「ふふ……」
ザウバーリング卿の領地の一画でフードの男が薄暗い笑みを浮かべていた。
巨大な洞窟に広がる農場は、かつての豊かさを失い、今や見る影もない。
魔法の光結晶は色を失って暗く、灌漑設備は錆び付き、作物は枯れ果てている。
「実に素晴らしい光景だ」
ノーマは内心で嗤う。
「薄汚いモグラどもが食料の為に必死に耕す姿は、まさに最高の芝居……」
ザウバーリングの領地は、帝国の食糧供給における重要拠点。ここが機能を失えば帝国全体が混乱に陥る。
食糧不足は、やがて民衆の不満となり、貴族への反感となり……。
「そう、これは帝国崩壊への第一歩」
彼は薄く笑みを浮かべた。
そしてノーマは、フードの下で目を細めた。脳裏に、とある人物の姿が浮かぶ。
全ての憎しみと虚無を纏う、あの闇の存在に……。
「全ては、あの御方の望む通りに」
彼の声は、まるで祈りを捧げるかのように静かだった。しかし、その目には狂信的な光が宿っていた。
「ノーマ様!」
突然の声に、彼は表情を一変させた。苦悩に満ちた、誠実な相談役の顔に。
駆け寄ってきた農夫に、ノーマは深い憂いを湛えた目で応えた。
「マルガス殿。また収穫が芳しくないと聞きました。本当に心配です」
「はい……」
マルガスと呼ばれたドワーフは肩を落とした。
「幾ら耕しても駄目でした。このままでは、冬を越せるかどうか……」
「私にできることがあれば、何でも」
ノーマは真摯な表情で言った。
(愚かな虫けらが。その不安に歪む顔こそ、最高の愉しみだ)
その時、小さな声が聞こえた。
「あの……ノーマ様」
振り向くと、幼いドワーフの少女が立っていた。
擦り切れた服を着た少女は、両手で何かを大切そうに抱えている。
「リリィ?どうしたんだ」
マルガスが心配そうに声をかける。
「これ……」
少女──リリィは震える手で、手作りの人形を差し出した。
「収穫の女神様……作ったの。みんなのために、兵隊さんの為に、ノーマ様にあげるから……お願いします」
それは粗末な布で作られた、収穫の女神を模した人形だった。不器用な縫い目、所々ほつれた糸。
しかし、その一針一針には、純粋な祈りが込められていた。
「お母さんが教えてくれたの。こうすれば、女神様が私たちを守ってくれるって……」
リリィの目には涙が光っていた。
「みんなが……また美味しいものを食べられますように」
周りに集まったドワーフたちの目も、潤んでいた。
ノーマは優しく微笑んで人形を受け取った。
「ありがとう、リリィ。これは本当に素晴らしい贈り物だね。きっと、女神様も喜んでくれるよ」
「こんな小さな子も頑張ってるんだ。俺達ももっと頑張らなきゃな……!」
「よぉし!今度はもっと奥深くまで岩石を掘って、開拓してみようか!」
少女は嬉しそうに頷き、父親と共に去っていった。
他のドワーフたちも、感動的な光景に心を打たれ、それぞれの仕事に戻っていく。
そうして誰もいなくなった後……。
「く……くく……」
ノーマの口元が、不気味な笑みに歪んだ。
彼は人形を高く掲げ、勢いよく地面に投げつけた。
「こんなゴミを作って祈ったところで何とかなると思っているのか……ははっ」
彼は意図的にゆっくりと、人形を踏みつけた。
布が引き裂かれ、中の綿が散らばっていく。しかし、それだけでは飽き足らず、彼は更に踵で捻るように踏みつけた。
人形は無残にも引き裂かれ、汚れた地面に散らばった。少女の祈りを込めて作られた収穫の女神は、今や泥まみれの布切れと化した。
「神ねぇ……」
ノーマは嘲るように笑った。彼は引き裂かれた人形の残骸を見下ろし、言った。
「神様、お願いします?笑わせるな」
彼は嘲るように人形の顔を踵で押しつぶす。
「地面の下で這いつくばって暮らす劣等種の祈りなど、誰も聞き届けやしない」
ノーマはポケットから透明な虫を取り出した。それは薄く光を放ち、不気味に蠢いている。
「さあ、今日もお前たちの『芝居』を楽しませてもらおうか。必死に原因を探り、希望を持ち続けるその姿を」
彼は虫を水路に放つ。それは素早く水の中に潜り込んでいく。
ノーマの瞳には歪んだ愉悦の色が浮かんでいた。彼にとって、この領地の衰退は、まるで上質な演劇を観るような娯楽だった。
「エレノア様も、本当に素晴らしい主演女優だ。あの清らかな瞳で絶望する姿は……ふふ、なんともお労しい」
彼は再び領地を見渡した。作物が育たず、困窮する住民たち。その苦悩に満ちた表情は、彼にとって最高の愉しみだった。
今日も哀れなモグラ共の狼狽え絶望する姿を見ようと、領地を練り歩くノーマ。
しかし、その途中だった。
「おや?」
彼の目の前を、ドワーフたちが一様に明るい表情で駆けていく。
普段見慣れた暗い表情とは打って変わって、彼らの目には希望の光が宿っていた。
「何だ?」
彼が首を傾げていると、近くを走り過ぎるドワーフたちの会話が聞こえてきた。
「おい、食料がまた取れるようになるって本当か?」
「あぁ、なんでもエレノア様が原因を特定したらしい!」
「──なに?」
ノーマの表情が凍りついた。そんな馬鹿な。呪い虫を特定出来るわけがない。
そこへ、さらに衝撃的な会話が飛び込んできた。
「しかも、『聖女』様が訪れて、これから土地を元に戻してくれるんだってよ!」
「『聖女』だぁ?よく分からんが見に行ってみっか!」
ノーマの顔から血の気が引いた。フードの下の表情が、見る見るうちに歪んでいく。
歓声を上げながら走り去っていくドワーフたちを、彼は凍りついたように見つめていた。
♢ ♢ ♢
ザウバーリング卿の領地は俄かに活気づいていた。
普段は重苦しい空気が漂う地下農場に、今日は異様な熱気が満ちている。
領主の屋敷──エレノアの質素な住まいを取り囲むように、次々とドワーフたちが集まってきていた。
老いた農夫、疲れた表情の職人、痩せこけた女性たち、そして希望に満ちた目をした子供たち。
彼らは皆、屋敷の方を見つめながら、興奮した様子で言葉を交わしていた。
「本当に土地が元に戻るのかねぇ」
「エレノア様が約束したんだ、きっと大丈夫さ」
「聖女様って、一体どんな方なんだろう」
ざわめきは次第に大きくなっていく。しかし、それは不安や怒りのものではない。
長い間失われていた希望が、彼らの声に混ざっていた。
その時、一人の女性が民衆の前に姿を現した。
「領民の皆さま。お集まりいただきありがとうございます」
エレノアである。彼女はゆっくりと前に進み、領民たちに歩み寄る。いつもの質素な服装だが、その表情には今までにない強い光が宿っていた。
ドワーフたちのざわめきが静まり、全ての視線が彼女に注がれる。枯れた農地が広がる地下空間に、一瞬の静寂が訪れた。
エレノアの後ろには、異質な存在感を放つ二人の姿があった。
人間の青年と、魔族の少女。アドリアンとメーラの姿に、ドワーフたちは興味深げな視線を向けている。
「おい、ありゃ誰だ?」
「人間と、魔族……?」
困惑の声が、地下空間にぽつりぽつりと漏れ出る。
ドワーフたちの間で、不安げな視線が行き交う。彼らの期待は、突然の異種族の登場に戸惑いへと変わっていた。
しかし、そんな困惑の声を押し切るようにエレノアの清らかな声が響いた。
「──長らく、私たちの領地は苦しい状況が続いておりました」
エレノアは一呼吸置き、微かな微笑みを浮かべて続けた。
「しかし、その苦境は今日で終わりです。私たちの土地を救う方が、遥々訪れて下さいました」
ドワーフたちの間で、小さな驚きの声が上がる。
エレノアは後ろに控える二人に手を伸ばした。
「こちらが、魔族の姫にして聖女であらせられる、メーラ様です」
エレノアの言葉と共に、メーラはゆっくりと前に歩み出た。
彼女の淡い紫色の髪が、魔法の光結晶に照らされて柔らかく揺れる。彼女の纏う深紫のドレスは、歩くたびに優雅な波紋を描く。
裾が光を受けて煌めくたびに、まるで夜空の星々が舞い踊るかのよう。その姿は、暗い地下空間に、まるで異世界の光が差し込んだかのような印象を与えていた。
「……」
ドワーフたちは唖然とした様子で、彼女の歩く姿を目で追いかけていた。
異種族。それも、劣った種族である筈の魔族であるはずなのに、メーラの佇まいからは、そんな偏見を一瞬で吹き飛ばすような威厳が漂っていた。
「この地に住まう、ドワーフの皆さま」
メーラの儚くも美しい声が鈴のように響き渡る。その声には不思議な力が宿っており、聞く者の心を静かに捉えていった。
「私は、あなた方がどのような苦境に立たされているか……それを存じ上げております」
メーラの透き通った瞳がドワーフたちを見つめた。
その眼差しは慈愛に満ちており、彼女が心から領民たちを心配していることが伝わってくる。
「ですが、どうかご安心を。この魔族の姫であるこの私が、必ずやこの地を救ってみせます」
彼女の言葉には、不思議な説得力があった。まるで神託のように、その言葉はドワーフたちの心に直接響いてくる。
そして、その横に控えていた人間の青年が一歩前に出る。アドリアンの姿には、メーラとはまた違った威厳が漂っていた。
彼は壮麗な佇まいで民衆の前に立ち、力強い声で宣言した。
「さぁ、皆さま。これから魔族の姫君にして『聖女』であらせられるメーラ様の奇跡がご覧になれます」
アドリアンは優雅に一礼して続けた。
「本日限りの特別公演、『聖女様の土地復活ショー』の開幕です。荒れ果てた土地が生まれ変わる様を、最前列でご覧いただけるなんて、皆様なんとお幸せなことでしょう」
メーラは思わずため息をつきそうになるのを堪えた。横で、エレノアが不安そうな目で二人を見ている。
「もちろん、入場料は無料。お土産付きと言いたいところですが、それは収穫が復活してからのお楽しみ、ということで!」
彼の陽気な声が、枯れた地下空間に響いた。その声には不思議な力があり、重苦しい空気を少しずつ溶かしていくようだった。