ぐしゃり、と男が地面に激突する音が鳴り響いた。
アドリアンの風魔法によって空高く打ち上げられた男は、受け身を取る事もできずにそのまま地面に落下したのであった。
「おごぉ……!」
息も絶え絶えで、苦痛に顔を歪める男。
周囲の人物たちはそれをただ茫然と眺めていた。
「き、貴様……なにを……!」
「空飛んで少しは冷静になったかい?おっさん」
そう言ってアドリアンはにこりと笑う。
その笑みは敵意も悪意も一切感じられない、ただただ柔らかい笑顔だった。
「な、何が目的だ!金か?」
その内に正気に戻った男は声を荒げてアドリアンに掴みかかる。
しかしアドリアンは、彼の腕を軽くかわしながら冷ややかに続けた。
「金なんていらないさ。おっさんが他人を痛めつける趣味をやめる手助けができればそれでいいんだ」
「な、何を言って……ふざけるな!貴様のようなガキに説教される筋合いなどない!」
「ガキ……?あぁ、ガキね。ははっ」
ガキ、と言われてついアドリアンは笑いを零す。
彼の見た目は確かに青年だが、中身は90を超えた老人なのだ。
今のアドリアンからすれば目の前の男も子供のようなもの。
だけど、それはアドリアンしか分かり得ない事。
「そうだよな、ガキに説教されるのは嫌だよな」
「当たり前だ!ガキに何が分かる!」
「分かるさ。俺も昔そうだったから……」
アドリアンはそう言うと、男の肩を優しく掴む。
そして時、男は見た。アドリアンの瞳を。
まだ歳若いというのに、その瞳には歳月を重ねた深い知恵と、経験の光が宿っていた。
「……えぇい、離せ!貴様が私に魔法を撃ったのは事実だ。この事を衛兵に伝えてやる!」
「どうぞご自由に」
そんなやり取りをしていると、騒ぎを聞きつけた街の衛兵たちが駆け付けてきた。
軽装の鎧に身を包んだ彼らは、状況を把握するために周囲を見渡し、そしてアドリアンと男を視界に捉える。
「何事ですか!?」
「あぁ、衛兵の皆さん。実はこのおっさんがちょっと高いところから落っこちてしまってね。風に舞うのがよっぽど楽しかったみたいで」
アドリアンの言葉に男は憤慨し、衛兵は訝しげな表情を浮かべる。
「この男が私に魔法を使ったんだ!危険な人物だ、すぐに拘束してくれ!」
「魔法……?この青年が?」
衛兵はアドリアンに疑いの目を向ける。
しかしアドリアンはそんな視線など気にもとめず、ただ微笑むばかりだ。
正直、アドリアンの力を以てすればこの場を切り抜けるのは容易い。ただ力任せに英雄の力で暴れ、全てをめちゃくちゃにして奴隷を救い出す事はできる。
だが、それではダメだ。
そんな姿は英雄に相応しくないし、メーラにそんな光景を見せたくない。
だからアドリアンは成り行きに身を任せる。魔法を撃ったのは事実だし、それで罰せられるのであれば仕方がないだろう。
「誰か、彼が魔法を撃ったというのを見ていた人はいませんか?」
ヒソヒソと何やら相談していた衛兵たちであったが、状況証拠を集める為に周囲の人々へと声を上げる。
ここは市場だ。目撃者は数え切れないほどいるし、すぐに証言が集まるだろう。
──だが。
「いやぁ、俺は見てねぇなぁ。そんな魔法」
「その男が奴隷を虐めてたのは見たぜ?その後の事は知らねぇ」
「ここは竜巻が起こりやすいからなぁ!そんな事もあるだろ!」
次々と上がる証言。そのどれもがアドリアンの無罪を証明するものばかり。
おや?とアドリアンは首を傾げる。彼らはどうして自分を擁護してくれるのだろうか。
実際、アドリアンは自分で自分の行動を偽善的だと思っていたし、最善だったとは思っていない。
だというのに、何故。
「な、何を言っとるんだ貴様ら!私は確かにこの男の魔法で……」
納得出来ない男が叫ぼうとした、その時だった。
「さてさて、ワシも少し混ぜて貰ってもよろしいかな」
市場の一角から、巨大な影が姿を現した。
それは人よりも大きな体躯を有した巨大なトカゲであった。
全身に鱗を纏い、大きな顎と牙を持ったその怪物は、その強靭な尻尾を地面に叩き付けながらアドリアンと男の元へと歩み寄る。
──リザードマン。
亜人族の一種で、竜人を信奉する種族である。
比較的温厚な種族であるが、しかしいざ戦いとなればその剛腕を遺憾なく振るう恐るべき戦士でもある。
「リ、リザードマン……?」
衛兵と男が彼の姿を見て、動揺する。
それもそうだろう、リザードマンは竜人の国から出てくることは滅多になく、この多種多様な種族が集うフリードウインドの街でも珍しい存在だったからだ。
「──」
アドリアンもまた、彼を見て目を細めて息を呑んだ。
何かを逡巡するように、そして遠い何かを懐かしむように。
「ワシは一部始終を見ておったが……この若者が魔法を使ったとかそんなことよりも、奴隷をこの街で連れ歩く方が問題だと思うがのう」
リザードマンはゆっくりと話し始め、市場の人々の視線を集めた。
彼の鱗が光を反射し、威圧感をより一層強める。
「な、なに言ってるんだアンタ!?この街では奴隷を引き連れても違法じゃないはずだ!」
男はリザードマンの迫力にたじろぎながらも主張する。
リザードマンはそんな男の姿を一瞥した。爬虫類特有の感情の読み取りづらい瞳で、男を見下ろす。
「おぉ、よく勉強しているのぅ。その通り、この街では奴隷を引き連れるのは違法ではない……」
「な、なら……」
「──だが、もう少し勉強していたら、ワシの言葉の意味も理解出来たであろうなぁ」
リザードマンの巨体がのそりと動き、その太く逞しい尻尾がゆらりと揺れた。
「このフリードウインドの街は古来よりその立地から支配者が代わる代わる入れ替わった。だが……いつしか住民たちは支配を拒絶し、独立都市となった。それが今のこの街の成り立ちだ」
リザードマンは前足を一歩前に出し、ドスンという音を響かせた。
男が……いや、衛兵ですらその圧倒的な存在感に気圧され、後ずさる。
「そう、この街は束縛を嫌っているのだ。ここには様々な種族が集まっている。そしてその中には、奴隷として苦しんできた者も多くいる」
それを聞き、男は焦燥感に駆られながら周囲の視線を感じ取る。
市民たちの目には明らかな敵意が宿っている。リザードマンの言葉に頷く者、厳しい表情で男を睨む者、どれもが男にとって不利な状況ばかりであった。
そこまで聞き、アドリアンも何故市場の人間が自分を庇うような証言をしてくれたのかを理解した。
──この街は自由の風が吹く街。誰も彼もが自由に生き、そして自由に死ぬことを許される。
そんな自由な街に……奴隷を連れている男の存在は異質でしかないのだ。
「……」
男はようやく理解した。自らの置かれた立場を。
「し、しかしこいつは私に危害を……」
「危害を加えた?いやいや、空を飛ばされるなんて羨ましい話じゃないか。お前さん、ちょっとした空中散歩を楽しんだだけだろう?ワシの知る限り、誰も命を失うようなことはしていない」
「……」
詭弁である。命を失わなかったからと言って何をしてもいいわけがない。
だが、リザードマンの言葉には不思議と威圧感が込められており、男も思わず後ずさりをしてしまう。
「くそっ……!」
男は堪らずその場から逃げ出そうとした。連れていた奴隷も置いてだ。
最早ここでは常識が通用しないと思ったのだろう、だが……。
「おいおっさん!これ受け取れ!」
「あ……?」
アドリアンは男の足元に、小さな袋を投げつける。
「アンタだって奴隷を金出して買ったんだろ?この人を置いていくなら、その金を受け取っても罰は当たらないだろ!」
笑ってそう言うアドリアンに男は唖然とした表情を浮かべる。
確かに男は奴隷を買った。だがそれは、自らの娯楽に利用できると思って買っただけなのだ。
その金で奴隷を嬲るもよし、そのまま使い捨てても良しと考えていたのだから……。
「……」
男はチラリとアドリアンを見る。彼は、ただただ楽しそうに笑っていた。
その笑顔があまりにも無邪気で、悪意など欠片もなくて……男はただそれを呆然と眺めていた。
そしてばつが悪そうに、その小袋を拾う。
「あ、あぁ……」
そうして男は逃げるように去っていった。
アドリアンは男が見えなくなるまで、その背中を眺めていた。
「いいのかね?若者よ。あの男に金を渡して」
リザードマンの言葉にアドリアンはフッと微笑む。
「あぁ、いいんだ。あのおっさんが奴隷を虐めるのをやめればそれでいい」
「そうかね」
リザードマンもそれ以上は何も言わなかった。
アドリアンを見下ろす瞳が何を考えているのかは、誰にも分からなかったが……。
「ほら、アンタもこの金で故郷に帰んな」
アドリアンは呆然と自信を見上げる奴隷のエルフに金を渡す。
彼はどこか現実感のない顔でそれを受け取った。
「え……あ……」
何を言えばいいのか分からないような、そんな顔。
アドリアンはそんな彼に優しく笑いかける。
「アンタは自由だ。もう誰も縛ることは出来ない。どこへでも行って、好きなことをすればいい」
「……」
アドリアンの言葉に、エルフの男はこくりと頷く。
そしてそのまま踵を返して、最後にペコリとアドリアンに一礼すると市場の外へと駆けていったのだった。
それと同時に、市場で大歓声が上がる。
「おいおい兄ちゃん!やるじゃねぇか!」
「久しぶりにスカっとしたぜぇ!!ガハハ!!」
「若いのに大したもんだねぇ!」
市場の人々がアドリアンを囲んで、口々に彼を褒め称える。
皆が彼の行いに心を震わせたのだろう。この青年は間違いなく正義を貫いたのだと。
「だろ?俺って英雄だからな!困ってる人を助けちゃうんだよなぁ~!やっぱ俺っていい奴だよな!うん!」
「ガハハ!!言うじゃねぇか!!」
「自分でいい奴って言う辺り、ろくな奴じゃないかもなぁ!」
アドリアンはそんな市場の人々の歓声を受け、嬉しそうに笑う。
その姿に、周囲の人々も釣られて笑顔になったのであった。
そんなアドリアンの様子を、メーラは離れた場所で見ていた。彼女はアドリアンの行いを誇らしく思い、そして嬉しくも思った。
何せ虐げられている人を助けたのだ。まさに、勇者という名に相応しい行いだろう。
しかし同時に……彼女は何とも言えない感情を抱いていたのだ。
「……」
何故、アドリアンは奴隷を助けたのだろう。
何故、アドリアンは男にも奴隷にも金を渡したのだろう。
何故、彼は……あんな笑顔を浮かべているのだろう。
メーラにはそれが分からなかった。
「どうして……」
何の得にもならないのに。何の見返りもないというのに。
そうして拳をギュっと握った時。
不意に、頭上から声が響いた。
「彼を偽善者だと思うかね、魔族の少女よ」
「っ!?」
いつの間にか横にいたリザードマンが、メーラにそう問い掛けた。
突然の事にメーラは一瞬困惑するが、しかしすぐに冷静さを取り戻してリザードマンの言葉に呟くように答える。
「分から……ない……」
絞り出すように、そう答えた。
彼女の答えに、リザードマンはクツクツと笑う。
「ワシは奴を偽善だと思うよ。何故なら、奴は自分の為にわざわざ首を突っ込んだのだからな」
「自分のため?」
「そうとも。自分が自分である為に、不利益を承知で行動したんだろう。それを偽善と言わずして、なんと言おうか」
リザードマンの答えにメーラは困惑する。
彼の言い分はあまりに抽象的で、それでは何も分からなかった。
だけど……一つだけ分かる事があるとすれば……それは──。
「だがな、それでいいのだ。自分の思うままに動けば、それでいい」
アドリアンの周囲には、笑顔が満ちている。
それはきっと、彼が自分の心に従って行動したからなのだろう。
彼は自分にとっての英雄だけど。
みんなにとっての英雄でもあるのだ。
「……」
笑顔が満ちる。市場の人々の笑顔があり、そしてその中にアドリアンの笑顔がある。
メーラの瞳にアドリアンの笑顔が焼き付く。
それが、メーラにとってあまりにも眩しすぎて、思わず俯いた。
何故だか、胸が痛んで。何故だか、苦しくて。
メーラにはそれが何なのか、分からなかったけど……。
「あっ!」
彼女が黙ってその光景を眺めていると、不意にアドリアンと目が合った。
彼はメーラの存在に気付くと、明るい笑顔を見せる。
そして言った。
「ごめんメーラ!有り金全部使っちまった!」
「はい?」
メーラの呟きが、市場の喧騒の中に溶けて消えた。