしか見えなかった。
「何を言っているんだい、エレノア。キミも一緒に逃げるんだ」
「もう、いいのです」
彼女は静かに首を振った。
「私はこの地と運命を共にします。私を育み、そして支えてくれたこの地と……」
エレノアは微かに微笑んだ。その表情には、どこか安らぎさえ浮かんでいた。
「私はね、この地で生まれ、育ちました」
彼女はゆっくりと思い出を紡ぎ始めた。
「幼い頃から、みんなに愛されて。ドワーフたちは皆、私の家族でした。彼らは皆、私をザウバーリングの娘ではなく……エレノアという一人のドワーフとして見てくれた」
彼女は周囲を見渡した。かつての豊かな農場は、今や見る影もない。
「マルガスおじいさまは、私に野菜の育て方を教えてくれて。リーザおばあさまは、いつも美味しいパンを焼いてくれて」
エレノアは懐から、小さな人形を取り出した。手作りの、豊穣の女神の人形。
「これは……私を慕ってくれていた少女が作ってくれたの」
彼女の声が震えた。
「『きっと女神様が私たちを守ってくれる』って」
アドリアンは息を呑んだ。
「でも、守れなかった」
エレノアの目から涙が零れ落ちる。
「あの子は、飢えで最初に死んでしまった。私の目の前で」
彼女の手が震え始めた。
「あの子は最期まで、この人形を握りしめていたわ。『エレノア様、ごめんなさい。もっと上手に作れたらよかったのに』って」
エレノアの声が途切れた。その目は、もう現実を見ていないようだった。
虚ろな瞳で人形を見つめる。
「それをどうして、私だけがおめおめと生き延びれるでしょうか」
天井から落ちる瓦礫。蠢く黒い影。
しかし、エレノアの心は既に此処になかった。
「っ……」
アドリアンは気付いた。気付いてしまった。
彼女の心は、その少女と共に、とうに死んでいたのだ。
言葉を失った。救いようのない絶望を前に、英雄の力など、何の意味も持たなかった。
──なんと言えばいい?もっと俺が早くここに来ていれば、呪いは解けていた?みんなを助けられていた?
違う。そんなことを言えるはずがない。そんな慰めの言葉は、あまりにも空虚すぎる。
遅すぎたのだ。全てが、遅すぎた。
「英雄様、最後にここに来てくれてありがとう」
その言葉にアドリアンの胸が痛んだ。彼の力、英雄としての力は、この絶望の淵でなんの意味も持たなかった。
呪われた土地。死んでいく民。そして、心を殺された領主。全てが、彼の遅すぎた到着を嘲笑っているようだった。
エレノアはボロボロの人形を胸に抱き、静かに目を閉じた。
「もうすぐ、みんなに会える……」
フラフラと、彼女は力なく歩み始めた。
「エレノア!」
アドリアンの悲痛な叫びも、もう彼女には届かなかった。
彼女は空虚な笑みを貼り付けて、崩れゆく農地を歩み続ける。その足取りは不確かで、まるで夢を見ているかのように。
「ああ、マルガスおじいさま」
彼女は誰もいない虚空に向かって話しかける。
「今年の収穫は上手くいきましたか?ほら、この新しい種は、きっと……」
アドリアンは彼女の異変に気付いた。エレノアの体から、かすかな黒い靄が立ち上っている。
水を通して呪いが蔓延し、彼女の心も体も蝕んでいたのだ。
「リーザおばあさま、今日のパンも良い香り……」
彼女の声が震える。
「でも私、まだお手伝いができなくて。ごめんなさい」
瓦礫の上を、よろよろと歩く足取り。彼女の両目からは、気付かないうちに涙が溢れ続けている。
「あら、リリィ」
突然、エレノアの表情が明るくなる。
「もう人形は出来たの?今度は私が直接女神様に届けてあげる」
彼女は人形を、より強く抱きしめた。
アドリアンは、その光景から目を逸らすことができなかった。
この世界の歯車が狂い始めた時から、全ては終わっていたのかもしれない。
「みんな、待っていてくれたのね」
エレノアの目は、遥か遠くを見ていた。そこには、彼女にしか見えない幻影が広がっているのだろう。
かつての豊かな農地、笑顔で働く人々、そしてもう二度と戻らない大切な人々の姿。
「今度は……必ず守るわ」
その言葉が、崩壊していく空間に響く。天井からは更なる轟音。
黒い影が蠢き、呪いの気配が濃くなっていく。
「エレノ──」
アドリアンが彼女に手を伸ばした瞬間であった。
彼女の体から、一斉に黒い影が噴き出した。それは凶悪な虫の姿となり、エレノアの肌を、血管を、内臓を貪るように這い回る。
「あ……」
彼女の口から小さな声が漏れた。それは苦痛の声なのか、解放の喜びなのか。
鮮血が飛び散る。まるで赤い花が咲いたように。エレノアの白い肌が、赤く染まっていく。
虫は彼女の体を切り裂き、引き裂き、そして……。
アドリアンは呆然と、その光景を見つめることしかできなかった。彼の目の前で、彼女の体が赤く染まっていく。
最期の瞬間、エレノアは微笑んでいた。
「お父さん、ごめんなさい──」
その言葉と共に、轟音が響き渡った。エレノアの体が引き裂かれ、鮮血の雨が降る中、何かが転がり出た。
それはボロボロの、血に染まった人形。
「……っ」
アドリアンは震える手で、その人形を拾い上げた。豊穣の女神を模した、幼い少女の願いが込められた人形。
今は血に塗れ、引き裂かれ、変色していた。
「どう、して」
天井が崩れ落ち、階層が崩壊していく。しかし、アドリアンの耳には、もはやその音さえ届かない。天井が。壁が。床が。全てが崩れ落ちる。
この階層の、全ての終わりを告げるように。
♢ ♢ ♢
「あれ……?こんなところに人形が……」
メーラの声で、アドリアンは現実に引き戻された。
土地を浄化しながら皆で練り歩いていると、メーラが地面に転がっている何かに気付いた。泥まみれで、ひどく踏みつぶされた人形。
綿が飛び出し、縫い目が裂け、かろうじて豊穣の女神の形を留めているだけだった。
「あ……」
小さな、震えるような声が聞こえた。
振り返ると、一人のドワーフの少女が立っていた。痩せこけた体に、擦り切れた服。
しかし、その目には純真な光が宿っている。今や、涙で潤んでいたが。
「私が作った人形……」
少女は震える声で言った。
「女神様に届けてほしくて、ノーマ様に渡したのになんで……?」
アドリアンは一瞬、過去の血塗られた人形の記憶が蘇り、目を見開いた。
しかし、すぐに柔らかな笑みを浮かべる。
「おや、これは可愛らしい人形じゃないか」
彼は意図的に明るい口調で言った。瞳の奥にある感傷に誰にも気付かれないように。
「こんなに心のこもった贈り物、そうだな……せっかくだから、聖女様に預けてみないかい?」
少女が不思議そうな顔をする。
「きっと、女神様に直接届けてくれるはずだよ。そうだろう?聖女様」
彼はメーラに向かって、人形を差し出した。
メーラは戸惑いながらも、優雅に人形を受け取る。
その瞬間だった。不思議な光が人形を包み込んだ。引き裂かれた布が修復され、こぼれた綿が戻り、泥や汚れが消えていく。
そして新しい輝きを放ち始めた。
「わぁ……!」
少女の目が星のように輝いた。
メーラの手の中で、人形は見る見るうちに美しさを取り戻していく。まるで、この土地の希望と共に生まれ変わるように。
「人形まで、元に戻った……!?」
「これが聖女様の力……」
「奇跡だ……本当の奇跡だ!」
ドワーフたちの間で、驚きと歓喜の声が広がっていく。
誰かが「聖女様!」と叫ぶと、その声は瞬く間に群衆の中で波紋のように広がっていった。
「こんな……こんなことが、本当に……」
エレノアは震える声で呟いた。
彼女の目には、困惑と共に、長い間失われていた希望の光が宿り始めていた。
「私たちの土地が、この領地が……本当に救われるのですね」
かつての絶望に沈んでいた表情は消え、代わりに希望の光が目に宿っている。
メーラを見る目には、もはや異種族への警戒はなく、純粋な畏敬の念だけが浮かんでいた。
アドリアンは、その光景に満足げな微笑みを浮かべていた。
しかし。
(あぁ、来たか)
突然、彼は遠くからの鋭い視線を感じ取った。アドリアンの表情が一変する。
穏やかな微笑みは消え、その目は鋭く細められた。そこにあるのは、もはや慈愛に満ちた騎士の表情ではない。怒りを秘めた英雄の眼差し。
(この世界でも、同じ手を使うだなんて芸のない奴らだ。でも、今回は絶対にお前たちのいいようにはさせない)
そう、絶対に──
♢ ♢ ♢
「ば、馬鹿な……」
フードを深々と被った男──ノーマは、遠く離れた高台から遠視の魔法を使って状況を窺っていた。
「あり得ない……あの呪いは、検査魔法でも発見できないはずなのに……!」
彼の目の前で、信じられない光景が広がっている。メーラの手によって、確実に土地が浄化されていく。
長年かけて仕込んだ呪いが、まるで悪い夢のように消えていく。
「私の完璧な計画が……こうも、簡単に」
ノーマの手が震え始めた。これほどまでの浄化の力を持つ存在など、彼の計算には入っていなかった。
その時、彼は背筋が凍るような感覚に襲われた。
遠く離れているはずなのに、突然、背筋を凍らせるような戦慄が走った。
ノーマは震える手で遠視の魔法を向ける。
「──」
そこにはアドリアンが立っていた。そして冷酷な瞳で、こちらを見据えている。
「ひっ!?」
思わず喉から悲鳴が漏れる。アドリアンの目は、人のものとは思えないほどの殺気を放っていた。
「あ……ああ……」
それは人を見る目ではない。害虫を、穢れを、この世から抹消すべき存在を見る目だった。
絶対的な殺意の現れ。絶対的な断罪の意思。
ノーマの足が勝手に後ずさりを始める。いつもの余裕も、傲慢さも、全て吹き飛んでしまっていた。
(なんなんだ、あの男は……!?あんな殺気は……人間のものじゃない!)
冷や汗が止まらない。呼吸が乱れ、視界が歪む。本能的な恐怖が彼を突き動かし、よろめきながらその場から逃げ出す。
高台を駆け下りる足音は、遠くから響く歓声にかき消されていった。