獣人にとって自らの耳と尻尾は命の次に大切なもの。
毛並みの良さこそが彼らにとっての美しさであり誇りなのだ。
しかし、目の前の光景はその誇りを無残にも踏みにじるものだった。
「カイ、お前……」
アカネの震える声が静寂を切り裂くように響く。
キツネ耳があるはずの場所には、今や千切られ焼け爛れた耳の残骸しかない。
かつては優雅に揺れていたはずの尻尾は、今やボロボロになり、力なくぶら下がっているだけだ。
「僕はね」
カイが、ポツリと呟いた。
「攫われてから、フォクシアラの一族の情報を吐かされる為にありとあらゆる拷問をされたよ。耳は切断され、尻尾は焼かれ、身体は切り刻まれて……それでも情報を吐かなかった」
「……」
「姉や一族が助けにきてくれる……その一心で、拷問を耐え続けた」
カイの声が震える。それは恐怖からではなく……怒りである。
金色の瞳に宿るのは、爛々とした怒りの炎だった。
「でも、助けはこなかった」
「……っ!」
「その時だよ……誇りなどというものが、なんの役にも立たないと知ったのは」
カイの尻尾が振り子のように揺れる。
「壮絶な拷問を耐えきり……僕は隙を見て逃げ出した。哀れなキツネは、その時にこの世界で成り上がって仕返ししてやろうと思ったのさ」
その言葉には、嘗ての少年の面影はもはや残っていなかった。そこにあるのは、苦痛と絶望が生み出した新たな存在──復讐に燃える冷酷な獣だった。
カイは手を掲げ、パチンと指を鳴らす。
すると、大量の衛兵たちが何処からともなく現れ、アドリアンとアカネを囲むように立ち塞がった。
「この世界はね。獣人も人間も関係ない、金さえ稼げるのであれば僕のような奴隷あがりの獣人でも成り上がれる素晴らしい世界さ。これこそがまさに平等だ。なぁ、キミたち?」
カイの問いかけに、奴隷商人たちが即座に反応する。彼らの目は金銭欲に濁り、卑屈な笑みを浮かべている。
「はい、カイ様には儲けさせていただいておりますのでねぇ。獣人だろうが元奴隷だろうが、知ったこっちゃありませんよ」
「カイ様に逆らうとは馬鹿なやつらよ」
奴隷商人たちは競うようにカイに媚びへつらい、ヘコヘコと頭を下げた。
その間にも衛兵たちは着々と数を増やし続ける。鎧をまとった彼らの姿が月明かりに不気味に輝きアカネたちを取り囲む輪は、どんどん狭まっていく。
「アド……」
「ア、アドリアンどの……!」
メーラは怯えた表情を浮かべアドリアンにしがみつき、レオンも仮面の下で顔を真っ青にして震えていた。
そんな二人を安心させるように、アドリアンは優しく微笑み、彼女たちを守るように、一歩前へ出る。
「なるほど、どうやらカイ殿には壮絶な過去があるようだ。奴隷にされ、拷問を受ける……それは確かに耐えがたい苦痛だっただろう……」
「ほう?」
アドリアンの口からそのような言葉が出てくるとは思っていなかったのか、カイは興味深そうに呟いた。
対してアカネは耳と尻尾をシュンと項垂れさせていた。カイの受けた苦痛を理解したのだろう、悲し気に顔を伏せるだけだ。
「そうだ、僕にはその権利がある。僕はかつての弱いキツネではない。金も地位も力もある、総督カイだ!」
カイはそう叫ぶと、アドリアンに向かって手を掲げる。
「さぁ行けお前達!王族を自称する魔族も、その護衛も、フォクシアラの女も……平等な世界の秩序を乱す愚か者を捕らえるんだ!」
「「はっ!!」」
衛兵たちが一斉に剣を抜く音が、金属音の交響曲のように響き渡る。その切っ先は月明かりに輝き、アドリアンとアカネに向けられる。
「さて、諸君。今日の舞踏会を始めようか」
アドリアンは迫りくる剣を踊るように避け、そのまま流れるように手近な敵の懐に飛び込み、拳を腹部に打ち込む。
「ぐふっ!」
くぐもった声を上げて崩れ落ちる衛兵。その身体が地面へ落ちる前に、アドリアンは素早く次の敵へと狙いを定める。
舞踏会で踊るような優雅さと、実践で磨かれた無駄のない身のこなしが衛兵を翻弄する。
殺到する剣も、魔法も、アドリアンには決して届かない。
「な、なんだコイツ……!?」
「動きが速すぎる!」
アドリアンの拳が、蹴りが、敵を一人また一人と戦闘不能にしていく。
その圧倒的な強さはまさに舞踏のように優雅で美しく、しかし同時に無慈悲な死神の鎌のように容赦がなかった。
メーラも、レオンも、カイも……奴隷商人や民衆も、この場にいる全ての者たちがアドリアンの圧倒的な戦闘力に慄いていた。
恐ろしいほどの戦闘力でありながら、どこか茶目っ気のあるアドリアンの姿に、民衆はざわめき始める。
「く、くそっ!あの男は後にしろ!先に他のやつから狙うんだ!」
アドリアンに敵わないと悟ったのか、衛兵が慌てて指示を飛ばす。
その声で衛兵たちが一斉にアカネやレオン、そしてメーラに襲いかかってきた。
「──っ!」
当然ながらメーラもレオンも戦闘経験などない。迫りくる鎧の兵士に身を竦ませ、恐怖で動けなくなってしまう。
アカネは月光に照らされた姿で、メーラとレオンの前に立ちはだかった。彼女の金色の瞳が闇夜に輝き、尾が優美に揺れる。
「はっ!!」
衛兵たちがアカネに襲いかかるが、彼女の動きは幻想的な舞のようだった。
剣を躱す度に、彼女の長い髪が月光を反射して銀色に輝く。アカネの反撃は素早く華麗で、衛兵たちは次々と倒れていく。
「弱者を狙うとは卑怯千万……まずは私から倒してみろ!」
「おや、キツネさんの舞踊ショーが始まったようだね!みんな、よく見ておくんだ。こんな素敵な踊りは滅多に見られないぞ!」
アドリアンとアカネによる夜の市場の中で壮大なる舞踏。
目にも止まらぬ速さでアカネが動き、衛兵を薙ぎ倒し、アドリアンは軽やかに舞うように衛兵たちを蹴散らしていく。
その姿はまるで歌劇の一幕のようで、群衆たちは彼らから目が離せない。
そうしているうちにあっという間に衛兵は最後の一人になったようだ。
最後の一人が震える手で剣を構える。アドリアンはゆっくりとその衛兵に近づき、にっこりと笑う。
衛兵が恐る恐る剣を振り下ろすが、アドリアンはその手首を軽くタップするだけで剣を落とさせる。
ガランと剣が落ちた音が一際大きく響き、その直後に静寂が広場を包んだ。
「みんな、ご清聴ありがとう!次の公演は……いつだろうね、分からないな」
「……」
そう言ってハハッと笑うアドリアンと、つまらなさそうにするアカネ。二人の足元には戦闘不能になった衛兵たちが転がっている。
一瞬の静寂……そして。
「う、うおお!!すげぇ、なんだこれ」
「魔法だけじゃなくて、肉弾戦も強いとか!もうなんでもありじゃねぇか!」
「あの獣人も、か……かっこいい……」
アドリアンはまるで舞台の主役のように振る舞っていた。
彼は照れくさそうに頭を掻きながらも、堂々と民衆に向かって手を振その姿は、まさに英雄そのものだ。
「こりゃ予想以上の反応だ。奴隷市場なんかより、ここを舞踏会場に変えてはどうだろうか、カイ殿?」
アドリアンは、そう言ってカイに向き直る。彼は目を細め、衛兵とアドリアンの華麗なる戦いを無言で見つめていた。
「成程。自称『英雄』というのはハッタリではなさそうだ。この人数の衛兵を一瞬にして戦闘不能に陥らせるとは」
カイの声は冷ややかで、その目には警戒の色が宿っている。
「それほどの強さをお持ちならば、さぞや生きるのが楽しいでしょうねぇ」
「そうでもないさ。強すぎるのも時々面倒でね。例えば蚊を叩こうとして力加減を間違えると、壁に穴を開けるどころか家が崩壊しちゃうんだ。もしかしたら、俺は一生野宿の方が安全かもしれないね」
「笑えない冗談だ。……やはりあなたは、扱いに注意が必要な商品のようです」
カイは夜空を見上げた。その瞳には無数の星が小さな光の点となって映っている。
「僕はね、あなたのような力を持った者が大嫌いです。圧倒的な力で世界を我が物顔で歩く存在がね」
その言葉は、弱者の恨み節なのか、それとも強者への隠された憧れなのか判然としない。
力を崇拝する獣人らしからぬ台詞だが、カイの感情には偽りがないように感じた。
「僕を見捨てた姉も力だけを求めるような人物でした。あの人の素晴らしい力は、僕や草原を守るためではなく、自分の地位を守るためだけのもの……」
「……」
アカネは静かに目を瞑りカイの言葉に耳を傾けていた。
「僕は散々弱者として苦しんできた。そしてようやく強者になった!だからこそ僕には他者を蹂躙する権利がある!」
カイは懐から小さなビンを取り出した。小さなガラスのビンだが、その中には黒い靄のようなものが渦巻いている。
その物体を目にした瞬間、アドリアンの全身に悪寒が走った。
あの黒い靄はただの物質ではない。何かもっと危険なものだ……と。
「憎らしい相手に復讐出来るという千載一遇の好機に、貴方のような者が居合わせるとは僕も運が悪い。だが、どんなことが起きようが、確実に葬る準備は整っている」
「それは、なんだい」
「興味がおありで?、最近裏の市場で流通している強化薬ですよ。飲めばたちまちあら不思議、筋力が増強され、さらに五感が研ぎ澄まされる。これさえあれば少女が巨漢を殴り殺す、なんてことも出来る……まさに弱者のための薬だ」
──なんだ、それは。そんな薬が存在していいはずがない。
そんな異常な効能を付与される薬なんて、アドリアンの知る限りこの世界に存在していないはずだ。
「馬鹿が!そのような薬に頼って何の意味がある!お前の血に流れる誇りまで捨てたというのか!」
「誇り?笑わせるな。大草原にいた頃から、最初から僕にそんなものはない」
カイの手に握られた小瓶が、月明りに照らされ不吉な光を放った。
「姉さん」
彼の声が柔らかくなり、一瞬だけ昔の弟の面影が見え、アカネの目が大きく見開かれる。
その瞬間、カイは瓶の蓋を親指で弾いた。黒い靄が渦巻くように立ち昇り、まるで生き物のように蠢きながらカイの口へと吸い込まれていく。
靄が消えた後、カイの姿は一変していた。彼の体は影のように黒く、輪郭さえも曖昧になっていた。その目だけが、赤く燃えるように光っている。
「──知ってたかな」
カイの声が闇夜のように低く響いた。
「僕は……昔からお前が大嫌いだったんだ。何故、生まれ持った才能だけで全てを手に入れられるんだ。弱者は……生まれながらに全てが決まるこの世界では……絶対に勝てないじゃないか!!」
アカネは直感的に理解した。カイは既に壊れてしまっているのだと……。
そして、壊してしまったのは……他ならぬ自分なのだ。
かつてあったキツネ耳の跡から、不気味な闇の耳が生え始めた。
同時に、ボロボロになった尻尾を覆うように、漆黒の新たな尻尾が巻きついていった。
「メーラ!レオン!それに見ているみんな!今すぐここから離れるんだ!!」
「ア、アドはどうするの!?」
「決まってるだろ?」
アドリアンはメーラを安心させるように、力強く笑った。
「『狐狩り』さ」
見ているものたちの背筋に、凍りつくような悪寒が走る。恐怖に満ちた叫び声が、あちこちから上がり始めた。
「さぁ……姉さん。その男もろとも、この手で葬ってあげるよ」
その瞬間、カイの姿が掻き消えた。
「!」
──速い。
常人には視認出来ぬ程の速度で、カイはアカネに肉薄する。
カイの攻撃を受け止めようと、彼女の爪が閃光のように伸びる。
爪がぶつかる轟音が響くがその衝撃は想像を超えていた。
「かっ……はっ……!」
なんという臀力。なんという速さ。
カイの動きは、まるで影絵のように瞬時に現れては消え、空間そのものを歪めているかのようだった。
しかし、アカネもまた草原が生んだ大戦士。彼女は一瞬で態勢を立て直すと、優雅な跳躍を見せた。
パンッ!っと両掌を合わせる音が、静寂を破る。アカネの唇が動き、古の言葉が紡がれていく。
──幻術の発動だ。
「風よ、我の姿を隠したまえ!」
フォクシアラの幻術──大軍をも惑わす幻覚の魔術が発動する。
アカネの周りの空気が揺らぎ始め、まるで熱気で風景が歪むように、彼女の姿がぼんやりとしていった。
「相変わらず姑息な戦い方だな。でも、無駄だよ」
カイは地面に手を着くと全身をバネのようにしならせ、弾丸のように跳躍した。その口からは鋭い牙が覗いている。
そして空間の何もない場所を牙で斬り裂いたかと思うと、アカネの苦悶の声と共に血飛沫が飛ぶ。
「ぐっ……!?」
アカネの苦悶の声と共に、鮮やかな赤い血飛沫が空中に舞った。透明だったはずのアカネの姿が、傷を負って現れる。
「この薬はね、五感も極限まで高めてくれるんだ。幻術なんて、僕には通じない」
血に濡れた爪をぺろりと舐めるカイ。だが、アカネは構わず再び呪文の詠唱を開始する。
「火よ、我に仇なす者を……その業火の矢で貫け!」
その言葉と共に、アカネの両手から眩い光が放たれる。無数の炎の矢が流星群のように空間を切り裂いていく。
しかし、カイは炎の矢をまるで優雅な舞のように躱していく。それは単なる回避ではなく、矢そのものが彼を避けているかのようだった。
次の瞬間、彼はアカネの背後に降り立っていた
「シャアッ!!」
「くっ……!」
アカネは咄嗟に身を捻って回避したが、尻尾の先がカイの爪に切り裂かれ宙を舞った。
高速で展開される戦いの中、不意にカイの闇の尻尾がぎゅるりと唸り、アカネの首に巻きついた。
「あぐッ……!」
アカネの目が見開かれ、息ができなくなる。
首の骨がミシミシと軋んだ。このままでは窒息死は免れないだろう。
「──弱い。弱いなァ……」
カイの冷たい呟きが、静寂を破る。その声には、失望と嘲りが混ざっていた。
かつては絶対に超えられないと思っていた姉の力。それが今、こうも簡単に自分の手中にある。
カイの目に、狂気の炎が宿る。もう少しだけ尻尾に力を込めれば、全てが終わる。姉は死ぬ。
その事実が、カイの全身を震わせた。
「かッ……」
アカネの口から、声にならない悲鳴が漏れる。
しかし、その時だ。
「……!?」
突如として、予想外の出来事が起こる。カイの闇の尻尾が、まるで強力な力で弾かれたかのようにアカネの首から外れた。
その衝撃は想像以上に強く、カイの体のバランスを完全に崩してしまう。
「げほっ!ごほッ……!」
アカネは首に手を当てながら、よろめきながらも立ち上がる。彼女の目が、ゆっくりと横を向く。
そこには、まるで壁のようにアカネを守るように立つ男の姿があった。
「そろそろ俺も物騒な姉弟喧嘩に参加させていただこうか」
「アドリアン……?」
「アカネ嬢、貴女は優しすぎて肉親には本来の力が出せないようだ。ここは家族療法の代わりに、ちょっとした運動をさせてもらおう」
アカネは何かを言おうとするが、アドリアンは口に人差し指を当て、ウインクした。
一方、カイは警戒を露わにして尻尾をくねらせた。
「カイ殿。その薬で手に入れた力、まるで神々の贈り物のようだね。その高みから見下ろす世界は、どんな景色かな?」
「……最高ですよ。圧倒的な力で他者を蹂躙することの快感が、僕の全身を支配していく、この感覚はまさに至福」
カイは腕を広げ、大袈裟な仕草で謳うように告げる。
「これが強者の見ている世界……感じている快楽。最高なのはこれが努力して得た力ではないという事だ」
カイの目には歓喜と憎悪が渦巻いていた。
「ちょうど、お前たちのように生まれた時から『加護』を持って生まれたものだけが享受することのできる、『都合のいい力』のようにね」
その言葉と共に、カイの姿が一瞬にして消え去った。まるで影が薄れるように、跡形もなく姿を消したのだ。
次の瞬間、アドリアンの眼前に闇の尾が迫る。
──だが、その先端はアドリアンを貫くことはなかった。彼の指が軽く尻尾の先端に触れた瞬間、光の粉のように弾け飛んだからだ。
「!?」
「──加護を持って産まれるかどうか、誰も分からんだろうが。文句を言う相手を間違えているんだよ、馬鹿者」
アドリアンの指先がぼんやりと光り始めた。その光は徐々に強くなっていき、カイの尻尾の闇を取り払うように、照らしていく。
──不味い!カイは咄嗟に後ろへ飛び退いた。
「確かに、加護は強力な武器になり得る。だが、それを使う者の心次第で、破壊の源にもなりかねない」
アドリアンは自らの指先に宿った光を、まるで大切な宝物を見るかのように優しく見つめた。
「カイ、お前は強者という甘美な夢に囚われているんだろう。でも、それはただの幻想だよ」
「……黙れ!僕は強い!少なくとも今、この時だけは、僕は強者なんだ!」
カイはア闇の尾をしならせながら襲いかかった。
その攻撃はアドリアンに届く前に見えない壁に阻まれるかのように弾かれてしまう。
「ぐっ……!?」
アドリアンはゆっくりと、しかし確かな足取りでカイに近づく。
「正しさの定義は人それぞれだけど、少なくとも他人を傷つけることは、俺の中では絶対に正しくない」
彼の目には厳しさと、同時に深い悲しみが宿っていた。
「そして俺は自己中な男なんだ。信念に従って、お前を正しい道へ戻すことにした」
アドリアンが大きく両手を広げる。
「さぁ、お仕置きの時間だ、キツネくん──」