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第二十五話

ぐらり、とカイの身体が揺れる。


「──え?」


何が起きたのか、わからなかった。ただ、カイが自分を庇った事だけは解る。

鮮血が、地面を濡らす。アカネの目には無残な弟の姿が映っていた。


「ギィィ!」


間髪入れず、アカネに迫る闇の存在シャドリオス。その存在は今しがたカイを襲った鋭い爪を、そのままアカネへと向けた。

不可避の一撃に、アカネの体が硬直する。

──避けられない。

だが、それは背後から来た何者かによって妨げられた。


「……」


アドリアンである。彼は無言で、だが怒りを込めた瞳をシャドリオスに向けている。

アドリアンが右手を翳す。それだけでシャドリオスの腕が白い炎に包まれて一瞬で消滅した。


「ギイイイイイィィィッ!!」


そして今度は横一閃に腕を振るうと、それに合わせてシャドリオスの身体がバラバラに弾け飛んだ。

シャドリオスは断末魔すら上げられず、そのまま黒い霧となって消滅した。

アカネは呆然とその光景を見ていた。しかしアドリアンがカイに駆け寄るのを見て、ようやく我を取り戻す。


「カイ!」


カイの首には深く抉れた傷。そこから止めどなく血が流れ出している。

アカネの戦士としての勘と経験が冷酷な現実を告げた。カイはもう助からない、と。


「何故私を庇った!私を、恨んでいるのではないのか!」


アカネの慟哭が木霊する。カイは薄く目を開き、アカネを見た。

その瞳は冷酷な奴隷商人のものではなく、かつて草原で見た弟のものであった。


「姉、さん……ごめん……」

「何故だ!何故お前が謝る!謝るべきは私の方だ!私はお前に酷い事をした!なのに、どうして!」

「本当は、恨んで……なんかなかったよ……僕は、嘘吐きだから……」


アカネの目から涙が零れた。それは彼の頬へと伝う。


あぁ、どうして。何故こうも上手くいかないのだろう。

ようやく弟の居場所が分かったというのに、ようやく弟に出会えたというのに。

そして、ようやく彼の本心が聞けたというのに。どうして、彼が死ななければならないのだろうか。


「嘘吐きは、私だ。お前を戦に出させないようにしたいばかりに、辛く当たって、お前を傷つけた。私は、なんて愚かな姉なんだ……」


アカネは涙を流しながら弟の身体を抱き、そして謝った。

弟を抱きしめた。強く、強く。もう二度と離さないように、力強く抱きしめた。


「帰ろう、大草原に……」

「この耳と……尻尾じゃ、笑われちゃう……よ。だから、帰れない……」

「お前を笑う奴は、私が黙らせる。お前は私が守ってやる。だから、一緒に帰ろう……」


カイはアカネの言葉には応えなかった。もう口を動かせないのだろう。

もう、それだけで十分だった。彼の想いは十分に伝わったのだから。


遥か彼方の大草原。カイの脳裏にはかつて見た光景が広がっていた。

大草原の雄大な光景と、頬を撫でる風の感触。

昔は嫌で嫌で仕方がなかった。でも今は、それがどうしようもなく懐かしい。


不意にカイのキツネ耳が、ピクリと動いた。


アカネの他に、誰かがいる。

けれどもう首を動かす事すら出来ない。彼は最後の力を振り絞って、声を発した。


「ごめん……なさい……」


それは誰に対しての言葉だったのか。それはカイ自身にも分からなかった。


「──守れたじゃないか」


優し気な、声が聞こえる。それは、今まで殺し合っていた男の……アドリアンの声だった。


「キミは他人の命を救ったんだ。それはどんなことよりも尊くて、素晴らしいことだ」


アドリアンがカイの身体に優しく手を置く。

とても暖かくて、とても優しい手だった。


「それを、『英雄』って言うんだ。例え弱者であろうとも、誰かを救える存在が、『英雄』になるんだよ」


あぁ、なんだろう。彼の言葉を聞いていると、とても懐かしい気持ちになる。

カイは強烈な眠気の中、アドリアンの言葉を聞いていた。

そして、そのまま眠気に身を委ねようとして──





「──でも、俺はハッピーエンドが大好きな男でね。誰かが犠牲になって得た幸せなんて、クソ喰らえなんだ」


アドリアンは、そう告げた。

横にいるアカネがその言葉に反応出来ずにいると、彼は微笑んでウインクをした。


「俺がいる限り、悲劇なんて起こさせやしない。絶対にね」

「何を……言って──」


アカネの疑問に答えず、アドリアンは立ち上がった。

そして聴衆たちに聞こえるように、メーラに叫んだ。


「さぁ、姫さま!この身を挺して姉を救ったキツネの青年に、ご慈悲を!」

「──え?」



♢   ♢   ♢




メーラは戸惑っていた。突如、アドリアンから告げられた言葉に。

慈悲とは、一体なんなのだろうか。


「……」


メーラにはアドリアンの言いたい事が分からなかった。

だけど何故だろう。自身がするべきことは、はっきりと分かってしまう。

不思議な感覚だった。直感のように、心の奥底から湧き上がってくる確信。


ゆっくりと、メーラはカイの方に歩み寄る。


群衆たちは戸惑いを隠せない。何をするつもりなのかと。『慈悲』とは一体なんなのだろうか、と。

視線が集まる中、彼女はゆっくりとアドリアンの元へと向かう。


「さぁ姫。貴女の御力で、この青年に救いを。貴女さまが持つその『慈悲』で」


アドリアンがメーラの手を取り、横たわるカイの身体へと導いた。


「姫様のご慈悲は、救いを求める者の為にある!さぁ、メーラ姫の奇跡をご覧あれ!」


アドリアンとメーラの手から、淡い光が溢れる。

それはカイの身体を優しく包み込むと、その傷を癒し始めた。


「これは……治癒魔法?」


アカネが茫然と呟く。

治癒魔法。特段珍しくもない魔法だが、せいぜいが血を止める程度の効果しか持たない。

だからカイのような重傷を負った者に効く治癒魔法など、存在するはずがないのだ。


──しかし。


「お、おい……見ろ!」

「傷が、治って行く!あの傷だぞ!?」


観衆の中からそんな声が聞こえる。その声には驚愕と歓喜が混じっていた。

光に呼応するかのように、横たわるカイの身体が再生を始めたのだ。


「──」


勿論、この治癒魔法はメーラのものではない。アドリアンが、メーラを介して治癒魔法をかけているだけだ。

メーラは自分の手から溢れ出る光を見つめていた。その光は、アドリアンの魔力が形となったものだ。

周囲のざわめきが遠くに聞こえる中、彼女はその光に意識を集中させていた。


暖かい。暖かくて、とても優しい光だ。


メーラの心に、不思議な感覚が広がっていく。この光の中に、彼女は何か懐かしいものを感じていた。

この暖かさを、私は知っている?

そうだ、これは……。


「う……」


カイが、ゆっくりと瞼を開いた。

抉られた首も元通りになっている。それだけではない。なんと無くなった筈のキツネ耳も、ボロボロに爛れていたキツネの尻尾も、何事も無かったかのように修復されていた。

懐かしいキツネ耳。フォクシアラの、美しい毛並みの尻尾……。


「耳が……尻尾が……治った……!?」


まさに『奇跡』。メーラの起こした『慈悲』は、カイを死の淵から救い出すだけではなく、彼の誇りすら治して見せたのだ。


「あぁ、カイ……カイ!」

「姉、さん……?」


アカネが涙を流しながら、カイに呼びかける。

彼は自身に起きた奇跡に戸惑いながらも、アドリアンとメーラを見た。

そして、アドリアンは優しく微笑んでいた。まるで、全てが予定通りであるかのように。


「あの傷を治すだなんて、奇跡だ!」

「あぁ、信じられねぇ!」


皆が皆、口々にメーラの力を讃える。彼らには最早、何の疑問も懸念も無かった。ただ単純に彼女が起こした『奇蹟』に心奪われたのだ。

それはまさしく英雄の所業であった。メーラが……魔族の姫が奇跡を起こすという所業をまさにアドリアンは演出してみせたのである。

拍手喝采の中、カイは冷静にその光景を見ていた。今まさにメーラによって救われた彼だが、治癒魔法を放ったのはアドリアンだと理解していたし、聡い彼はアドリアンの思惑も解っていた。


「どうして、僕を助けたのですか」


今まで殺し合っていた相手……しかも、周囲に被害をもたらした悪党である自分を何故助けたのか。

カイのそんな疑問に、アドリアンは微笑みながら答えた。


「俺がキミを助けたんじゃない。キミの悪行を見かねた正義の女神様が、俺を使って天罰を下したんだ。その天罰が少しばかり優しかっただけだよ」

「優しい天罰、ね。貴方の拳が顔面に当たった時は、優しさが溢れすぎて気絶しそうでしたが」


アドリアンはニヤリと笑って、付け足した。


「総督殿、おめでとう。キミを悪の濁り川から救い上げたよ。さあ、今度は魔族や奴隷たちを救う正義の泥沼に飛び込む番だ。楽しみだろう?」


その言葉にカイはポカン、と口を開けた後、「ははっ」と笑った。


「……いいでしょう。僕は貴方に負け、救われた。今度は今までやってきたことを反対側からやってみるのも面白そうだ」


二人のそんなやり取りを、メーラは黙って見ていた。

どうして、殺し合っていた者同士が笑っていられるのか。

悔い改めようとしているカイと、そんな彼と笑い合うことの出来るアドリアン。

二人を見て、メーラの胸に暖かい何かが宿るのを感じた。


「……これが、『慈悲』……?」


彼女は自身の胸に手を当てながら、呟く。

決して悪い気分では無かった。むしろこの感情が心地よいとすら感じる。


「姉さん、僕はもう大丈夫だから」

「あぁ、そうか……そうか……」


アカネが涙を流しながら頷いた。

やがてアカネの涙が止まった後、姉弟は揃ってメーラを見る。


「魔族の姫よ。貴女は我々を救ってくれた。この恩に報いるために我々は貴女の為にこの命を使おう」


二人には分かっている。

メーラが魔族の姫ではないということを。全ては茶番だということを。

それでも二人はこの言葉を選んだ。命の恩人であるアドリアンがそれを望んでいるからだ。


「あっ……」


メーラはおろおろと周囲を見るも、誰もが彼女に感謝し、そして救いを求めるようにメーラに視線を向けていた。

──どうすればいい。何を言えばいい。

焦るメーラに、ふと昔の思い出が蘇ってきた。何処かでこんなことがあったような気がする。


『わたしはお姫さま役やるから、アドは騎士さまの役ね!』

『俺が騎士?はは、似合わないな』

『いいからやるの!アドはわたしの王子さまなんだから!……あれ?騎士だっけ?』


そうだ。これは幼い頃に孤児院でやったおままごとだ。

お姫様と騎士が出会い、そして最後は皆から祝福されながら結婚するという物語。


「わ、私は……」


メーラは考える。この物語の結末を。自分が言うべき言葉を。

昔読んだ物語の中の姫ならばこういう時に、何と言うのか。

メーラの瞳に光が灯った。それは彼女の心の在り方を表すかのようだった。


「──カイ、汝は確かに多くの罪を犯しました」


メーラの声が、群衆のざわめきを裂く。


「しかし」


その声は姫のように気高く、そして騎士のように雄々しかった。


「自らの命を賭して家族を庇ったその行動に、まだ救いの余地があります」


誰もがメーラに注目した。その気高く美しい姿に。


「カイ」


彼女はその名を告げた後、目を伏せる。

群衆たちは固唾を吞んで彼女を見ていた。そこに余計な言葉は無い。ただ彼女の言葉を待ち続けていたのだ。

彼女は伏せてた目を開き、カイを見つめた。


「これからは正しい道を歩み、二度と姉上の頬を涙で濡らすことのないよう、誓いなさい」

「はっ。魔族の姫に誓いましょう。二度と悪しき道には落ちず、弱者を救うと」

「よろしい。ではカイ、其方の罪を許しましょう。姉と共に、その生を全うするのです」


その宣言に、再び群衆から歓声が上がった。今日一番の歓声がメーラの鼓膜を叩く。

歓声の中、メーラは不安そうな瞳で隣にいたアドリアンを見る。

うまくやれただろうか。彼の理想通り、『慈悲深い姫』を演じられただろうか。

そんな不安を拭い去るかのように、彼はいつものように穏やかな笑みを浮かべてこちらを見ていた。


──良かった。私は上手くやれたみたいだ。


メーラは満足気に微笑んだ。

そんな彼女の髪に、優しい風が吹く。その風は懐かしい香りがしたような気がした。


メーラを中心に、人々の歓声と期待が渦を巻く。

カイとアカネは、かつての確執を忘れたかのように、メーラの前で頭と尻尾を垂れている。

月明かりの下、メーラの姿が神々しく輝いていた。


この瞬間、彼女は本当の意味で「王女」となったのだ──


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