月明かりが戦場の跡を優しく照らし、静寂の中でアドリアンとザラコスは並んで座っていた。
アドリアンの横顔が月の光に照らされる。
その横顔は、いつものアドリアンとはどこか違うように見えた。
「アドリアンよ」
「なんだい、ザラコス」
「こんな老人と月見をして楽しいかね」
ザラコスの言葉にアドリアンはフッと微笑んだ。
「楽しいさ。俺は色んな人と月見をしてきたからね。アンタと見るこの光景も、楽しい思い出の一つになるんだ」
「そうか」
ザラコスは月を見上げた。月は天高くに昇り、二人を優しい光で包み込んでいる。
「確かに、ここからの景色は悪くない……戦場の跡だということを除けばな」
「この戦場の跡はアンタの作品だからな。アンタがやったことはちゃんと残るよ。良いことも、悪いこともね」
「残念だったな、悪いことは時効だから良いことしか残らんぞ」
「……年寄りってのは面白いな。でも、ザラコスはあんまり年寄りっぽくないけどな」
アドリアンはそう言って笑う。ザラコスはそれを面白くなさそうに聞いた。
「散々この老人をこき使って、戦場のど真ん中に立たせてきた輩が言うことか?」
「それだけアンタが頼りになったってことだよ。俺も、他の戦士達も、アンタを頼りにしていたんだ」
「ふん」
ザラコスは鼻を鳴らして目をそらす。だが満更でもないようで、鼻をヒクつかせていた。
アドリアンはその様子を見て笑いをこぼすと、すぐに表情を引き締める。
「ごめんよ、ザラコス」
不意に紡がれた真面目な声色のアドリアンの言葉を遮るように、ザラコスはアドリアンの頭を軽く小突いた。
「アドリアンよ。お主少し自惚れてはおらぬか」
「え?」
「英雄だなんだと持て囃されて、ワシなんぞの想像もつかぬ戦いを潜り抜けてきたのであろうがな。お主は一人の人間だ。出来ることには限りがある」
「……」
それはアドリアンも分かっている。
聡明な彼は自身の出来ることの限界を理解していたし、届かないということも分かっていた。
「そうだな。結局、俺も一人の人間だよな」
「そうさ。お主も、ワシも。我々は皆、不完全な存在だ。それでも、世界はお前を選んだのだ」
「世界か……」
アドリアンは月を見上げた。月は変わらずに天高くに昇っている。
こうも美しく、静かな夜だというのに心がざわめき立つ。
「ザラコス……俺は、この美しい世界を守るよ」
「自惚れてると言った途端に世界を守るだなんて大言壮語をかますとは流石だな。嫌味か?」
「俺は英雄だからな。自惚れてないと、みんな不安に思うだろ?」
ザラコスはその言葉に一瞬キョトンとすると、すぐに笑いだした。
「ハハハ!確かにそうだな!英雄は自惚れてこそだな!」
「だろ?だから俺は世界を守るよ。……でも」
アドリアンは月を見上げたまま、ザラコスに語りかける。
「アンタの尻尾が、もう見れないのは、悲しい」
アドリアンは彼の下半身に視線を落とす。
いや、下半身がかつてあったであろう場所に……。
──ザラコスの下半身は既にない。
アドリアンが駆けつけた時にはもう手遅れで、ザラコスの下腹部から下は吹き飛ばされ消滅していた。
魔族の大軍との戦闘。壮絶な戦闘の果てにザラコスは魔族の将と一騎討ちをし、見事敵を討ち取ったのだ。
だが、無傷という訳にはいかなかった。魔族の将軍が放った魔法により、ザラコスの下半身は消滅した。
もう彼の命は長くない。
アドリアンの加護が、的確に彼の死期を知らせている。
「アドリアンよ。ワシは、幸せ者だ」
ザラコスは月を見上げながらそう呟く。その声色には悲しみも、後悔もない。ただ穏やかな声だった。
「戦士として、女王の騎士として、戦場で死ぬ。これ以上ない死に場所を得られたのだ、これを幸せと言わずになんと言う」
ザラコスはアドリアンに向き直る。
その瞳には力強い意志の光が宿っていた。
「羨ましいだろ?若造……」
「……あぁ、羨ましいよ。俺も、アンタみたいな死に方がしたいもんだ」
アドリアンはザラコスに笑いかける。涙が抑えきれずに、一筋だけ零れた。
ザラコスはそんなアドリアンを、優しい眼差しで見つめる。
いつものザラコスならば、戦士が涙を流すなと叱るはずだ。
だが、この時ばかりは何も言わなかった。
それが余計悲しくて……アドリアンの胸を締め付けるのだ。
「なら、老練さと風格を兼ね備えた、ワシのようないい男になるんだな。アドリアンよ」
「ああ……」
アドリアンは涙を拭い、満面の笑みを浮かべる。
「俺は、いい男になるよ。そして、アンタの死に様を超えてやる」
「楽しみにしているぞ」
ザラコスはアドリアンに笑いかける。その笑顔はどこまでも穏やかだった。
そして、少しの静寂の後ザラコスはポツリと呟いた。
「女王を頼む。あの御方は、誰に対しても気難しいが……お主にだけは、心を許している」
「そうかな?一番嫌われてると思うけど」
「お主はまだ若いから女心に気付かんのだよ」
「ハハ。長生きしてるだけあって含蓄があるな」
ザラコスは、アドリアンの返答に再び笑う。だがその笑い声は次第に小さくなっていく。
静寂がその場を支配し、月だけが二人を見下ろしていた。
「少し疲れた。ワシは眠ることにしよう」
「ああ、そうしてくれ。老人は夜が早いからな」
「ハハ……そうだな……その代わり……朝は早い……ぞ」
ザラコスはアドリアンに笑いかけると目を閉じた。
その呼吸は徐々に弱まっていく。
「おやすみ、ザラコス……」
アドリアンはそう呟くとザラコスに顔を向ける。
その顔は安らかで、まるで眠っているようだった。
「次起きた時は、きっと世界は平和になってるよ」
月が見守る中、一人の騎士が眠りについた。その騎士の安らかな眠りが妨げられることは、もうない……。
辺りには魔族の兵士とリザードマンの戦士たちの亡骸が転がり、戦場の跡には血の海が広がる。
こんなにも綺麗な月夜だというのに、こんなにも凄惨な戦が繰り広げられたというのに。
彼の頬を伝う涙は、とても冷たくて。
月が雲に隠れるまで、彼はずっと、その場に立ち尽くしていたのであった──
♢ ♢ ♢
アドリアンの胸に短剣が突き刺さろうとした、その瞬間であった。
常人ならば、そのまま心臓を一突きにされ絶命していたであろう一撃。
しかしアドリアンは、まるで蝶が花びらに触れるかのように軽やかに……指先で短刀の刃を摘んで止めた。
「……え?」
誰かの呟きが、静寂を破る。
男も、ザラコスも……口をポカンと開けたまま、固まっている。
そんな中、アドリアンだけは微笑みを湛えていた。
「いやぁ、歳を取るとついつい昔を思い出しちゃうね。まるで年寄りみたいで嫌になっちゃうな」
アドリアンはそう呟くと、もう片方の手で短刀を握る男を軽く放り投げた。
「あっ……えっ……?」
男とザラコスは知らなかったのだ。
アドリアンの本当の実力、そして彼の真の戦い方を。
その瞬間、アドリアンの目にこれまでとは全く異なる光が宿った。それは、長い年月を経た戦士の目だった。
「懐かしい光景を思い出していい気分になったことだし、そろそろこの戦いを終わらせようか」
「■■!?」
次の瞬間には、アドリアンを拘束するシャドリオスの身体が八つ裂きにされていた。刃が闇を切り裂く音が鋭く響き、黒い霧が四散する。
拘束が解かれると同時にトン、と空高く跳躍しアドリアンの身体がしなやかに舞った。
「実はさ」
彼は空中に舞ったまま、そう呟いた。
「俺って魔法より、接近戦の方が得意なんだよ。あ、これ内緒ね?」
「ひっ……ひぃ……!ころせ!殺せぇぇ!!」
男の恐怖に満ちた声が響き渡り、その声と共にまたもシャドリオスたちが湧き出てくる。
その群れは空を舞うアドリアンに殺到するが、彼は憐憫の眼差しを向けた。
次の瞬間、アドリアンが握る短刀が光り輝いた。その輝きは、まるで星の光のように鋭く、そして優しい。
「■■■!?」
一瞬の閃光と共に、アドリアンの姿が消えた。
シャドリオスたちの群れの中を、銀色の閃光が駆け抜けていく。
それと同時に刃が空気を切り裂く音が、戦場に響く。
シャドリオスたちは、その美しさに魅入られたかのように、抵抗する術もなく消えていった。
「お……おぉ……なんという、美しさであろうか」
そのあまりの流麗さに、ザラコスは我を忘れてそう呟いていた。
これ程までに美しい剣舞を見たことがあっただろうか。
どんな高名な剣の達人でも、彼のように美しい太刀筋を描ける者などいないだろう。
どんな芸術品でも、彼の美しい剣舞は表現できないだろう。
芸術に詳しくないザラコスではあるが、彼の姿には美しいと思わせるだけの力があった。
「な……なんで」
──そしてそれは、男も同じだった。
彼はその華麗な姿に畏怖の念すら覚え、ただただ立ち尽くして見ていた。
「シャドリオス。お前たちがなんなのかは分からないけど」
そうしてアドリアンは一際高く跳躍する。風を蹴り、空へと舞う。
「──自我がないなんて、悲しいよな。だから、終わりにしよう」
短刀の刃が銀色に煌めき、一筋の光が空を突き抜けていく。
ザラコスが見たそれはまさに流星の光であった。空を切り裂く、眩いばかりの閃光。
アドリアンが水平に短刀を振るうと、その軌跡に沿って光が広がっていく。光の剣閃がシャドリオスたちを次々と両断していき、空を裂いた。
その衝撃は街全体に広がり、燃え広がっていた炎もその剣閃によってかき消されていく。
「──」
断末魔の悲鳴を上げることすら許されず、闇の兵士たちは消滅していった。
やがて光が収まると、そこにはもう何も残っていなかった。
アドリアンは地面に着地すると短刀を男に向かって投げる。その動作には、もはや敵意は感じられない。
「見事だ、アドリアン……」
ザラコスの声が感嘆と共に響く。
同時に戦いの幕が下りたことを告げるかのように、遠くで鐘の音が鳴り響いた。
「なんなんだ……お前、は」
「英雄……なんて大したもんじゃないな?今の俺は。だけどそうだな、敢えて名乗るなら」
アドリアンは軽く肩をすくめ、少し皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「お姫様を守る騎士様かな?いや、勇者様の方が響きはいいか」
何を言っているのか理解出来なかった。だが、男の顔には明らかに恐怖の色が浮かんでいる。
「ひ……ひぃぃ!!」
男は慌てて立ち上がると、アドリアンに背を向けて走り出した。
「逃がすな!」
ザラコスの叫び声が響いた時。
「えっ……?」
突如、男の懐から不吉な光が漏れ始めた。その光は脈動し、次第に強さを増していく。
アドリアンの目が見開かれる。それは、先程、アドリアンに投げつけられた魔法の爆弾の光であった。
「ひっ……!?」
「その道具を投げるんだ!早く!」
しかし、男の耳にはその言葉が届かない。パニックに陥った男は、まるで凍りついたかのように動けずにいる。
彼は悲鳴を、いや、もはや言葉にならない声を上げながらあたふたとするばかり。
そして、アドリアンと視線が交差する──
一瞬。男の目には、恐怖の中にかすかな希望の光が宿った。
「たすけ──」
その言葉が途切れた瞬間、爆弾が起動した。眩い閃光が広がると同時に轟音が大地を揺るがす。
至近距離で爆弾が炸裂し、アドリアンの視界は真っ白になる。熱波が彼を包み込み、衝撃波が体を打つ。
「アドリアン!!」
ザラコスの叫び声が、爆発音を突き抜けて響く。
だが、返事はない。
沈黙が訪れ、ただ瓦礫が崩れる音だけが聞こえる。
やがて煙が晴れていく。風が吹き、灰色の幕が少しずつ晴れていった。
「……」
そこには……倒れ伏す男を悲しげな瞳で見下ろすアドリアンの姿があった。
彼の服は破れ、顔には傷が付いているが立っている。
「ごめんよ」
男の亡骸を前に、彼はそう呟いた。
「俺がもっと早く気が付けば、助けられたのに」
アドリアンはゆっくりと膝をつき、男の亡骸に手を伸ばす。
彼の動作は、まるで大切な者を扱うかのように優しい。男の瞼をそっと閉じ、その身体をゆっくりと地面に横たえた。
「……」
自分を殺そうとした男……そんな存在に、アドリアンは心から謝罪している。
それを見たザラコスはアドリアンという青年がどんな人間なのかを理解した。
彼は……慈悲深く、優しい心の持ち主だ。
多少皮肉っぽく、擦れているように見えるがそれは表面的なものに過ぎない。
彼の本質は慈愛と寛容に満ちた、心優しい人間なのだ。
「お主は、甘いのぅ」
「そうかもしれないな」
アドリアンは自嘲気味に呟き、ゆっくりと空を見上げる。
先程の剣閃で、街の炎は消え去っていた。
瓦礫に挟まれていた人々も風の精霊によって全員が助け出され、安全な場所へと運ばれている。
「でも、甘くても」
アドリアンの目には空に浮かぶ太陽が映っていた。
「みんなを悲しませないためなら、俺はどんな事だってするさ」
例えそれが偽善と呼ばれようとも、自分の行いに正義があるのならば……それで良いのだ。
ザラコスはそんなアドリアンを見て、フッと笑みをこぼす。
「ワシが保証してやろう。お主ならきっと……」
その時である。
ザラコスの言葉を遮るように、何人もの足音が響いてきた。
二人がそちらに視線を向けると、街の衛兵たちが駆け寄ってくるのが見えた。
「いたぞ!あそこだ!!」
兵士の先頭に立つ男が叫ぶと、彼らは一斉に武器を構えた。
「貴様ら、そこで何をしている!」
「ありゃ」
これはもしかして、勘違いされているのだろうか。
自分たちがこの街を滅茶苦茶にした犯人だと……。
アドリアンが苦笑していると、ザラコスはフンと鼻を鳴らす。
「お主らこそ、今更何をしにきたのかね」
彼は巨体をゆっくりとアドリアンの前に出し、兵士たちと向かい合った。
ザラコスの鱗が陽光に反射し、まるで燃えるように輝いている。尻尾が彼らを威嚇するように大きく揺れ、砂埃を巻き上げた。
兵士たちはザラコスの巨体に怯み、途端に身体を竦ませた。
「騒ぎが収まった後にノコノコと駆けつけるとは、随分と仕事熱心な事だ」
ザラコスの剣が、大きく振るわれ地面に叩きつけられる。
それはまるで、天を衝くほどの稲妻の如く凄まじい一撃で、衛兵たちはビクリと身体を震わせた。
「この若者は精霊を使役し住民を救い、街を破壊した悪党を倒し、更には火の手すら消してみせた英雄だぞ!そんな人物に武器を見せ威嚇するとは、愚かにもほどがあるわっ!」
「英雄……?」
「あの風の鳥は彼が召喚したのか……?」
ザラコスの言葉に、兵士たちの表情に困惑の色が浮かんだ。
そして互いに顔を見合わせたかと思うと、やがて一人の兵士が前に出てくる。
「し、しかし。我々には命令が……」
その兵士の言葉が終わる前に、ザラコスは胸と尻尾を張って宣言した。
「聞け、無礼者ども!我が名はザラコス!ドラコニア皇国の騎士団長であり、現女王の後継人である!そのワシが証人となろう!この若者こそ、街を救った英雄であるとな!」
ガランと。
兵士たちの持っていた武器が、一斉に地面へと落ちた。