エルム平野。
人間の国アルヴェリア王国とドワーフの国グロムガルド帝国の境界線に位置する平野だ。
肥沃な大地が広がり、広大な穀倉地帯である筈のそこは、黄金色の穂波の代わりに鎧や武器の金属的な輝きが広がっている。
王国の軍旗と帝国の旗印が睨み合うように翻り、両軍の陣地には重武装の兵士が整然と並び、開戦の時を待っていた。
時折、両陣営から怒号が飛び交う。しかし、それも空しく平野に吸い込まれていくだけだった。
「閣下!ドワーフどもの要塞が日に日に数を増しております!このままでは……」
王国の陣地に張られた大きな幕舎の中でそんな声が響く。
中央に立つ堂々とした体格の男性が、ゆっくりと振り返った。
「ちっ……奴ら、要塞作りだけは一流だからな。穴掘りと酒飲みに専念してくれりゃ、こっちも楽なんだが」
ランドヴァール侯爵。集結してきた王国軍を束ねる、実質的な最高権力者である。
髭を蓄えた、いかにも武人然とした風貌。その鋭い眼光が、幕舎を照らす炎に反射してぎらりと光る。
「このままでは、エルム平野の覇権は奴らに奪われますぞ!」
「分かっている。だが兵力はこちらの方が上だ。援軍が到着次第、一気に攻勢をかける」
当初は小規模な軍同士の小競り合い。互いに悪態をつきながらも、まるで日課のような平穏な戦いだった。
ところが、どこぞの見栄っ張り貴族が余計な援軍を送り込んできたばかりに、状況は一気に泥沼化。
王国の軍勢が増えれば帝国も負けじと兵を送る。帝国が軍を増やせば王国もさらに兵を集める。まるで子供の高さ比べのような、果てしない軍拡競争。
今や両軍とも万を超える大軍が、息苦しいほどに平野に押し寄せている。
「くそっ、こんな大規模な戦になるなんて聞いてねぇぞ。東部だけじゃなく、北部や西部のお高くとまった連中までまるで祭りにでも来たみてぇに押し寄せてきやがった!一体どうなってんだ!」
「閣下……落ち着いてください。全軍の士気に関わりますぞ」
側に控えていた騎士が、そう言いながらそっとガラフィドの手を押さえる。
侯爵は深いため息をついて、目の前の水入れを呷った。
一気に水を飲み干すと、突然閃いたように言い出した。
「よし、こうなりゃ俺が最前線で……」
「「閣下!」」
その言葉が完結する前に、副官たちが一斉に叫んだ。まるで子供の悪戯を止める親のように、ガラフィドの言葉を遮ったのだ。
側近たちは、この侯爵が戦場で暴れたがる大型犬のような無謀な男だとよく知っている。そしてその度に止めに入るのだ。
「どうかご自重ください。閣下に何かあれば王国の存亡に関わります」
「貴方様は後方で悠然と佇むだけで良いのです」
側近達が口々に彼を諫める。ガラフィドは諦めたように手を振り、椅子に座りなおした。
「冗談、冗談だよ……」
彼とて世間知らずの馬鹿ではない。自らの立場をよく理解しているし、ランドヴァールという名門の当主が前線で暴れまわるような真似をすべきではないことも十分承知している。
だからこそ彼は理性という手綱を両手でしっかりと握り締める。まるで荒馬を御するかのように、湧き上がる闘争心という感情を必死に抑え込むのだ。
「とにかくだ。帝国にも続々と援軍が来てんだ。ランドヴァールの予備兵と、追加のシャヘライトが到着したら、魔導士たちに魔法爆撃を……」
ガラフィドがそう言い掛けたその時だった。
一人の伝令兵が幕舎へと駆け込んできた。
「閣下!レオン様からの御援軍が到着されました!」
「おぉっ!来たか!どれどれ、兵は何人だ?シャヘライトは荷車何台分持ってきた?」
待ちに待った援軍の到着だ。これで戦況は一気に優位になる筈……彼はそう考えていた。
だが、伝令兵の困惑した顔と、そしてその次に放った一言がガラフィドの期待を裏切った。
「その……それが、援軍と言いますか、物資と言いますか……それら全てを合わせて、一人というか……いや、二人の人間と一匹と言うべきか」
ランドヴァール侯爵は怪訝な顔をする。一体どういうことだろうか。
伝令がしどろもどろに続ける。
「その、つまり」
「――つまり英雄が一人とお姫様、そして怖いトカゲさんが一匹ということですよ、閣下。まあ、トカゲさんは私が勝手にそう呼んでるだけですが」
伝令の声を遮るように。幕舎の入り口から、涼しげな声が響き渡った。
幕舎の入り口には一人の青年が立っていた。漆黒の髪と瞳。星を纏ったかのような絢爛な外套を身に纏い、すらりとした長身に精悍な顔立ちを晒している。
その姿は、まるで絵本から抜け出してきたような貴公子然としていた。
「なんだ貴様!ここは侯爵閣下の幕舎だぞ!何者だ!」
「あぁ、これは失礼」
副官の激昂に青年は軽く手を上げ、そして優雅に一礼する。
「私はアドリアン。とある姫を守る一介の騎士でございます。またの名を戦争を終わらせる英雄、とでも申しましょうか。趣味は軽口と世界平和です」
青年は、まるで日常会話でもするかのように爽やかな笑みを浮かべ、言葉を紡いでいく。
「いやはや、紛争地帯とは聞いていましたが実に壮観ですね。重装備で馬に同情したくなる王国重装騎兵と、平和な時には高価な置物にしかならない帝国魔導機械兵が、仲良く睨み合っているんですから。まるで子供の喧嘩を大人が真似しているみたいですな」
「……おい、貴様」
そんな青年にランドヴァール侯爵は訝しげな視線を向ける。
「何者だ。援軍はどうした」
ガラフィドの圧に怯みもせず、アドリアンがパチンと指を鳴らした。その瞬間、空中から封書がポンと現れた。
それは侯爵の目の前で見えない糸に吊るされたかのようにくるくると回転し、床に落ちることなく宙に浮いている。
「こちらは貴方様の御子息、レオン様からのラブレターならぬ親子レターです。どうぞ、ご査収ください」
「……なに?」
ガラフィドは訝しげにそれを手に取り封を切ると、中を改めた。
そして、その口元が歪み、手紙を持つ手がわなわなと震えた。
「馬鹿な……ふざけているのかあいつは……」
手紙を読み終えたガラフィドは怒りのあまりぶるぶると震えながら、アドリアンを睨みつける。
「おい貴様。これは一体どういうことだ?」
「どういうこともなにも、書いてある通りですよ、侯爵閣下。レオン卿の字が汚くて読めないのであれば、私が読み上げましょうか?」
アドリアンは涼しげな顔で肩を竦める。そして何が何やら分からないであろう周囲の者達に、懇切丁寧に説明した。
「そう、私こそが援軍。王国も帝国もなく、無辜の人々を戦火から守る英雄の援軍でございます。つまり、両陣営の誰もが望んでいない、この馬鹿げた戦争を終わらせに来たわけです」
アドリアンの声が幕舎内に響き渡った。
♢ ♢ ♢
アドリアンは目の前で怒り心頭のガラフィドを見て、まるで昔の絵画を眺めるかのように懐かしそうに目を細めた。
(あぁ懐かしい。この顔、この反応……ランドヴァール侯爵ガラフィド。短気だけど義理人情に厚い男。侯爵というよりは庶民的な、さっぱりとした性格の男だ)
アドリアンは彼の反応を待った。
(さて、彼はどう出るかな?きっと、昔のように激昂して殴りかかってくるはず)
アドリアンは拳を軽く握り、まるで友人からの軽いパンチを受け止める準備をするかのように身構えた。
しかし……。
「……」
ガラフィドは深い溜息を吐き、椅子に深く腰掛けた。
「アドリアンとやら、お前も分かっているだろう?今の状況は最悪だ。両陣営の兵が、もう既に万を超える軍勢となっている。この戦争は最早止められん。冗談を言っている場合ではないのだ」
予想外の反応にアドリアンは拍子抜けする。
(一体全体どうしてしまったんだ、この侯爵もどきは。こういう時は怒りに任せて殴りかかってくるはずなのに……)
ガラフィドの冷静な分析と理知的な態度に、アドリアンは思わず目を見開いた。その姿は、かつての熱血漢とはかけ離れていた。
(状況を細かく分析し、冗談を言うべき場面ではないと理解し、理知的な反応を見せる……。似合わない髭まで生やして、まるで本物の将軍じゃないか。……あぁ、本物か)
アドリアンの心の中で、懐かしい記憶と目の前の現実が重なり、そしてずれていく。
確かに目の前の男はガラフィドだ。しかし、同時に彼ではないようにも感じられた。
まるで古い絵画が風に飛ばされていくような寂しさが忍び寄る。彼の表情に、ほんの一瞬、哀愁の色が浮かんだ。
アドリアンは軽く咳払いをし、その複雑な感情を押し殺して答えた。
「えぇ、存じておりますよ。兵士たちも考えてるでしょうね。『俺たち、なんでこんな所で泥まみれになってるんだ?』ってね。もしかしたら、貴方がた偉い方々も、鏡を見ながらそう思ってるかもしれませんが」
「ならば何故来た?軽口を叩く道化なら、宮廷に十人や二十人いるぞ」
「私は確かに道化ですが、そこらの安物とは違いますよ。特別製、高級品です」
アドリアンは微笑を浮かべる。彼はその道化の面を、まるで本物の仮面のように外さない。
「言ったはずです。戦争を終わらせに来たと。貴方たちが机で唸るより遥かに早く、ね。まぁ、髭を撫でる時間の半分もかからないでしょう」
「ならば聞こう、貴様はどうやって戦争を終わらせる?」
その質問にアドリアンはニヤリと笑う。
「その質問にお答えする前に、我が主をご紹介しましょう。ここにいる『お偉いさん』の誰よりも偉い、姫君をね。彼女の前では貴方がたも、ただのお付きの小姓くらいにしか見えなくなるのでご注意を」
そう言って彼は「さぁ!」と手を広げ、幕舎の入り口に向かって声を掛けた。
「さぁ!姫様のご登場です!皆様方、どうぞ盛大な拍手を!おや?誰も拍手してくれないんですか?あぁ、驚きのあまり手が動かないんですね」
幕舎の入り口から、柔らかな風と共に一人の少女が姿を現した。その瞬間、幕舎内の空気が一変する。
彼女は深い青色のドレスを纏っていた。その生地は、まるで夜空を切り取ったかのように星屑をちりばめたように輝いている。
しかし、姫の威厳を更に際立たせていたのは、彼女の背後に控える巨躯のリザードマンの存在だった。その姿は、幕舎の天井近くまで届きそうな高さで、鱗に覆われた身体は松明の光を反射し煌めいている。
「こちらが我が主、メーラ姫です。ちなみに、彼女の怖い顔は今のところ45点くらいです。満点まであと少しですね、姫さま。後ろのトカゲさんは100点満点ですけど」
まるで時が止まったかのように、誰もが息を呑んだ。側近たちの額には小さな汗が浮かび、その目は姫と侯爵の間を行ったり来たりしている。
メーラはアドリアンの軽口を無視するかのように一歩前に進み、口を開いた。
「──私はメーラ。魔族の国の王女です」
その声は、清らかな鈴の音のようでありながら、幕舎全体に響き渡る力強さを持っていた。
「この無意味な戦争を終わらせるために参りました。皆様、お茶でも飲みながら、和平交渉でもいたしましょう」
メーラの紫色の眼が、幕舎内の人々を見渡す。その瞳には、年齢不相応な鋭さと知性が宿っていた。
「……あら、お茶の用意はまだでしたか?アドリアン、準備が不十分ですね」
「申し訳ありません、姫様。次回からは戦場にもお茶セットを持参いたします。ラベンダーティーとスコーンセットでよろしいでしょうか?」
姫の視線がアドリアンに向けられる。その瞳に、かすかな震えが宿っているのは、この場にいる誰にも気づかれなかった。
「……」
ガラフィドの口は半開きになったまま、側近たちは互いの顔を見合わせ、困惑の色を隠せない。
重苦しい沈黙が幕舎を支配する中、メーラの姿だけが、まるで別世界から来たかのように輝いていた。彼女の周りだけ、時間が止まっているかのようだ。
そしてその沈黙を破るように、アドリアンが再び口を開いた。
「さて、紳士の皆様。この戦争を終わらせる方法について、お話いたしましょうか」