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第二十九話

エルム平野は、かつての豊かさの面影を失いつつあった。


帝国の陣地には幾つもの要塞が威容を誇っていた。最前線には黒ずくめの巨大な鋼鉄の塊、魔導機械兵が整然と並んでいる。

対する王国の陣地では、重装騎兵が一糸乱れぬ隊列を組んでいる。騎兵の背後では、魔導士たちが大威力の攻撃魔法をいつでも放てるように控えている。彼らの手から漏れ出す魔力の残光が、陣地全体を薄紫色に染めていた。


しかし、両軍は一向に動く気配を見せない。いや、正確に言えば動けないのだ。


王国軍は、ドワーフが造り上げた堅牢な要塞と、恐るべき魔導機械兵の脅威をよく理解していた。

帝国軍は、重装騎兵の突撃をその身に受けて、魔導士の魔法砲撃が降り注げば壊滅的な被害を受けることを理解していた。

両軍の指揮官たちは勝利の鍵が先制攻撃にあることを理解している。それと同時に、一度戦火が交わされれば、その結果が破滅的なものになることも痛いほど分かっていた。


故に両者は動けない。

沈黙は続く。ただ時間だけが無為に過ぎていく。


「……なんだ、あれは?」


そんな無意味な睨み合いの中、王国軍の一人の兵士が声を上げた。

兵士たちの視線の先には、一人の人物が立っていた。風に靡く黒髪、優雅な外套を纏った青年の姿。

最も奇妙だったのは、その青年の表情だ。戦場に似つかわしくない穏やかな微笑みを浮かべている。公園の散歩でもしているかのような気楽さだ。


「敵……いや、味方か?」

「人間のようだが」

「あんな所で何してるんだ?気が狂ったのか?」


兵士たちの間で、困惑の声が波のように広がっていく。

彼らの疑問は当然だった。その丘は、まさに両軍の攻撃の交差点だ。もし戦が始まれば、ドワーフの要塞から放たれる魔導砲と、王国の魔導士からの魔法爆撃、そして両軍の突撃が交錯する場所。すぐに丘ごと地図から消えてしまうだろう。

王国軍の兵士たちは戸惑い、そして訝しむ。


──そしてそれは帝国軍も同じであった。


「し、指揮官どの!」

「あぁ、見えている」


少年の姿をしたドワーフの兵士が壮年の指揮官に声を掛ける。

ドワーフという種族は、人間とは全く異なる成長の仕方をする。歳を重ねても背丈は伸びず、代わりに男性は髭を伸ばし、貫禄を付ける。基本的に若いドワーフたちは、人間で言うところの少年少女のような愛らしい外見をしている者がほとんどだ。


そして、その可愛らしい外見とは裏腹にドワーフの筋力と技術力は驚異的だ。小さな体に秘められた力は、人間の想像を遥かに超える。彼らが作り上げた要塞や魔導機械兵は、その能力の証だった。


「人間……王国の斥候か?しかし人間一人で何を考えている?」


指揮官の声には、困惑が滲んでいた。あんな目立つ場所で堂々と立っているなど、正気の沙汰とは思えない。

最前線に並ぶ帝国の魔導機械兵たちも、その異変に気付いていた。巨大な鋼鉄の体が、かすかに動く。しかし、攻撃の命令は下されていない。


「ううむ……どうするべきか。攻撃命令を出すか?いや、しかしそんなことをすれば開戦の狼煙となる……俺の判断でそれは……」


そしてドワーフの指揮官もまた、判断を出せずにいた。彼とてこの大軍同士が本格的に衝突した時の損害の大きさを理解している。

帝国が魔導機械兵を動かす素振りを見せれば、王国の全軍が動き出し総力戦となるだろう。そうなればこの平原には血と屍が山のように積み上げられる。

しかし、このまま手をこまねいている訳には行かない……。


「仕方ない、『皇姫』様に伝令を出せ。判断を仰ぐのだ」


指揮官は苦虫を嚙み潰したような口調で兵士に命じた。

その様子からは本当は『皇姫』様とやらに伝えたくないという意思が見て取れる。


王国と帝国の両軍が戸惑い、中央で佇む人間の青年を訝しんでいると、突如として王国軍の兵士の間で動揺が走った。

帝国軍が動き出した……訳ではない。『とある命令』が前線にいる魔導士たちの元へ届けられたのだ。


「伝令!伝令!丘の上にいる人間に、魔法砲撃を放てとの命令だ!」

「……なんだって?」


帝国軍ではなく、あの青年に?何故だ?あれは味方ではないのか?

魔導士隊が狼狽えていると、伝令兵の口から衝撃的な言葉が飛び出した。


「これは王国軍元帥ランドヴァール侯からのお達しである!」


その声は、まるで自分自身に言い聞かせるかのように震えている。


「全軍、丘の上の人間に向けて、魔法砲撃を放て!これは命令である!」




♢   ♢   ♢




ランドヴァール侯ガラフィドの巨体が、金糸で縁取られた豪奢な椅子に深く沈んでいる。

その厚い指で、手入れの行き届いた髭をゆっくりと撫でながら、鋭い眼光で眼下の光景を見つめていた。

彼の周りには王国軍の高級将校たちが立ち並び、一様に同じ方向、丘の上にいる青年……アドリアンを見つめている。


そしてガラフィドの隣には、まるで別世界から来たかのような存在感を放つメーラ姫の姿があった。

彼女は瀟洒な椅子に腰かけ、まるで庭園でお茶を楽しむかのように優雅に寛いでいる。

傍らには護衛役である、ザラコスが尻尾を揺らして佇んでいた。


「魔族の姫君よ。本当にいいのか?あなたの大切な道化……じゃなかった、騎士様を粉々にしてしまっても?」


ガラフィドが視線を変えずに問う。彼の目には遠見の魔法が施されており、アドリアンの姿を捉えていた。

彼の脳裏にアドリアンの言葉が蘇る……。


『私めが中央の丘に登りましたらどうかその場所目掛けて魔法の砲撃を降らせてくださいませ。それが戦争を終わらせる平和の砲撃でございます』


意味が分からなかった。どうしてそれが戦争を終わらせることになるのか皆目見当も付かなかった。

しかし、彼はその奇妙な提案に乗った。乗りたくて乗った訳ではない。レオンからの手紙に書かれていた一文が、彼の背中を押したのだ。


『アドリアン殿の策が失敗した時こそ、援軍とシャヘライトをお送りしましょう』


出来の良い息子の意味不明な手紙に、彼は首を傾げるばかりだった。しかし、冷静に考えれば失敗したところで王国軍にデメリットはない。

だから渋々その案に乗ったのだ。

ガラフィドの言葉に対して、メーラは薄く微笑んで口を開く。


「えぇ。構いませんとも。私の騎士アドリアンは魔法砲撃如きでは掠り傷一つ負いませんので。まあ、傷つけば少しは謙虚になるかもしれませんけどね」


優美なドレスを身に纏った少女、メーラは余裕綽々の態度で答える。

彼女の傍らに立つザラコスもまた、メーラの意思に異議を挟むつもりはないようだ。

その堂々たる佇まいにガラフィドも、王国軍の副官たちも思わず気圧される。


(まだ幼い少女が戦場にいてこうも堂々としているとは……)


ガラフィドの心の中で、疑問が渦巻く。やはりこれは『王族』という生まれのせいなのだろうか。

それとも、彼女には何か特別な力があるのだろうか。


将兵の視線を一身に受けるメーラ。


──無論、これは演技である。


彼女の纏う王族然とした絢爛なドレスは、レオンの屋敷から借り受けたもの。メーラの言葉も、ただの虚勢にすぎない。

メーラとて本当はこんなことをしたくはない。実際、華やかなドレスの下では、彼女の脚が止まらないほど震えていた。心臓は、まるで檻から逃げ出そうとする小鳥のように激しく鼓動している。

だが、これは必要なことなのだ。『策』を成功させるためには……。


(だ、大丈夫……私は……『王女様』なんだから……)


これも全てはアドリアンの為──。無能な自分が彼の役に立とうとすれば、この程度の『演技』は当たり前だ。

しかし、メーラの限界はもう目前に迫っていた。……いや、もうすでに膝の震えは隠し切れないほどになっている。


「メーラ『姫』」


ザラコスの大きな手が触れたことでメーラの肩がビクリと跳ねる。


「貴女様は、無敵の魔力を持つ魔族の姫。退屈で膝が震えているのでしょうな。さぞかし、この愚かな人間どもの戦いなど、蟻の争いのように思えることでしょう。もう少々ご辛抱を。じきに……喜劇が幕を開けますゆえ」


その言葉はまるで魔法のようにメーラの震えを和らげた。まるで祖父が孫娘をなだめるかのような優しさに満ちていた。


「あまりに退屈ならば、皇国のドラゴンを招待しましょうか?彼らが空を舞い、地上を焼き払う光景は、退屈しのぎには丁度良いでしょう。人間どもの悲鳴をバックコーラスに、お茶でも飲みながら観劇といきましょうか」


ドラゴン。その一言で、周囲の空気が一変する。

将たちの顔には、生々しい恐怖の色が浮かんでいた。彼らの脳裏に、ドラゴンの姿が鮮明に浮かぶ。鋼鉄をも溶かす鱗、魂すら焼き尽くす炎息。人智を超えた存在、武の頂点に立つ生き物。人間など、その爪の先ほどにも及ばない。

ガラフィドの表情が硬くなる。彼はザラコスが皇国の騎士団長という肩書を持つことを知っている。

だからこそ、その言葉が単なる戯言ではないことを悟った。


「……ザラコスどの。ドラコニア皇国も、このエルム平野に興味がおありで?まさか、我々の小さな喧嘩を観戦に来るとでも?」

「いやいや、ご安心を。皇国は、このような……うむ、何と表現すべきか……『特徴のない』平野には全く興味がありませぬ」


その言葉に、一瞬ホッとした表情を見せる将兵たち。しかしザラコスの次の言葉で、彼らの顔は再び、恐怖に歪む。


「ただまあ、散歩ならぬ、『散飛』コースとしては、貴き御方たちの興味を惹いているかもしれませぬな。ご存知の通り、皇国の貴竜様は退屈を何よりも嫌いますので。この……なんとも『刺激的な』光景は、彼らの気晴らしにはもってこいかもしれません」


メーラの表情がほんの少し和らいだ。ザラコスの冗談が彼女の緊張を解きほぐしたようだ。

彼女はかすかな微笑みを浮かべながら、少し強がりを込めて言った。


「皇国の方々をこのお茶会にお呼びするのはやめておきましょう。私は焼け野原でも優雅に過ごせますが、人間の皆様は骨まで真っ黒になって、さぞかし美しくないでしょうからね」


恐ろしいことを宣うリザードマンと日常会話でも繰り広げるようなメーラを目の当たりにして、王国の将兵たちは彼女を畏怖と敬意を込めた瞳で見つめる。

メーラの立ち振る舞い、そして皇国の重鎮と気軽に会話を交わす様子。それらは全て、彼女の高貴な身分を物語っているように見えた。


(アド……どうか無事でいて)


彼女はただ祈ることしかできない。

しかしアドリアンを信じているからこそ、『策』の成功を確信している。


「そろそろ始まるぞ」


その瞬間、王国軍の陣地から眩い光が一斉に放たれた。何百もの魔法の光が空を彩る。それはまるで、星々が地上に降り注ぐかのような光景だった。

光は王国軍陣地の上空で一点に集まり、巨大な光球を形成する。そして、その光球が砕け散るように、眩い光の雨となってアドリアンのいる丘へと降り注いだ。


視界が白く染まる。まるで太陽を直視するかのような眩さに、誰もが思わず目を細めた。


死を齎す、魔法砲撃が丘に、アドリアンに降り注ぐ──。


メーラの心臓が高鳴る。彼女の手は、知らず知らずのうちにドレスの裾を強く握りしめていた。


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