質素な応接室で、三人は向かい合って座っていた。部屋には必要最低限の家具しかなく、装飾品も見当たらない。
ランドヴァール邸で人間の貴族レオンと会った時とは、まさに正反対の光景にメーラは目を丸くしていた。
「随分と、その……整理されておられますね」
だから自然とそんな言葉が出た。メーラにとってドワーフの貴族とは、豪華絢爛な装いを好むという印象があった。
だが、エレノアの邸宅……というよりは小屋と呼ぶべき建物の応接間は、まるで修行場のように質素で飾り気がない。
アドリアンは、この状況を面白そうに観察していた。彼の目には、何か確信めいたものが浮かんでいた。
まるで、この質素さこそが、彼が探していた何かを物語っているかのように……。
「質素すぎるとよく言われます。でも、これが私なのです」
「いえいえ、むしろ清々しいものですよ。特に、このご時世において」
アドリアンは軽やかな笑みを浮かべながら答えた。
しかし、その言葉にエレノアは表情を暗くし俯く。
「ご時世……ええ。父上から任された領地なのに、こんな状態に……」
彼女の声には深い自責の念が滲んでいた。
その瞳には貴族としての責務を果たせなかったことに対する、自身への失望と悔しさが表れていた。
「……先程、貴方たちは違うと仰いましたが……きっと父上が遣わされた御方なのでしょう?私の無能さを確かめに」
アドリアンは、テーブルに置かれた水差しの水を見つめながら、穏やかに言った。
「エレノア殿。私たちは貴女の『無能さ』を確かめに来たわけじゃありません。『無実』を証明しに来たんですよ」
「え?」
アドリアンはゆっくりとテーブルの水差しに手を伸ばした。
そして目を細め、何かを見るようにして水差しの中を凝視する。
「エレノア殿、この水に何か気付きませんか?」
「水、ですか?」
「ええ」
彼は水差しを光にかざした。ゆらゆらと揺れる水は、まるで何かを映し出す鏡のようだ。
「この水には、目に見えない『客人』が潜んでいます。遅効性の特殊な呪いですね」
その瞬間、エレノアは目を見開いた。
彼女は水差しの中を凝視したが、透明な水はただ揺れているだけだった。
「そ、そんなはずはありません。水も、土も、検査魔法や機械を通して散々調べ尽くしたのですから」
「ああ、通常の検査では見つからないはずです。これはとても特殊な呪いなんですからね」
アドリアンの眼差しが鋭くなる。今までの軽口とは一変した真剣な表情だった。
「遅効性の呪い。徐々に、ゆっくりと土地を蝕んでいく。まるで自然の衰退のように見せかけられて……」
彼の記憶に遥か昔の記憶が蘇る。
そう、あの時もそうだった。この地下に籠城した時、既に汚染は帝国全土にまで広がり……手遅れになって……。
前世での記憶が、まるで警鐘のように彼の心を揺さぶった。かつての過ちを、同じように繰り返させるわけにはいかない。
「──だけど。まだ、手遅れじゃない」
そして、ゆっくりと瞼を開けた彼の目には、強い決意の光が宿っていた。
アドリアンはおもむろに持っていた水差しを宙に放り投げた。
「あっ!?」
エレノアが驚きの声を上げかけた瞬間、水差しは空中で静止する。
中の水が零れることもなく、まるで見えない台座の上に置かれたかのように浮遊していた。
アドリアンは右手を水差しに向けて掲げ、呪文を唱え始めた。彼の指先から淡い光の糸が伸び、水差しを包み込んでいく……。
「な、なにを……?」
神秘的な光景を前にして、彼女の心には警戒の念が芽生えていた。
これまで何度も最高の魔導機器で検査を重ね、一流の魔法使いたちの力も借りた。それでも見つけられなかったものを、なぜこの青年がこうも簡単に……?
──嘘ではないのか。──私を陥れようとしているのではないのか。
そう訝しむエレノアに、アドリアンは言った。
「エレノア殿、私の目を借りてください。単純な視覚共有の魔法を使わせていただきます」
「視覚共有……」
エレノアは言葉を反芻した。確かに、それは最も基本的な魔法の一つ。幻術や偽装は不可能とされている。
なにしろ、その人物の見た光景そのものが映し出されるのだ。
「貴女が私を疑うのは当然。何しろ、私は得体の知れない人間……身長こそ貴女より高いですが、何の立場も信用もない人間です」
「そ、それは……」
エレノアが言葉に詰まると、アドリアンは楽しそうに続けた。
「ドワーフの方からすれば、私なんて怪しげな長身の人間にしか見えませんよね。まるで木の上の枝を取るために雇われた手伝いみたいな」
その予想外の表現に、エレノアは思わず目を丸くした。不思議な人間だ。こんな深刻な状況で、どうしてこうも軽やかでいられるのか。
しかしアドリアンの表情が一変する。先ほどまでの茶目っ気は消え、真摯な眼差しがエレノアを見つめていた。
「この視覚共有なら、私の『目』を直接お借りできる。私が見ているものを、貴女自身の目でお確かめください。もし怪しいと思ったら、すぐに魔法を解除してください」
「……本当に、基本的な視覚共有だけですね?」
「ええ。他の魔法は一切使いません。私は貴女に『真実を見る力』だけをお貸ししましょう」
その言葉に。彼の真摯な表情に、エレノアは深く思案する様子を示した。
そして、ゆっくりと頷く……。
「では」
彼女は小さく息を吐いた。
「お願いします」
アドリアンは静かに頷き、そして右手をメーラに伸ばしこう言った。
「さぁ、メーラ姫もどうぞ。普段、俺の目から可愛らしい姫がどう見えているか分かるかもしれませんよ」
「ア、アド……リアン!こんな時に軽口はやめて!」
しかし、そう言いながらも、メーラはアドリアンに差し出された手を見つめていた。その目には、好奇心と恥ずかしさが混ざっている。
「まあまあ、三人で見た方が、真実はより確かなものになりますから」
エレノアは、二人のやり取りを見て戸惑いながらも何故か暖かい気持ちが胸に広がっているのを感じていた。
深刻な状況の中で、こんな温かな空気を作り出せる手不思議な人たちだ。
メーラは、まだ頬を赤らめながらも、おずおずとアドリアンの手を取った。
「私の方を見ないでね」
「心配無用です」
メーラの言葉にアドリアンは声を弾ませた。
「私の目に映るのは、いつだって最高の景色ですから。今はちょうどお美しい魔族の姫と、ドワーフの領主さまが映ってるけど」
その軽口を聞きメーラは手を引っ込めようとしたが、アドリアンはすかさず彼女の手を強く握った。
穏やかな光が、三人の間を繋ぐように広がっていく。その光は、確かに基本魔法特有の純粋な輝きを放っていた。
エレノアの視界が、ゆっくりとアドリアンのものと重なり始める。最初は少し目が眩んだが、すぐに慣れていった。
──そして。
「──!?」
水の中に微かな影が浮かび上がってきていた。それは指先ほどの大きさの虫のような姿。
透明な体は水晶のように光を屈折させ、普通なら決して目にすることのできない存在だ。
アドリアンは素早く両手を動かし、複雑な印を結ぶ。水の中の影がよりはっきりとした形を取り始める。
「これが、土地を蝕む呪いの正体」
彼は右手を前に突き出し、水中から浮かび上がってきた虫を見事に掴み取った。透明な体を持つその存在は、掌の中でかすかに蠢いていた。
エレノアとメーラは息を呑んで、その一部始終を見つめていた。視覚共有を通して、彼女たちは同じ光景を共有している。
「そ、そんなものが……水の中に……?」
「水の中だけじゃない。水から土へ。水からドワーフへ。ありとあらゆる場所に呪いは広がっている。そして、その呪いは今も広がり続けている……」
アドリアンは手の中の虫を握り潰した。
声にならぬ悲鳴を上げ透明な体が弾け飛び、床に散らばる破片が蒸発していく。
「これが、この領地にかけられた呪いの正体だ」
彼はゆっくりと立ち上がり、エレノアと向き合った。彼女は呆然としたまま立ち尽くしていた。
そんな彼女に、アドリアンはにこりと微笑んで言った。
「先程、私は『枯れ果てた土地の原因である貴女を、どうにかしましょうか』と言いましたね」
アドリアンの声が響く。それはまるで、重々しい訓戒のように……。
「貴女が呪いを掛けた訳じゃない。でも、この呪いを掛けるには誰にも怪しまれずに、長期間水や土に処理を加える立場が必要だ」
彼の指が空中でくるりと円を描く。まるで見えない糸を手繰り寄せるように、謎を解く紐を紐解くように。
そして悪戯っぽく笑みを浮かべた。
「ところで、エレノア殿。貴女の周りには、どんな『忠実な』部下がいるのかな?特に……」
彼は再び指を動かし、まるで見えない糸を手繰り寄せるような仕草をした。
「この領地の『改革』を提案してきた人物とか」
エレノアの身体が静止した。その目が大きく見開かれる。
彼女の脳裏に、ある人物の言動が走馬灯のように蘇っていく。信頼していた相手。
常に自分の傍らにいて、領地の改革を提案し続けた人物……。
エレノアの脳裏に一人の人物が過った。
「さて、エレノア殿。貴女は初見の私に疑念の目を向けてきましたね」
「え?そ、それは……その……」
「あぁいや、責めている訳ではないんです。むしろそれは当然だ。人の上に立つ者の責務として、常に疑いの目を持つ。それはとても大切なことです」
彼はゆっくりとエレノアに歩み寄る。その眼差しは真剣で、思わず彼女は後ずさった。
「でも、そのような常識的な感性を持っているのに……何故、貴方の側にいるであろう怪しい人物のことは疑わないので?」
魔法で空中に固定されていた水差しが、まるで彼の言葉に呼応するように地面に落ち、ガシャンと大きな音を立てた。
「おっと。水差しさんも目を覚ませと言っておられるようだ」
アドリアンは軽く言ったが、その目は鋭く光っていた。
彼は真摯な表情で続けた。
「貴女はただ甘言に騙されただけではありません。もっと深い魔法が使われているのです」
「深い、魔法?」
「ええ。洗脳魔法。相手の判断力を少しずつ、しかし確実に歪めていく禁断の術です」
エレノアの顔から血の気が引いた。
「まさか、そんな、筈は……」
「気付かないはずです」
アドリアンは優しく言った。
「なぜなら、それは貴女の純粋な信頼心に付け込み、徐々に……ごく自然に貴女の思考を操っていったのですから」
メーラも息を呑んで聞いていた。部屋に重い沈黙が落ちる。
アドリアンはにこりと微笑んで言った。
「視覚共有魔法を使うのに、別に手を繋ぐ必要がないのにメーラ姫は私と手を繋いでしまった。このように、思考の誘導というのは案外簡単で……更に洗脳魔法まで使えば、人を意のままに操るというのは容易いことなのです」
メーラは一瞬、何を言われているのか理解できないような呆けた表情を浮かべた。
しかし次の瞬間、その意味を理解した途端、彼女の顔が見る見る真っ赤に染まっていく。
「アド!」
「おっと魔族の姫様がお怒りだ。でも安心してください、洗脳魔法なんて使っていませんよ。使うまでもないというか……」
彼女は両手を握りしめ、まるで怒った子猫のように彼を睨みつけた。その仕草は怒りを表現しているはずなのに、どこか愛らしさが漂っている。
アドリアンは手を挙げて降参のポーズを取った。
「おっと、魔族の姫様がお怒りだ。でも安心してください、洗脳魔法なんて使っていませんよ。使うまでもないというか……」
「もう!アドの馬鹿!」
メーラは頬を膨らませ、クルリとアドリアンに背を向けた。
その仕草は怒りというより、恥ずかしさを隠そうとしているようにも見えた。
その様子をエレノアは呆然として見ていると、アドリアンは彼女に向き直り口を開く。
「さぁエレノア殿。新しい水差しに、もっと良い水を入れるとしましょう──」