「ぐっ……ぐぉっ……」
ガラフィドの呻き声が漏れ、彼は腹部を押さえながらよろめくように後退する。
アドリアンの拳は、鎧を紙くずのように破壊し、凄まじい威力でガラフィドの体を震わせていた。
──この細身の青年のどこにそんな力が……!?ガラフィドはアドリアンを睨み付けるも、彼はニヤリと不敵な笑みを浮かべたままだ。
「まさか今ので終わりじゃないだろ?もっと、楽しまないと!」
アドリアンはガラフィドにゆっくりと近付き、再び拳を握り締める。
ガラフィドの中で、怒りが沸き立つ。このような若造にいいようにやられる屈辱に、彼の誇りが傷付いたのだ。
「調子に乗るなよ……若造が!」
二人の間で、激しい肉弾戦が始まった。それは戦いと呼べるようなものではない。回避や駆け引きなど、戦術的な要素は一切存在しない。
ただ互いに拳を打ち込む、原始的な殴り合いだ。
アドリアンはガラフィドの拳を受け止め、ガラフィドはアドリアンの拳を受け止める。二人の拳が激突する度に、衝撃波が周囲に広がる。
「ぐっ……この馬鹿力!」
「ぐおっ……!うるせぇ、テメェもだろうが!」
いい歳をした……それも王国軍の大将であり大貴族であるガラフィドが謎の青年と子供の喧嘩のような殴り合いをしている。
王国軍たちは勿論、周囲にいる帝国兵たちも困惑してその様子を見守っていた。
「おいおい、決闘ってよりチンピラの喧嘩だな」
「俺ゃこっちのが分かりやすくて好きだぜ!がはは!」
ドワーフたちの間から、野次と歓声が飛び交い始めた。
アドリアンとガラフィドはそんな周囲の反応など眼中にない。二人は、ただひたすらに殴り合いを続ける。
「キミがいなくなった後大変だったんだぞ!俺は王国軍も率いなきゃならなくなって!毎日毎日事務処理にも追われて!」
「何言ってんだテメェ!訳の分からんことを言うな!」
アドリアンの拳がガラフィドの頬にめり込み、ガラフィドは地面に倒れる。
「このバカ侯爵!自分の斧で死ぬだなんて粋な計らいだったな!あぁ、びっくりして膝から力が抜けたよ!お陰様で!」
「何を言ってやがる!俺は生きてるだろうが!おかしくなったのかテメェ!?」
ガラフィドは、すぐさま起き上がり反撃。その拳がアドリアンの腹を打ち抜く。
アドリアンは吹き飛ばされながらも、立て直して殴り返した。
「おかしいのはキミの方さ!あの後、俺が奥方になんて説明したと思う!?『貴女の旦那と息子さんは死んでしまいましたよ。残念でしたねぇ』だなんて言えると思うか!?言うしかなかったけどね!その時の彼女の表情、俺が老衰で死ぬ間際まで忘れられなかったんだぞ!」
「わけわかんねぇこと言ってんじゃねぇ!」
ガラフィドがアドリアンを殴り飛ばし、アドリアンは地面を転がりながらもすぐに立ち上がる。
「俺の何を知ってる!」
「知ってるさ!キミが残した負の遺産も全部な!王国の借金も、クソみたいに出しゃばってくる王国貴族も!」
アドリアンの拳が、再びガラフィドに向かって飛ぶ。
「君の豪華な葬式代も俺名義で立て替えて!君の代わりに会議に出て、王国軍の前で演説して!」
ガラフィドは混乱しつつも、怒りに任せて応戦する。
「俺の、代わりだと?」
「あぁそうさ!君が棺桶の中でスヤスヤ寝静まった後に残された混沌を、俺が必死で収拾したんだ!感謝しろよガラフィド!」
アドリアンの拳がガラフィドの顎を捉えた。彼の巨体が空高く舞い上がり、地面に叩き付けられた。
ガラフィドは口から血を吐き、ゆっくりと立ち上がる。そして間髪入れずに拳を繰り出した。
二人の拳が激しくぶつかり合い、血しぶきが飛び散る。
「戯言を!俺はまだ何もしちゃいねぇよ!」
「そうさ、『まだ』さ!だからこそ今度は絶対キミを止めるんだ!」
アドリアンの拳がガラフィドの顔面に。ガラフィドの拳がアドリアンの腹部に突き刺さった。
そして身体をぐらりと揺らして倒れ込むガラフィドを見て、言った。
「『後は頼む』だって?冗談じゃない。今度は一緒に最後まで戦おうぜ、このクソ侯爵……」
「この野郎……いい顔しながら言う言葉が、それかよ……意味が、わからねぇ……」
二人は同時に呟いた。そして、ガラフィドはゆっくりと大の字になって倒れた。
「……こりゃ、引き分けかぁ!?いや、若いのの勝ちか……」
「ぎゃははは!王国の御大将と化け物みてぇな人間の殴り合い、楽しかったぜぇ!」
その様子を見ていたドワーフの一人が宣言すると、周囲の兵士たちから歓声が上がる。
歓声の中、トルヴィアは一人呆れたような顔で、アドリアンとガラフィドの側に歩み寄った。
「全く、何をやってんのよアンタたち。馬鹿みたい」
赤い髪が陽光に反射して、美しく輝く。
「そう、馬鹿なんだ。俺達って」
「一緒に……するんじゃねぇ……!」
息も絶え絶えに、ガラフィドは言った。
やれやれとトルヴィアは首を振ると、倒れている二人の側にしゃがみ込む。
「大将ともあろうものが、のこのこ最前線に出てきて殴り合いだなんて、馬鹿みたい」
その言葉に、アドリアンとガラフィドは顔を見合わせた。
そしてすぐさま、まるで息が合っているかのように二人は同時に叫んだ。
「キミが言うな!」
「お前が言うな!」
トルヴィアは一瞬驚いたような表情を見せるが、すぐに苦笑いに変わった。
──そうして、二人の殴り合いの決着がついたのか、つかなかったのかは分からないが……一先ずは終わったようだ。
ガラフィドは息を整え始めるが、アドリアンは一切息を切らしていなかったし、むしろ言いたい事を言えて、スッキリと……まるで憑き物が落ちたような爽快な表情を浮かべて背伸びをする。
「う~ん!何十年前かに言いたかったことを言えてスッキリした!これで昔のことはチャラにしてあげるよ、ガラフィド!」
「ハァッ……ハァッ……また意味の分からねぇことを。つーか、テメェ一体何がしたかったんだ?」
ガラフィドの言葉に同調するようにトルヴィアも鋭い眼差しでアドリアンを見つめた。
「そうよ。アンタの目的はなんなの?まさか殴り合いしにきたわけじゃないでしょ?」
アドリアンは、ゆっくりと上体を起こす。彼の顔に、不思議な笑みが浮かぶ。
「実はね……」
彼は一瞬の間を置いて、にっこりと笑う。
「王国……帝国……そして魔族の国と皇国を交えての会合のお誘いの招待状だったんだ。驚いただろ?」
一瞬の静寂。そして──。
「「はぁ?」」
ガラフィドとトルヴィアの口が同時に開き、彼らの目が丸くなった。
アドリアンの悪戯が成功したような子供のような笑い声が、こだました。
♢ ♢ ♢
戦場のど真ん中、アドリアンとガラフィドが先ほどまで殴り合っていた小高い丘に、まるで魔法のように幕が張り巡らされていた。
即席の会議場とは思えない荘厳な雰囲気が漂う中、各国の代表が円卓を囲んでいる。
アルヴェリア王国代表ランドヴァール侯ガラフィドは、まだ殴り合いの痣を顔に残したまま、やや居心地悪そうに座っていた。
グロムガルド帝国代表皇族トルヴィアは、その赤い髪を風になびかせながら、警戒心と好奇心の入り混じった目つきでアドリアンを見つめている。
ドラコニア皇族代表騎士団長ザラコスは、その巨体を丸めるようにして椅子に収まっていた。彼の鱗には、夕陽が美しく反射している。
そして、魔族の国の代表王女メーラ。彼女の小柄な体は、誰にも分からない程度には震えていた。
アドリアンはまるでパーティーの主催者のように、にこやかな表情でメーラの横に座っている。
「さて……アドリアン殿の突然のお誘いに応じていただき感謝する」
彼の言葉に合わせて、長い尻尾がぺこりと動く。
まるで息の合ったダンスのように、その場にいる全員の頭が同時に下げられた。
「随分と乱暴なお誘いだったがな」
ガラフィドがアドリアンから殴られた顔面を擦りながらそう言った。
アドリアンとの殴り合いでいつの間にか取れてしまった付け髭の跡を気にしているようだ。
「それは申し訳ない。でも髭が取れてイケメンになったよ、侯爵様。これで宮廷の貴婦人たちにモテモテだね」
全く申し訳なさそうに言うアドリアンをガラフィドはキッと睨みつける。
その目には殺気というより呆れが滲んでいた。まるで、悪戯っ子を叱ろうとして諦めた親のような表情だ。
「あの、本題に入らない?」
トルヴィアが退屈な授業中の生徒のように手を挙げて言った。全員の視線が彼女に注がれる。
彼女は少し気怠そうに口を開いた。
「それで?皇国の騎士団長と、魔族の国の姫とやらは、アタシたちと何の会合を開こうっていうの?」
トルヴィアの鋭い眼差しがメーラを射抜く。その視線には、戦場で磨かれた殺気すら感じられた。
メーラは小動物のように身体を震わせるが、アドリアンが円卓の下で彼女の手をそっと握ると、魔法がかかったかのように震えが収まる。
二人の視線が交差する。まるで、秘密の暗号を交換するかのように。
「──シャドリオス」
メーラが意を決して、そう呟いた。その単語にガラフィドとトルヴィアはピクリと反応する。
「今回、皆様方とこうして話し合いの場を設けたのは、世界を騒がせる邪悪な影……シャドリオスの対策についてです」
それを聞いて合点がいったようだ。トルヴィアも、ガラフィドも成程なと頷いた。
ザラコスがメーラの代わりに先を話す。
「諸君らもご存じの通り、昨今謎の軍勢が世界中を荒らしている。王国も帝国も、果てはアクアリアの海の中にまで奴等は現れた」
「……王国の兵士たちも被害にあっている。魔物なんかより、奴等の方がよっぽど厄介だ」
「アタシも、民草がシャドリオスとかいう奴らに襲われてるっていう話は聞いてる。でも、その対策をどうしてこの四人で話し合うわけ?」
メーラはトルヴィアの言葉に頷く。そして彼女は再び口を開いた。
「事ここに至っては最早一つの国で対処するのは困難です。謎の軍勢は、世界中の至る所から現れては悪さをする。恐らく、このままではよくないことが起こすでしょう……」
「そう。だからこそ各国で協力し、対策を練る必要がある。つまりシャドリオス限定で連合を組むのだ」
メーラの言葉にザラコスが付け足す。ガラフィドとトルヴィアは無言でザラコスに視線を移した。
「驚きましたな。皇国のドラゴン殿たちは俗世には無関心だと思っていましたが。空から金貨が降ってきそうな予感がしますな」
「ほんと、びっくりね。高貴なドラゴンさまが、我々と同じテーブルにつくだなんて。世界の終わりが近いのかしら?それとも、権力欲に目覚めたのかしら?」
二人の皮肉めいた言葉に、ザラコスはフッと笑うと「いやいや」と付け足した。
「皇国の貴竜様たちは貴方たちのようなか弱い……あぁいや失礼。吹けば飛ぶような塵芥の生命体を心配する程に慈悲深いのですよ」
明らかな挑発に、両名から幾ばくかの殺気が漏れ出すが、それも一瞬だった。
何故なら、次にはその視線はメーラとアドリアンに注がれたからだ。
「それに心配無用。皇国は盟主の座には興味がない。対シャドリオスの音頭を取るのは、ここにいる魔族の姫君と、英雄アドリアン殿なのだから」
ザラコスの言葉に、ガラフィドが「何?」とアドリアンに視線を向ける。トルヴィアも、興味深げに彼を見つめた。
アドリアンはガラフィドには指を立てて挑発し、トルヴィアにはウインクして手を振ったのですぐに二人は目を逸らしたが。
代わりに、メーラが彼等の視線を引き受けることとなった。
「魔族の国は遥か昔にシャドリオスに滅ぼされて存在しません。だからこそ、その王族の末裔である私が二度と悲劇が繰り返されぬよう、この会談をお開きしたのです」
メーラは凛とした表情で言葉を続けた。
「王国と帝国、互いに相いれない勢力であることは承知しております。しかし、シャドリオスの脅威は世界の危機です。今はその力を結集し、どうかお力添いを願いたいのです」
メーラの言葉にガラフィドは「ふむ……」と頷き、トルヴィアは「まどろっこしいわね」と呟いた。
沈黙が会議場を支配する中、最後にアドリアンが口を開いた。彼の声には、この場の空気を一変させるような力が宿っていた。
「さぁ、王国と帝国、両人の答えは如何に?」
アドリアンの問いかけに、会議場の空気が静まり返る。視線が、ガラフィドとトルヴィアに集中した。
一瞬の静寂の後。ガラフィドとトルヴィアは、まるで打ち合わせていたかのように同時に口を開いた。
「お断りする」
「お断りね」