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第二十四話

大草原のど真ん中。青空の下で、緑の絨毯の上。

キツネの尻尾が、ゆらゆらと揺れる。


「また泣いているのか、カイ」


突然、優しくも力強い声が響く。姉の声だった。

カイは泣いていた。

里の者たちから、お前はフォクシアラのキツネに相応しくないと、そう罵られ、石を投げつけられた。


「ぼくがもっと強かったら……キツネに生まれてこなければ……」


アカネはカイを抱き寄せた。

ふわりと、アカネの体温と懐かしい匂いがカイを包み込む。


「お前は弱い。だが、その弱さを隠そうとするな。強くあろうとすることを諦めようとするな」

「……」

「お前は弱くて、泣き虫で、臆病者かもしれない。それでも私は知っている。お前が賢いキツネだということを……」


アカネはカイの瞳を真っ直ぐに見つめながら言った。


「力が無くてもその賢い頭で、みんなを守るんだ。フォクシアラの武器は鋭い爪でも牙でもない。敵を翻弄する知恵だ。力など、ルミナヴォレンの連中に任せておけばいいのさ」

「お姉ちゃん……」


カイはまた泣き出しそうになり、アカネの胸に顔を埋めた。

そんなカイを、アカネは優しく撫でながら言う。


「お前は賢いキツネだ。力だけ強い私では、成し得ないことが出来るだろう」


アカネの声が優しく響く。彼女は一瞬言葉を切り、遠くを見つめるように言った。


「そしていつか……この大草原に平和をもたらすんだ」


アカネのその言葉はカイの心に深く刻まれた。そして同時に誓った。

姉のためにも、強くなろうと……。


──だけど。


「お前のような弱き者が戦場に立つべきではない。足手まといだ」


成人し、戦士となった頃。アカネはカイに冷たくそう言い放った。

どうして姉は変わってしまったんだ。自分は、知恵でみんなを守れると言ってくれたではないか

カイは、ただ悲しかった。

姉が変わってしまったことが。姉に否定されたことが。


そんなある日のことであった。


「あれは……人間の軍隊?」


大草原に広がるフォクシアラの領地に、まるで黒い蟻の行列のように人間の軍勢が押し寄せてきていた。

哨戒任務に就いていた彼は、いち早くこの脅威を察知した。


「早くみんなに知らせないと──」


カイが身を翻そうとした時、不意に彼の心の中でジワリと、黒いものが沸き起こった。

姉が変わってしまった今、自分にはもう居場所がない。

このまま里に居続けても、優秀な頭領の不出来な弟として惨めな思いをするだけだろう。


だったら……だったら、このまま遠くに行ってしまえばいい。


その考えが頭をよぎった瞬間、カイの身体が凍りついた。

風が彼の毛並みを撫で、まるで「行け」と囁いているかのようだった。


「……」


カイは心のままに、軍勢の居る方角へゆっくりと歩みを進めた。

そして、彼はそのまま捕えられ……奴隷となった。


人間の国は不思議だ。奴隷という惨めな身分を作り出しておきながら、奴隷出身の者も成り上がることが許されている。

普通ならば獣人などの種族は成り上がるチャンスなどない……だけど、奴隷出身ならば何故かチャンスが巡ってくる。

そこにあるのは、見下しの意識か、それとも新たな差別への期待か。


「うっ……うっ……」


獣人の貴族階級であるフォクシアラのカイの扱いは、想像を絶するほど過酷を極めた。

フォクシアラの戦力や、大草原の地理などを尋問され、悲惨な拷問を受けた。

それでもカイは耐えた。


かつては誇りだった柔らかな耳は、今や血に濡れ、形を失っていた。痛みは鈍く、しかし確実に彼の意識を蝕んでいく。

長く美しかった尻尾は今や、むごたらしい姿になっていた。それでも、カイは絶対に、情報だけは吐かなかった。

それはカイに残っていた、一筋の『誇り』だったのかもしれない。


意識が朦朧とし、感覚が麻痺する中で、彼の脳裏には大草原の光景が鮮やかに浮かんでいた。

広大な青空の下、風に揺れる草原。

姉の笑顔。日の光を浴びて輝く彼女の毛並み。カイの名を呼ぶ優しい声が、まるで目の前で聞こえているかのようだった。


「助けにきて……くれるかな」


乾いた唇から、かすかな言葉が零れた。自分でも気づかないうちに、そう呟いていた。その言葉に、カイは我に返った。

自分から捕まっておいて、助けを望むなんて、なんて図々しいのだろう。

カイは自分に呆れて、苦笑いを浮かべた。血に染まった唇が、かすかに歪む。


だけど……もし、来てくれるのならば……。


──謝りたい。

──ごめんねって言いたい。


その思いが、彼の喉元まで上がってきては、また沈んでいく。

耳も尻尾もみすぼらしい。切り刻まれた耳は今や形を失い、尻尾は生気を失っていた。

こんな尻尾はフォクシアラの恥だ。かつての誇り高き種族の面影は、もはやどこにも見当たらない。


そんな小さな願いを抱きながら、数か月が経った。

日々は苛烈な拷問と、長く冷たい孤独の繰り返しだった。

彼の誇りが、日に日に薄れていくのを感じていた。


助けは、来なかった。


大草原の風の匂いも、アカネの笑顔も、もはや遠い記憶になっていた。

現実はただ、冷たく湿った石の感触と、腐敗した食事の匂いだけ。


「……あは」


カイは笑った。笑って、泣いた。

もう誰も、自分を助けに来ない。自分は用済みなのだ……と悟ったからだ。

復讐心が、彼の血管を流れる血液のように全身に広がっていく。


そうしてカイの心に、邪悪な決意が宿った時。

世界が一瞬静止したかのように感じた。

それと同時に、胸の中で何かが砕ける音がした。


「ふふっ……」


彼の目が開かれた時、そこにはもはや昔のカイの影はなかった。そこにいたのは、冷酷で計算高い、新たなカイだった。




♢   ♢   ♢




カイの視界には姉、アカネの背中。そして、掌から光の奔流を渦巻かせるアドリアンの姿。


「アカネ嬢、どうしたんだい」


アドリアンの声は、驚くほど穏やかだ。彼の顔には、いつもと変わらぬ微笑みが浮かんでいる。


「──こいつは愚か者だ」


ポツリと。しかし、アドリアンに聞こえるようにアカネは言った。


「他者を蹴落とし、弱者を虐げる……フォクシアラとして、いや、獣人として生きる価値もない」

「……」


アカネの消え入りそうな声が、さらに小さくなっていく。

そして、ついには膝を付き、地面に手をついた。


「──だが、私の弟なんだ」


アカネの頬を涙が伝う。その姿はとても弱々しく、気丈に振る舞っていた彼女からは想像もできない。

そこにあるのはただ純粋な、肉親を思う姉の心だけ。


「こいつを殺すなら、私も一緒に殺すがいい。こいつをこのような愚か者にしてしまったのは私なんだ」


カイはアカネの言葉を、身体を震わせながら聞いていた。


「……」


──何故、助けようとするのだ。何故、今更になって弟などと呼ぶのだ。


「カイ。お前は今の彼女の姿を見て、何を思う?」


アドリアンの冷たい視線がカイに突き刺さる。その目には哀れみが滲んでいた。


「……」


かつては遥か遠くにあると思っていた姉の背中が今は小さく震えている。

その姿は、カイの記憶の中の強くて誇り高い姉とは、あまりにもかけ離れていた。


だが何故。何故、今になって……。


「お前はアカネ嬢が来ることを事前に知っていたんだろう?騒ぎを聞きつけて来た時、あたかも偶然のように振舞っていたけれど」


アドリアンの掌から光の魔法が薄れていく。


「アカネ嬢が……姉が、自分を探しにこの市場へ来るという情報を聞いた時、お前はどう思った?勿論憎しみの気持ちもあっただろうけど、それ以外の気持ちもあったんじゃないのか?」

「……」


アドリアンの言葉で、カイの脳裏にその時の気持ちが蘇る。


『へぇ、あの女がここに来るって?どうやって僕の居場所を知ったか分からないけど……わざわざ殺されにくるだなんて馬鹿な女だ』

『……本当に、馬鹿だな。どうして、今更……』


怒りと、言いようのない不安と、そして僅かな期待。

カイは確かに、アカネがこの市場へ来ると知った時、そんな感情を抱いた。


「……」


不意に、アカネが地面に手を付きながら、呟くように言った。


「お前を、戦いに出したくなかった。戦いに向いていない、お前を……」


それはまるで懺悔のようで。

自らの罪を告白するかのように、アカネの言葉がカイの耳に届く。


「だが、フォクシアラ一族が戦いに出ない訳には行かぬ……だから、足手纏いと言い続ければ、周囲の者もお前を無理に戦に出そうとはしなくなると……」

「──」


姉の背には、もう『誇り』はなかった。あったのは惨めな弟を想う姉の優しさだけだ。


(あぁ、そうか)


彼女は。姉は、変わっていなかったのか。

最初から、自分を守ろうと、していたのか。


「はっ……ははっ……」


カイの口から笑いが零れた。もう、笑うしかなかったのだ。


「馬鹿だ……馬鹿だね。僕も、姉さんも……」


カイは呆然と呟く。その声に反応して、アドリアンが語りかけた。


「ようやく気付いたかい」

「……あぁ、自分が如何に道化のようなことをしていたか、ようやく理解した……」


カイの瞳から涙が零れた。その涙には様々な感情が込められているのだろう。

後悔と、怒りと、そして深い悲しみ。


「でも……もう、どうすればいいか分かんないよ」


カイは顔を歪ませながら笑う。その姿はまるで迷子になった幼子のようであった。

その様子を見たアドリアンは、ゆっくりとカイに近づく。


「悪い事をした時はなんて言えばいいか、賢いキミなら分かってるだろ?キミのしたことは簡単に許されることではないけど……それでも、誰にでもそれを言う権利はあるんだ」


アドリアンの手がカイの頭にそっと置かれる。


「『ごめんなさい』だ。」


それはあまりにも単純で、それでいて複雑な感情を含んだ謝罪の言葉。

だが、今のカイにはそれがとても尊いものに感じられた。


「……ごめん……な……さ……」


カイの口から、彼の本心が零れ出ようとした。


──その時である。


「ぐっ……!?」


カイの喉から、苦痛に満ちた声が漏れる。まるで、カイの身体を蝕むかのように。闇は激しく蠢き出した。


「がっ……がぁっ!?」

「カイ!?」


アカネの悲痛な叫び声が響く。彼女が駆け寄り、その身体を抱きしめる。

だが、闇は止まらない。むしろ、アカネの存在に反応するかのように、さらに激しく蠢き始めた。


「カイ!!しっかりしろ!カイ!!」


アカネの必死の叫びも虚しく、闇はどんどん大きくなっていった。

その漆黒の塊が、カイの体を包み込んでいく。アカネの手から、カイの体温が急速に奪われていくのを感じる。

やがて闇の奔流となったソレは、カイの身体を這いずるように、カイの身体から噴出し……。


「あああああああっ!!」


カイの絶叫が空間を震わせる。その叫びには、痛みと恐怖、そして何か別のものが混ざっていた。


闇は天高く飛び上がった。

まるで生命を持つかのように、その塊は空中で蠢き、形を変える。そして、ゆっくりと地面に降り立つ。

地面に触れた瞬間、闇は激しく脈動し始めた。それは人の形を成そうと蠢いている。


「ギ……ギギ……」

「こいつは……!?」


アドリアンは驚愕に目を見開く。

──シャドリオス。人に仇名す、世界の敵。

何故、カイの身体からシャドリオスが現れるのだ? アドリアンの疑問は、すぐに解消された。


(強化薬……!)


あの時感じた違和感。全てが繋がった。


「ギ……ギイイイイッ!!」


人の形を成しつつあるソレから、おぞましい雄叫びが上がる。

そして、その存在の注意が向けられる。ソレは近くにいる人物……アカネを視界に捉えた。

その瞬間、時間が止まったかのように感じられた。


「──」


油断しきっていたアカネは、呆気にとられたままソレを見つめていた。

彼女の視界が、鋭く光る闇の爪を捉える。

もう、避けられない。頭部に迫る爪が、アカネの頭を砕こうとした瞬間。


「姉さん!」


ドン、と。


鈍い音が響く。アカネの身体が誰かに突き飛ばされた。


アカネは尻餅をつき、呆然と見上げる。彼女の頬に、温かいものが降りかかる。

それが何なのか、理解するまでに少し時間がかかった。


彼女の視界に入ったのは。


首を抉られ、鮮血を吹き出す弟の姿であった──。


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