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第四十三話

酒場は水を打ったように静まり返る。マスターの顔色がみるみる青ざめていくのが分かった。


「な、何を言ってやがる……」

「あれれ?聞こえなかったかな?じゃあもう一回言おうか?」


アドリアンはそう言うと、立ち上がり大きく息を吸い込んだ。


「『鋼の胃袋』さん!アンタのお気に入りのミルクを二つ!」


その瞬間だった。酒場中に一斉に笑い声が響き渡る。


「ぎゃははは!!おいマスター、てめぇこっそりミルク飲んでやがったのかよ!」

「てめぇ前に『酒は水みてぇに飲めんだ』とか自慢してたじゃねーか!」

「だっせぇ!!」


マスターの顔は真っ赤になり、額には汗が浮かんでいた。彼は慌てて手を振り、アドリアンに囁く。


「わ、分かった!分かったから!」


マスターは小声で懇願するように言った。


「黙っていてくれ。頼む」


アドリアンは満足げな笑みを浮かべ、カウンターに戻った。


「さあ、注文通りミルクを二つ。できればぬるいもので」


マスターは歯ぎしりしながらも、仕方なく頷いた。


「分かった。待ってろ」


彼が裏に引っ込むと、酒場の客たちは好奇心旺盛な目で二人を見つめていた。

一人の髭もじゃのドワーフが近づいてきて、笑いながら言った。


「おい、お前ら。面白いガキだな。なにしに来た?」


アドリアンは、わざとらしく咳払いをして背筋を伸ばし、大げさな口調で言い始めた。


「実は皇帝様に直々にお呼びがかかりましてね。『我が帝国の未来を託すに相応しい若者を見つけたぞ』とおっしゃって」


酒場中が一瞬静まり返った後、爆笑の渦に包まれた。


「はっはっは!こいつ、面白いこと言うじゃねえか!」


髭もじゃのドワーフが腹を抱えて笑った。

別のドワーフが冗談めかして言った。


「そうかそうか、皇帝様ご指名か。さぞかし名誉なことだろうなぁ。で、皇太子になるのかい?それとも宰相か?」


アドリアンは真顔を装いながら答えた。


「いえいえ、そんな大それたものじゃないよ。皇帝様は私に『王宮専属のミルク味見係』を仰せつかったのです」


再び笑い声が沸き起こる。一人のドワーフが言った。


「おいおい、そりゃ重要な役職だ。我らが『鋼の胃袋』マスターと肩を並べる大役じゃないか!」


マスターは顔を真っ赤にしながら、カウンターの奥から叫んだ。


「おいこら!いい加減にしろ!」


酒場中が再び笑いに包まれる中、マスターが冷えたミルクの入ったジョッキを二つ持って戻ってきた。

彼は恨めしそうな目でアドリアンを見ながら、ジョッキを置いた。


「さあ、お前らの『特別オーダー』だ。これで満足か?」


アドリアンはにっこりと笑って、ジョッキを手に取った。


「ありがとう、マスター。最高のサービスだよ」


彼はメーラの方を向き、ジョッキを掲げた。


「さあ、メーラ。乾杯しよう。ドワーフの酒場での『ミルク』だ。こんな経験、そうそうできるもんじゃない」


メーラは困惑しながらも、少し笑みを浮かべてジョッキを持ち上げた。二人のジョッキが触れ合う音が、今や興味津々で見守るドワーフたちの間に響いた。


「おい、人間の若造!珍しいな、帝都に来るなんて。どこから来たんだ?」


がさつな声で一人のドワーフが尋ねた。

アドリアンは優雅に微笑んで答える。


「遠いところから来たんだ。そうだな……『ミルク川』の上流辺りかな」


ドワーフたちは大笑いし、別の者が声を上げた。


「そりゃまた田舎からきたもんだ!そっちの娘さんは魔族だろう?奴隷じゃない魔族だなんて初めて見たぜ!」

「ああ、彼女はね」


アドリアンは軽やかに答えた。


「実は最強の魔族のお姫様なんですよ。ただ、その力をあまりにも恐れられるので、こうして村娘に変装しているんです。皆さんには内緒ですよ」


と、ウインクを添えた。

メーラは驚いて口をパクパクさせたが、ドワーフたちは大いに楽しんでいるようだった。


「がははは!お前、面白いやつだな!」

「もっと話を聞かせてくれよ」


時間が経つにつれ、酒場の雰囲気は和やかになっていった。

アドリアンの機知に富んだ冗談と皮肉な物言いに、ドワーフたちは笑いころげ、次々と酒を注ぎ合った。

勿論、二人はミルクだがマスターは無言で二人のジョッキにミルクを注ぎ足した。


「嬢ちゃんも大変だなぁ。こんな妙な男に連れ回されるだなんて」

「あ……はい……まぁ、大変なのは確かにそうですね……」


メーラは、最初は緊張していたが、徐々にリラックスしていった。彼女の周りには、酔っ払いのドワーフたちが集まり、彼らの故郷や仕事の話を熱心に語っていた。

彼らの荒々しい外見とは裏腹に、メーラは彼らの話に引き込まれていった。鍛冶屋の苦労話、家族への愛情、そして仲間との友情。それらの話を聞くうちに、メーラは内心でつぶやいた。


(この人たち見た目は怖いけど、実はすごくいい人たちなのかもしれない……)


どう見ても荒くれ者の酔っ払いだが、彼らの話はどこか温かく、心に響くものがあった。

アドリアンはその様子を満足げに眺めつつ、自身もまたドワーフたちとの話を楽しんでいた。


「で、何しに来たんだおめぇらは?まさかただ観光に来たわけじゃあるめぇ」


アドリアンは茶目っ気たっぷりの笑みを浮かべ、声を潜めるように言った。


「俺たちは皇帝様に呼ばれたんだ。冗談じゃなくて、本当にね」


ドワーフたちは一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに爆笑した。


「おいおい、冗談にしては大風呂敷だぜ!」

「そうかそうか、皇帝様がお呼びとは。どれどれ、お前さんの立派な服をお見せ願おうか」


アドリアンは肩をすくめて答えた。


「いやぁ、残念ながら宮廷服は洗濯中でね。今日はこの『庶民の装い』で失礼させてもらったよ」

「そりゃすげぇや。次は『俺は実は皇帝の隠し子なんだ』とか言い出すんじゃねぇのか?……あぁお前さんは人間だしその冗談は無理か、がはは!」


アドリアンは急に真面目な顔をして、周りを見回した後、小声で言った。


「実は……皇帝様は、こっそり国家機密を教えてくれたんだ」


ドワーフたちは息を呑んで耳を傾けた。

アドリアンは咳払いをして、威厳のある声で皇帝の真似を始めた。


「わしはな、実はこの立派なヒゲが邪魔で、毎日の酒がまともに飲めんのじゃ。だから、こっそり裏でストローを使っとるんじゃよ」


酒場中が爆笑の渦に包まれた。ドワーフたちは腹を抱えて笑い、中には椅子から転げ落ちる者まで現れた。メーラも思わず吹き出してしまった。


「ぎゃははは!!てめぇ、マジでおもしれぇガキだ!」

「皇帝様、ストローって!あの巨体でストロー!!ぶっふふふ!!」


笑い声が鳴り止まぬ中、アドリアンは得意げに胸を張った。

──しかし、その瞬間、突如として酒場全体が静まり返った。ドワーフたちの顔から笑みが消え、一様に青ざめた表情でアドリアンを……いや、その背後を見つめている。


「?」


アドリアンは不思議に思い、ゆっくりと振り返る。メーラも恐る恐る視線を向ける。

そこには……。


「おぉ、盛り上がっているな。どれどれ、ワシも混ぜて貰おうか」


ドワーフにあるまじき巨大な体躯を持つ男……皇帝ゼルーダルが仁王立ちしていた。

ゼルーダルは、薄汚れた作業着のような服を身にまとっていたが、その威厳ある姿と圧倒的な存在感は隠しようがなかった。

彼はゆっくりとアドリアンとメーラの横の席に腰を下ろした。

酒場全体が静寂に包まれる中、皇帝は穏やかな笑みを浮かべながらアドリアンに尋ねた。


「で、何の話で盛り上がっていたのかな?」


アドリアンは、驚きを微塵も見せず、涼しい表情で答えた。


「おぉ、陛下。こんなところでお会いするとは。我々は今しがた、皇帝陛下の素晴らしさについて皆様に語っていたところです。特に陛下の威厳ある立ち振る舞いと、素晴らしい統治能力について」


周囲のドワーフたちは、アドリアンの厚顔無恥な対応に呆れ顔を浮かべていた。メーラは震える手で顔を覆い、目を閉じていた。

皇帝は眉をひそめ、怒りを滲ませながらも笑いを堪えるように言った。


「ほう、そうかそうか。で、ワシがストローを使っているという話はどうなった?」


メーラとドワーフ達の身体が硬直した。

アドリアンの冗談が本当に皇帝の耳に入っていたことを、誰もが理解した瞬間だった。

アドリアンはそれでもなお冷静さを失わず、にっこりと笑って答える。


「おや、聞いておられたとは。それは陛下の繊細なお心遣いの比喩として申し上げたのです。小さな民の声にも耳を傾ける陛下の姿勢を、ストローに例えたわけで……」


皇帝は大きな声で笑いながら言った。


「バカ野郎!ワシはストローなんぞ使っとらん!この立派なヒゲこそがワシの誇りよ。酒も、ヒゲごと豪快に飲み干すに決まっておろう!」


その言葉に、緊張していた酒場の空気が一気にほぐれた。ドワーフたちは安堵の笑いを漏らし始めた。


「皇帝様がお怒りだ!おいマスター、ありったけの酒を皇帝様にお出ししろ!」

「がはははは!酒だ酒だ!ほらよ、皇帝様!」


ドワーフたちは競い合うようにジョッキを掲げ、一気に酒をあおる。ゼルーダルも機嫌を直し、豪快に酒を飲み始めた。

メーラはほっと胸を撫で下ろし、アドリアンに囁いた。


「もう……心臓が止まるかと思っちゃった」


アドリアンは肩をすくめて、苦笑した。


「いやぁ、俺も流石に焦ったね。でも皇帝様は懐が深いからきっと許してくれるって信じてたんだ。そうだろ?」


ゼルーダルは、アドリアンのウインクを見て、大きく目を見開いた。その表情には呆れと感心が入り混じっている。


「まったく、人間の若造が皇帝の前でこれほど図々しいとはな」


アドリアンは、皇帝の作業着をじろじろと観察し、皮肉めいた口調で言った。


「陛下、その『庶民の装い』、本当によくお似合いですね。玉座に座る時の窮屈そうな正装よりも、ずっと自然に見えます。まるで本物の労働者のようだ」


彼は一瞬考えるそぶりを見せ、付け加えた。


「もしかして、これが本当の姿なのでは?」

「なかなか鋭いな、小僧」


彼は周りを見回し、声を潜めた。


「実はな、この方が落ち着くのだ。宮廷の暮らしときたら、まるで檻の中の動物のようでな」

「なんと。毎日、きらびやかな服を着て、美味しい料理を食べ、素晴らしい音楽を聴く。それはさぞかし辛いでしょうね」


ゼルーダルは眉をひそめたが、その目には笑みが宿っていた。


「お前、本当に軽口が得意だな。……だが、間違っちゃいない。あの退屈な儀式と、うんざりするほどのお世辞と皮肉には辟易しているのだ」

「まあまあ、陛下。そんなに悲観的になることはありませんよ。少なくとも、ここにいるドワーフと我々は『本物の』陛下を敬愛していますから」


ゼルーダルは、アドリアンの瞳をじっと見つめ、そして大きくため息をついた。

その表情には笑みが宿っている。


「お前、本当に人間か?軽口を言う魔物じゃないのか?」

「最後に鏡を見て確認した時は人間でしたよ。さぁ陛下、今宵はしがらみも悩みも忘れて飲み明かしましょう。……俺たちはミルクだけどね」


しばらくの間、皇帝と若者たちは軽口を叩き合い、周りのドワーフたちは半ば恐れ、半ば興味深そうにその様子を見守っていた。

突然、ゼルーダルの表情が一変した。彼は周りを警戒するように見回し、声を潜めてアドリアンとメーラに言った。


「実はな...お前たちのことで心配していたのだ」


アドリアンとメーラは驚いた顔で皇帝を見つめた。


「どうやって四人の公爵の支持を取り付けるのか……そのことでな」


ゼルーダルは深刻な面持ちで続けた。


「奴らは、気まぐれな猫のようなものだ。一筋縄ではいかんぞ」


アドリアンは一瞬真剣な表情になったが、すぐに軽い口調で答えた。


「ご心配なく、陛下。我々には秘密兵器があります」

「秘密兵器だと?」


ゼルーダルは眉を寄せた。アドリアンはにやりと笑う。


「はい。それは……」


彼は大げさに手を広げた後、言った。


「メーラ姫の可愛らしさと、私の厚かましさです」


メーラは顔を真っ赤にして、アドリアンの腕を軽く叩いた。


「や、やめて!」


ゼルーダルは大きく目を見開いた後、腹を抱えて笑い出した。


「お前たちは本当に面白い奴らだ」


彼は笑いを抑えながら言った。そして、呟くように付け加えた。


「……だが、お前たちならば、歪んだ公爵たちをも変えることができるかもしれんな。そして、我が娘の意見も……」


アドリアンは頷き、答えた。


「ええ、必ずや陛下のご期待に沿えるよう努めます。もちろん、その過程で帝国が崩壊したりしないよう、細心の注意を払いますがね」

「くく……この小僧め、最後まで皮肉を言わずにはいられんのだな」


不意に、ゼルーダルは立ち上がり、大きな声で叫んだ。


「さあ、今夜は皆で飲もう!なんだか無性に飲みたくなってきたからな!幸運にもここに居合わせた奴は国庫にある蓄えで奢ってやる!」


酒場中のドワーフたちが一斉に沸いた。皆一斉にジョッキを掲げ、「乾杯!」の声が響き渡った。

アドリアンとメーラも、笑顔でミルクのジョッキを持ち上げた。


「……あぁでも、国庫の金を使いすぎるとベレヒナグルに怒られるから、程ほどにしてくれると有難いが……」


小さく呟かれた皇帝の呟きは酒場の喧騒に掻き消され誰の耳にも入らなかった。

ドンチャン騒ぎは夜更けまで続き、その中に二人の若者と一人の変装した皇帝の姿が溶け込んでいった。


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