グロムガルド帝国の謁見の間は、その壮麗さは地上の常識とは一線を画していた。
天井高く伸びる柱には、精巧な歯車の彫刻が施され、それぞれがゆっくりと回転している。
床には、シャヘライトで描かれた複雑な幾何学模様が広がり、歩く度に光の波紋が広がっていく。
「……ふむぅ、どうしたものか」
中央に据えられた玉座に鎮座するドワーフ……皇帝ゼルーダルの呟きが謁見の間に響く。
筋骨隆々とした体格は人間よりも遥かに巨大で、ドワーフというよりも巨人という表現がしっくりくる。
そして、玉座の周りには四人の公爵が佇んでいた。
「トルヴィア殿下にはなにか事情があったのです。でなければ、軍を撤退させるなどということはしますまい」
一人目は、銀色の豊かな髭を蓄えた屈強なドワーフの男公爵。
武人然とした彼の髭には様々な勲章が飾りつけられており、話すたびに勲章が擦れて、ジャリ……と音を立てる。
「今回のエルム平野の遠征は多大な費用と労力が掛かっていた。それを簡単に撤退させるなんて、トルヴィア殿下のご判断とはいえ納得できませんねぇ」
二人目は、まるで少年のような、まだ髭も生えていない若々しい男公爵。
しかし、その目は古代の魔道書を読みふけった者のように深い知恵を湛えていた。指には複数の魔導リングが輝いている。
「なんでもドラゴンが平野に出現したとか。だが、皇国の竜人が出撃したという報告はない。実に奇妙だ」
三人目は、モノクルを掛けた鋭い目つきの男公爵。
その視線は部屋中を絶えず巡り、全てを分析しているようだ。彼の杖は複雑な機械仕掛けになっており、絶えずカチカチと音を立てている。
「ドラゴンなんて帝国の技術力を以てすれば撃退出来たのではなくて?空飛ぶトカゲを見ただけで撤退するなんて帝国の名折れですわね」
最後は、華やかな女公爵。
その美しさはまるで最高級のシャヘライトを彫刻したかのようで、身長の低さも相まって一見すると少女のようだ。
しかしその瞳には若者には出し得ない経験が宿っている。彼女の周りには、微かな青い魔力の渦が漂っていた。
──彼らこそが、この強大なグロムガルド帝国の頂点である皇帝と、四人の公爵だった。
そして謁見の間の重厚な空気を切り裂くように、公爵たちの会話が始まった。
若々しい公爵が、指の魔導リングをくるくると回しながら、皮肉めいた口調で言う。
「ドラゴンの一件については、我が国の軍事専門家の意見を聞かねばなりませんねぇ。空飛ぶトカゲ一匹で退却とは、さぞかし恐ろしい光景だったのでしょう?ひょっとしてその巨大な影に怯えて、軍全体が震え上がったとか?」
武人然とした公爵の髭が怒りに震える。その髭に付けられた勲章がジャラジャラと音を立てた。
「戦場に出たこともない若造が何を言う。地下邸宅で優雅に酒を飲んでいる貴殿にはドラゴンの恐ろしさなど分かるまい。炎の息は魔導機械兵をも溶かし、翼の一振りで風圧だけで大軍を吹き飛ばす。貴殿のような魔法使いは、そんな光景を目の当たりにしたらその場で気絶するだろうよ」
モノクルの公爵が即座に割って入る。彼の杖のカチカチという音が、緊張感を高めた。
「ふん、魔法の専門家殿も、軍人殿も。我が帝国の技術力をご存じないのかね?ドラゴンなど、魔導機械兵の前では蜥蜴の干物同然だ。我々の最新鋭の対空砲台があれば、ドラゴンなど瞬時に撃墜できる。計算上は99.8%の確率でね」
華やかな女公爵が、優雅に魔導扇を開きながら言う。青い魔力の渦が彼女の周りで揺らめいた。
「まあまあ、お三方とも。トルヴィア殿下の判断には、きっと我々には計り知れない深遠な理由があったのでしょう。例えば……お姫様の女性的直感とか?あるいは、ドラゴンの美しさに心奪われて、撃つに撃てなかったとか?うふふ」
若い公爵が鼻で笑い、若公爵がそれに追従した。
「女性的直感ですか?それは素晴らしい。次は占い師にでも国の舵取りを任せましょうか」
武人公爵が声を荒げる。
「諸公、トルヴィア殿下を侮辱するのはやめていただきたい。彼女には必ず正当な理由があるはずだ。我々が知らない情報を掴んでいたのかもしれん」
モノクルの公爵が冷ややかに返す。
「ほう、軍人殿。お姫様贔屓ですか?それとも……何か隠していることでも?ひょっとして、この撤退に貴方も一枚噛んでいるのでは?」
「貴様、何を言う!我が忠誠を疑うというのか!」
女公爵が、まるで面白いショーを見るかのように言う。
「まあ、素敵。男同士の小競り合い、実に愉快ですわ。でも、お二人とも、そんなに熱くなられては困ります。髭に火がつきそうですよ」
若い公爵が溜め息をつく。
「ああ、我が帝国の未来はどうなることか。ドラゴンよりも恐ろしいのは、この内輪揉めかもしれませんな」
この皮肉の応酬を聞きながら、巨体の皇帝ゼルーダルは徐々に頭を抱え始めた。
「おや」
女公爵が声を上げる。
「陛下、お疲れのご様子でございますか?この些細な問題で頭を悩ませるのはお体に毒ですわ。たかがドラゴン一匹、たかが軍の撤退一つで、そんなにお悩みになることはありませんよ」
ゼルーダルは深いため息をつき、重々しい声で言った。
「貴殿たちの議論、実に素晴らしい。だが……そろそろ平行線から脱却した方がいいんじゃないか?」
その言葉に、公爵たちは一瞬の沈黙を保った。しかし、すぐにまた皮肉の応酬が始まった。
皇帝の苦悩など、彼らの権力争いの前では些細なことだったのだ。皇帝ゼルーダルはうんざりした様子で溜め息を吐いた。
「やれやれ、陛下のお言葉も虚しく我々の議論は尽きませんねぇ」
若い公爵が嘆息しつつ言った。
モノクルの公爵が即座に反論する。
「議論が尽きないのは、問題の本質に迫れていないからだ。我々は……」
──その時である。
謁見の間の重厚な扉がゆっくりと開かれた。シャヘライトの青い光が、新たな来訪者たちを照らし出す。
そこにいたのは炎のような赤い髪を靡かせる少女……トルヴィアであった。
彼女は鎧を身に纏ったまま凛とした姿勢で入場してきた。
「参上いたしました、父上」
トルヴィアの声が、静まり返った謁見の間に響く。彼女はゼルーダルの前で跪くよう、ゆっくりと跪いた。
「我が娘、トルヴィアよ」
ゼルーダルは目を細めて言った。
「此度の撤退……あまりに性急すぎる判断だったな」
その威圧感のある声に、謁見の間には緊張が走る。
まるで娘の身を案じるような声であったが、しかしそれと同時に有無を言わさぬ迫力も伴っていた。
武人公爵が声を上げる。
「殿下、私はあなたの判断を信じております。どうか、事の顛末をお話しください」
若い公爵が皮肉っぽく言う。
「ほう、おてんば姫様の冒険談か。楽しみですねぇ」
モノクルの公爵が冷ややかに付け加える。
「帝国の命運を左右する判断の根拠、しっかりと聞かせていただこうか」
女公爵が扇を閉じながら言う。
「さあ、トルヴィア殿下。我々の好奇心を満たしてくださいな」
トルヴィアは深く息を吐き、毅然とした態度で面を上げ、立ち上がる。
そして彼女は平野での出来事を事細かに話し始めた。
「陛下、公爵方。エルム平野での出来事を事細かにお話しいたします」
彼女の声が、謁見の間に響き渡る。
「王国の軍勢と対峙中、突如として魔族の姫の騎士を名乗る人間が現れました。彼は、我が軍と王国軍の双方を挑発し……」
トルヴィアは、淡々とした口調で語り続ける。彼女の言葉に、公爵たちの表情が次第に変化していく。
──魔法砲撃と魔導砲撃を想像を絶する力でいなした後に、一騎打ちの宣言をし帝国軍の将たちを軒並み打ち破ったこと。
──更には帝国と王国の大将とも一騎打ちをし、これを完膚なきまでに叩き潰したこと。
──そして。その後に行われた魔族の姫との会合中にドラゴンが飛来し、両軍共に戦闘を行える士気と統制は最早保てず、全軍撤退を余儀なくされたこと。
「以上が、私の見た全てでございます」
静寂が辺りを包み込む。
公爵たちは互いの顔を見合わせ、言葉を失っているようだった。
皇帝ゼルーダルがゆっくりと身を乗り出す。
「トルヴィア、その話は真か?」
「鍛冶神に誓って」
その時、公爵たちが一斉に口を開いた。
若い公爵が、魔導リングを弄びながら言った。
「まさか殿下に創作の才能があったとはね。皇国の騎士団長、魔族の姫と騎士……次は妖精の国との戦争でも始まるのでしょうか?」
モノクルの公爵が冷ややかに続ける。
「ふむ、計算が合わん。一人の騎士が魔法砲撃と魔導砲撃の雨を耐えるどころか跳ね返す?そんなことは不可能だ。如何なる技術や加護を持っていたとしてもな」
華やかな女公爵が、扇で顔を半分隠しながら言う。
「うっふふふ……騎士と戦士の一騎打ちの果てに魔族の姫とやらと会合を開いて、最後にドラゴンだなんて……なんて素晴らしい物語なの。あぁ、ワタクシ安心しましたわ。殿下に乙女心というものが存在して」
しかし、武人公爵だけは違った。
「待て、諸公。殿下が嘘をつく理由などあるまい。それに何千何万の兵士たちが同じ光景を見ているのだ。どうして彼女を疑うことが出来ようか」
しかし、他の公爵たちの皮肉な笑いに、彼の言葉は攪乱されてしまう。
皇帝ゼルーダルは、深いため息を吐いて言った。
「トルヴィア、お前の言葉を疑うつもりはない。だが、この話を証明する何かはあるのか?」
トルヴィアは、まっすぐに皇帝を見つめる。
「アイゼン卿が仰ったように、私だけではなく何万もの兵士たちが証人です。そして、魔族の姫とその騎士が今ここに……」
その瞬間であった。
「!」
謁見の間の重厚な扉が、ゆっくりと開かれる。その音に、全ての視線が一斉に集中した。
最初に姿を現したのは、アドリアン。彼は青と銀の美しい刺繍が施された壮麗な外套を身にまとっていた。
続いて現れたのは、メーラ。彼女は深い青色の絢爛なドレスに身を包み、その小柄な体からは想像もつかない威厳を放っていた。
最後に、巨大なリザードマンの姿が現れた。ザラコスだ。彼は皇国の騎士団長に相応しい、青銀の鱗のような模様が刻まれた重厚な鎧を纏っていた。
三人が一歩踏み出すたび、床に描かれた幾何学模様が青く輝く。神々しささえ感じられる三人の登場に、公爵たちは息を呑んだ。
彼らは公爵たちと皇帝ゼルーダルの前に立つと、凛と胸を張る。
「──グロムガルド帝国の誇り高き指導者の皆様方。ドラゴンの話で盛り上がっているところ、失礼します」
そしてアドリアンが一歩前に出て、わざとらしく深々とお辞儀をして言った。
「私が噂の……いや、伝説の英雄とでも申しましょうか。ドラゴンを追い払い、両軍を撤退させた張本人です。お詫びにでも参上したのかって?いえいえ、むしろお礼を言いに来たんですよ」
公爵たちが困惑の表情を浮かべる中、彼は不敵に笑う。
「だってこんなに面白い茶番劇に参加できるんですからね。──地下の狭い場所で、身長に似合わない大きな権力欲を巻き散らす、公爵様方の茶番劇にね」
場の空気が、凍り付いた。