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第十六話

──奴隷市場。


人間の尊厳が安売りされる、この世の地獄の前売り会場だ。

夜の闇が路地を覆い尽くす中、突如として耳を刺すような騒音が襲いかかる。

人々のわめき声、家畜の悲鳴、鎖のカチャカチャという音が混ざり合い、耳障りな交響曲を奏でている。


この魂の安売り会場を歩いているのは、三人の男女だ。

世慣れた「大魔法使い」、震える「姫様」、そして顔を仮面で隠した「貴族の若君」。


「さて、高貴なる御方。ここが人間の生き様が垣間見える劇場だ。お楽しみいただけるといいけど」


レオンの姿は一見すると高貴そのものだ。豪華絢爛な衣装に身を包んでいるが、顔には仮面を被り、正体を隠している。

悪趣味な仮装パーティーにでも来たかのような出で立ちだが、ここではそれが普通なのだ。

この奴隷市場、貴族たちのお気に入りの秘密の遊び場でもあるらしい。

もっとも、高貴な身分の連中は決まって仮面を被っている。自分の正体がバレでもしたら、さぞや世間体が悪かろうとでも言いたげに。


「こ、ここが……奴隷市場……?」


レオンは周囲を見渡して声を震わせた。

彼の人生の中で、ここまで混沌に染まった光景は見たことがない。

薄汚いボロを身に纏い、鎖に繋がれた奴隷がヨロヨロと歩く横で、裕福そうな身なりをした者たちが「商品」を見定めている。

まるで二つの異なる世界が無理やり一つの空間に押し込められたかのようだった。

貧困と富裕、絶望と欲望、無力と権力。それらが不自然に混ざり合い、異様な空気を醸し出している。


「アド……」

「メーラ、怖いだろうけど……しっかりと目に焼き付けておくんだよ。この光景を、この匂いを、この空気を。全てを」


雑多な市場の喧噪が、メーラとレオンの感覚を襲う。

商人たちの顔には、不気味な笑みが張り付いている。その表情は、人間性を失った者たちの証だ。

そこへ、レオンと同じく仮面を被った、明らかに上流階級の人物が現れた。その姿勢からは、日頃から人を見下すことに慣れた雰囲気が漂っていた。


「おや、この奴隷はなかなかの逸品じゃないか。値段はいくらだ?」

「これはこれは、お目が高うございます、貴きお方。ええ、おっしゃる通り、この獣人の奴隷は最高級品でございます。まるで働き蜂のように勤勉で、しかも猫のように従順。値段は……そうですねぇ……」


商人の言葉には、人間を商品として扱うことへの躊躇いなど微塵もない。むしろ、高額商談を成立させる喜びに満ちている。

レオンはそれを見て顔を顰めた。

なんて浅ましい者だ!貴族でありながら、命を物のように扱うとは!

レオンはそう思ったが、しかし自分も同じようなことをしようとしているのだと気付き顔を俯かせる。


そう、彼の目的もまた、奴隷を購入することなのだから──



『とある奴隷の女性の姿が忘れられないのです』



──ランドヴァール邸にて、レオンはそう言った。

顔を見合わせるアドリアン達の前で、まるで初恋をした少年のように。

彼は以前、馬車で街に出かけた時に一人の奴隷の女性と目が合ったそうだ。

なんでもその時に見た女性の姿が、レオンの脳裏に焼き付いて離れないのだという。


『レオン殿、それは恋慕の感情なのかい?』

『……分からないのです。それすらも』


並の貴族ならともかく、周辺地域の支配者たるランドヴァール一族という高貴な立場にいる者が奴隷市場に足を運ぶのは外聞が悪い。

一人でこっそり行こうにも、彼は奴隷市場という場所について何も知らない。彼女を見つけることは、砂漠で特定の砂粒を探すようなものだと理解していた。

ならば誰かに頼む……それこそ論外である。もしランドヴァールのお坊ちゃまが奴隷に懸想していると知られたら、周囲の人物は間違いなく彼を止めるだろう。

だからこそ、アドリアンに護衛と案内を依頼したのだ。秘密を守ることができ、この国と関わりのない、実力のある人物に……。

……ちなみにザラコスはあまりに目立ちすぎるので、別行動をしている。彼の姿は、奴隷市場で象を散歩させるようなものだったからだ。

そしてメーラはアドリアンと一緒に来ることを選んだ。アドリアンは迷ったが、メーラの気持ちを汲んで、彼女の同行を受け入れた。


おずおずと、まるで地獄に足を踏み入れたかのように怯えながら歩くレオン。

そんな彼の姿を見てアドリアンはいつものように軽い調子で言った。


「そんなに怯えることはないよレオン卿。俺がいれば、貴方は安全だ」


『大魔法使い』の心強い台詞にレオンは安堵するが、彼もまた目的があってここに来たのだ。

全てをアドリアンに頼る訳には行かぬと、目をキッと鋭くして前を見据える。


「ありがとう、アドリアン殿。でも、僕は彼女をこの手で救いたいのです。だから、弱音は吐きません」


少女のような華奢な身体をしているレオンだが、その内には激しい感情が渦巻いているらしい。

彼の覚悟を汲み取ったアドリアンは「ほぉ」と感心したような声を上げた。


「うん、それでこそ次期侯爵様だ。でも、もし貴方に危害が及びそうになったり、攫われたりでもしたら……俺はこの市場を跡形もなく消し飛ばすかもしれない。『貴族救出大作戦』の副作用といったところかな」


アドリアンのそんな言葉にレオンはピタリと動きを止めた。

仮面の下では、口をポカンと開けて驚愕の顔を浮かべていることだろう。


「え……消し、飛ばす……?……じ、冗談ですよね?」

「俺の魔法は時々暴走しちゃうんだよ。特に、大切な人を守る時にはね」


アドリアンの口は相変わらず軽い、しかし、その目は笑っていなかった。

レオンは頬を引き攣らせ、思わず後退る。


「だ、大丈夫です。僕は、攫われたりしないから……」

「それは素晴らしい。ではレオン卿。貴方の『想い人』を探しに、『楽園』の真髄に身を投じましょう」


夜闇を明るく照らす奴隷市場の灯。

その光の先には、どんな絶望が待っているのだろう。

メーラはアドリアンの手を握り、その手を離すまいと強く力を込めた。

レオンはごくりと喉を鳴らし、だが決意を込める。

今も彼女はこんなところで苦しんでいる……その思いがレオンの背中を押し、彼に一歩を踏み出させた。




♢   ♢   ♢




「そこの御方たち!我がエルテラ商会には活きのいい奴隷が揃っておりますよ!一度買えば、一生の思い出になること間違いなし!」

「さぁ、この奴隷の鎖をご覧あれ!なんと純金でできております。奴隷よりも鎖の方が高価かもしれませんよ!」

「こちらの奴隷はエルフと人間のハーフだ!二つの種族の良いとこ取り!今なら金貨一枚で、二種類の奴隷が一度に買えますよ!」


市場の中は活気に満ち溢れており、その喧騒はレオンの想像を絶していた。

『商品』として陳列される奴隷たちは、まさに十人十色。

粗末な布切れを纏っただけの見すぼらしい者から、まるで宮廷舞踏会にでも出かけるかのように瀟洒な衣装で着飾った美しい者まで、実に多種多様だ。

驚いたことに、この尊厳を売買する市場は、混沌としていながらも一種の秩序が保たれている。

至る所に衛兵や巡回の兵士が目を光らせており、彼らの存在が「商品」と「お客様」の境界線を明確に示している。


「さぁ、御覧あれ!目玉商品の登場でございます!この逸品、鞭打ちにも眉一つ動かさぬ、驚異の忍耐力の持ち主!痛みに強いということは、使い潰すまでの道のりが長いということ!」


商人は、まるで世紀の大発明でも披露するかのように胸を反らし、客の興味を引くように両手を大きく広げた。

その声に釣られ、通行人たちも足を止める。


「おぉ、この奴隷は肉体労働に向いているな。金貨三枚で買えるなら安いものだ。家具より安いじゃないか」

「その通り!動かなくなったら粗大ゴミとして捨てるだけ。こんな便利な使い捨て商品はございません!」


客たちは商人の甘言に酔いしれ、奴隷たちに興味を示し始める。

なんとまぁ、人間性の欠片も見当たらない会話だ。


「いや、素晴らしい光景だ。素晴らしすぎて、思わず魔法で焼き払いたくなっちゃうね」


アドリアンの物騒な言葉に、レオンは目を見開いて彼を見つめる。

その表情は相変わらずの微笑みを湛えているが……その奥に潜む激情をレオンは感じ取っていた。


「アド……冗談だよね?」

「もちろん。半分はね」


メーラからの問いかけに対して、アドリアンは小さくそう返した。


「この奴隷市場を無くしたところで、何も変わりはしないんだ。『悪徳商店』を潰しても、新しい店が開くだけさ。人間の欲望は、雑草のように生えてくるから」


アドリアンはそのことを理解しているのだ。彼の目には、世界の矛盾を見透かしたような冷たい光が宿っている。

アドリアンはこの非人道的な光景を冷ややかに観察しながら、メーラとレオンは戦々恐々としながら奴隷市場を進んでいく。

彼らの目の前には、『商品』として陳列された生身の人間たち。

その光景は、レオンが考えていたよりもずっと現実的で、無情だった。


──その途中のことである。


「もし、そこの道行く御方」


不意に、一人の奴隷に声をかけられた。

美しい女であった。

しなやかな体つきは、まるでしなう柳のようで、その顔立ちは月下の花のごとく妖艶な美しさを湛えている。

金色の髪は、まるで太陽の光を閉じ込めたかのように輝き、見事に手入れされていた。

その服装たるや、とても奴隷のものとは思えない。豪華絢爛な刺繍が施された衣装は、まるで宮廷の貴婦人を思わせ、彼女を大貴族の令嬢のように飾り立てていた。

この華やかな外見と「奴隷」という身分のギャップに、レオンとメーラは言葉を失った。アドリアンは、興味深そうに片眉を上げている。


そして、彼女の姿をより特徴的にしているのは、頭部に生えた尖ったキツネの耳と、臀部からしなやかに伸びる尻尾だ。

これらの特徴は、彼女が人間ではなく、獣人の一員であることを如実に物語っている。


「今日、誰かに買われないと『廃棄』されてしまいますの。どうかご慈悲を」

「これはこれは、美しいキツネのお嬢さん。君のような美しい女性を是非とも買いたいところだけど……生憎手持ちが少なくて」


アドリアンのその言葉に彼女はキツネの耳と尻尾をしゅんと垂れさせ、がくりと肩を落とした。

その様子を見ていたメーラとレオンは憐憫の眼差しと、同情の感情を向ける。


「ア、アドリアンどの。『廃棄』とは?」

「あまりにも売れないと、『処分』するのさ。商品にならないからね」


聡明なレオンはその言葉の意味をすぐに理解した。

信じられない、という表情のレオンを尻目に、アドリアンは女へと視線を向ける。


「だが、貴女は『廃棄』されるには些か健康で、そして美しすぎるように見える……」

「……買ってくれない割には、お上手ですのね。お兄さん」

「仕方ないさ。この舌は、美しい女性を前にすると、勝手に踊り出すんだ」

「それは難儀なこと」


アドリアンはクスクスと笑う彼女の様子を見て、言葉を続けた。


「だから言わなくてもいいことまで言ってしまう。奴隷の振りをするなら、もう少し『それらしい』表情をした方がいい」

「え?」

「その目と耳、それに艶やかな尻尾。全てが生き生きと動いている。まるで内側で感情の嵐が渦巻いているかのようにね。奴隷というのはね、そんな贅沢な感情を持つことは許されないんだ。……悲しい話だけど」


アドリアンの言葉に、女は目を見開いた。

彼女は暫しの間無言で何かを考えていたようだが……やがて小さく笑った。


「あらまあ。声をかけてはいけない御仁だったとは。私の運の悪さときたら」

「いや、声を掛けてくれて嬉しいよ。こんな美人に声を掛けられるなんて、俺は幸運な男だ」


アドリアンはそう言うと、女に向かって恭しくお辞儀をした。

そして顔を上げると……彼女はアドリアンを鋭く見つめていた。

まるで獲物を狙う獣のように……。


「お兄さん、名前は?」

「アドリアンと申します、麗しのキツネのお嬢様」


その名前を聞いて、女は笑みを浮かべた。先程までの貼り付けたような笑みではなく、本当に嬉しそうな笑みを。

その瞬間、メーラは彼女の口元から覗く鋭い牙に気づいた。

何故だかその笑顔がとても恐ろしく思えて、彼女は思わずアドリアンの服の裾を摑む。


「面白い御方。是非とも、この悪趣味な市場をご一緒なさらない?」


その言葉に、メーラとレオンの顔には困惑の色が広がった。彼らの頭の中は「?」で満ちていた。

奴隷の身分で自由に動き回れるはずがない。

──そう思った瞬間だった。

女の手足を拘束していた鎖が、まるで手品の小道具のように、ポンッと軽い音を立てて消失した。

煙が晴れるように、鎖の存在感が薄れていく……。


「えっ……」


2人が唖然とする中、アドリアンは肩を竦めて言った。


「おや、これはこれは。キツネに化かされたかな。次は俺の財布が消えなきゃいいけど」

「何を仰います。最初から分かっていたくせに」


トン、と軽やかな足取りでアドリアンの横に立つ女。

彼女は牙を覗かせながら、言った。


「さぁ、この退屈な『楽園』で、ちょっとした奇劇は如何でしょうか?少し刺激的ですけど」


女の金色の瞳が煌めき、キツネの尻尾がゆらりと揺れた。


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