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第21回

 岩場には、滑車台が設置されていた。


 昔は人力で神輿みこしを下ろしていたのだろう。しかし現代では詞為主の恩恵によって裕福になった村の者たちによって、電動化が取り入れられていた。といっても電気を引いているわけではなく、発電機によって昇降機を動かしている。

 神聖さには欠けるが、神輿だけで80キロはある上、そこに鎮座する巫女や捧げ物などを加えればゆうに150キロは超える。それを穴の底まで下ろすのだ、人力で行うのは巫女の安全面から見ても危険なため、これを用いるのは合理的だった。


「それじゃあ巫女さん、よろしくお願いします」

 頭屋として祭りを取り仕切る泉燈せんどうの横についていた男が頭を下げる。泣きはらした赤い目で、中野も無言で頭を下げた。


 未来は、彼らと、その後ろにずらりと集まった数十人の村の者たちを見渡した。

 本当に村に住んでいる者はごく少数で、ほとんどの者は祭りのために集まった、普段は村外の都市で暮らしている者たちだ。似たような服を着ているが、アクセサリーや靴などで、だれもが裕福な生活を行っていることがうかがえる。


 彼らは未来が何をするつもりなのか知らない。

 彼らの崇める神を滅するということは、すなわち彼らの生活を破壊することにもつながるのだということだ。それについて話し合った当時は、彼らは計画書の上の単なる文字でしかなかった。

 しかし今はこうして目の前に存在していて、ここまで彼女を運んできてくれた者たちでもある。

 彼らの期待と感謝に満ちた表情に、そのことが大変申し訳なく思えてきて、未来はさっと頭を下げて彼らの視線から顔をそらす。そして無言で昇降機に設置された神輿に戻って座った。


「下に下りたら、何をするか分かっているね?」

 最後の確認というように、泉燈が腰を折ってのぞき込んでくる。その姿、声に威圧されながらも、未来は「は、はい」と答えた。

「これから3日間、食事は日に2度、村の者がかごに入れて下ろす。会話はしない。神嫁となれば、きみが話す相手は詞為主さまだけで、きみが口にするのは詞為主さまへの奉仕の言葉だけだ。それ以外は、決して口にしてはいけない。

 いいね?」

 淡々と、丁寧に先々の予定を話してくる。

 これから穴で1人きりになる若い娘を安心させるつもりで話しているのだろう。

 未来はこくりとうなずいて見せた。

「3日が過ぎたら台を下ろすから、それに乗って上がってくればいい。それできみのお役目は終わりだ。

 じゃあ、下ろすよ。少し揺れて危ないから、下に下りるまで、手すりにつかまっているといい」

 そして泉燈は身を起こして後退すると、昇降機のスイッチの前で待つ男に手で合図を出した。


 がたん、と揺れて、神輿と未来を載せた台がゆっくりと下降していく。

 キイキイとワイヤーロープがこすれる金属音。光が遠ざかっていく感覚。8月末とはいえ、まだまだ暑い日中でありながらうす暗い穴の中は肌寒く、空気はひんやりと冷たい。まるで氷室の中のようだ。


 やがて台の底に何か硬い物がぶつかったような振動が伝わり、神輿が大きく揺れた。そろそろと立ち上がり、供物を神輿から下ろす。上から見守っていたのだろう、最後の荷物を持って台から下りたところでがたんと昇降機が再び巻き戻され始めた。

 視界の中、ゆっくりと昇っていく神輿と台。

 もうここから脱する手段はなくなり、穴に取り残されるのだと思うと、とっさに台を戻してと叫びたくなった。


 この弱さを払拭したくて、ここに来たんじゃないの?


 ぐっと下唇をかみしめて背を向ける。

 穴の中には、聞いたとおり壁際に古い木製の祠があった。風雨で黒ずんで、今にも崩れてしまいそうな古いその祠に、未来は持ってきた供物を備える。枯れた榊を取り除き、紙垂しでを付けた語弊ごへいを両脇に差していると、ある物が視界に入った。

(……後ろに、何かある?)

 これは祠なのだから、ご神体があって当然だ。

 ただ、それが祠の中に納まっていないことが不思議で、もっとよく見ようと身を乗り出したとき。


 ふと、後ろにあるかなきかの気配を感じて肩越しに振り返ると、そこには隼人がいた。



 いるはずのない存在を目にした驚きに、未来は一瞬体が硬直する。

「どうして……」

 ここに?

 まさか、先んじてここに来ていたとか?


 彼が久利によって座敷牢に囚われていたことを知らない未来がそう考えるのは無理ないことだった。

 もしかして綾乃もどこかにいるのかと、辺りを見回す。


『どうした? わが巫女よ』


 隼人がくすりと笑い、歩を進める。

 その言葉、言い回しに、未来ははっとして彼へと視線を戻す。隼人はちょうど穴から届く光の輪に近い位置にいて、その姿がとてもよく見えた。

 大人びたほほ笑みを浮かべたやわらかな表情。隼人がそんな表情をしているのを、未来は見たことがなかった。

 笑ったところを見たことは何度かある。クラスでの休み時間、憂喜たちと一緒にいて、彼らからのからかいに笑顔で返したり、ちょっとうれしそうだったり、斜に構えてへらりと笑って見せたり。けれども、こんなふうにほほ笑みをたたえて静かに笑んでいる姿は見たことがない。

 未来を「わが巫女」と親しげに呼ぶことも。


「あなた、だれ……? 安倍くん、じゃない、でしょ……」

『安倍? ああ、おまえに見えているこの者の名か』

 隼人は楽しそうにくすりと笑い、自分の姿を見回した。

『わたしは水鏡だ。おまえの中にある、最も強い光を映す』

 そうして、まだ目の前にいる彼への驚きからさめきれないでいる未来へ近づき、そっとその手を取る。持ち上げて顔を近づけ、唇が触れるか触れないかのところで、隼人は未来を見た。


『愛しいわが巫女よ。わたしが何度問いかけようとも、おまえは決してあの言葉以外口にしなかったな。おまえには矜持があった』

「……だれのことを、言ってるの……?」

『もちろんおまえのことだ。

 おまえに続き、ここへやって来たほかの女たちにも多少はあったが、どの者もおまえほどではなかった。どの者も、すぐにわたしを退屈させた。わたしを最後まで飽きさせなかったのは、おまえだけだ。

 よもやおまえが戻ってきてくれるとは思わなかった。わたしが今、どれほど歓喜に打ち震えているか分かるか? あの日々を、また繰り返すことができるのだ』

「待って。わたしはその人じゃないわ。わたしは――」

『おまえこそ何を言っている? おまえだとも。その魂の色、気高き心、間違えたりするものか』

 勝ち誇ったように隼人は笑みを浮かべた。


『さあ始めよう。望みを言うがいい。わたしに何を望むか?

 わが全霊を持って、それに応えよう』


 喜々とした表情でそう口にしながらも、彼にその気がないのは分かっていた。彼が望むのは、彼がどんなに彼女をむごたらしくさいなんでも決して屈しないことなのだ。


 鼓動が早まる。

 これは彼じゃない。そう、頭では分かっているのに、熱い視線で見つめてくる彼から視線を外せない。


「……いやっ……」

 未来は全理性を振り絞って手を引き抜き、身をねじって後ろへ退いた。しかし祠に足が当たって、その場に横倒れてしまった。

 急ぎ身を起こすが、ひねった右足首で強い痛みが起きて、一瞬動けなくなる。

 そんな彼女におおいかぶさるように、隼人が顔の両脇に手をついた。


 顔が近づき、耳元でささやかれる。

『わが巫女よ。言ってくれ。おまえが来るのを待ち望んでいた。あの夜からずっと、そればかりを考えていたのだ』

 隼人じゃない。これは、隼人ではないのだ。

 未来は必死に考える。

 胸を押しやろうと伸ばした手が、反対につかみ止められた。

 瞳が彼女を映しているとはっきり分かる距離で、視線が絡みあう。


『この飽いた代わり映えのない空疎な日々で、おまえだけが唯一の光だった』


 これは隼人じゃないと、何度考えただろう?

 ああ。

 だけどもこの姿でこんなふうに熱く見つめられて、この声でこんなふうに求められたなら――拒めるはずがない。


『望みを聞かせてくれ。おまえの心からの望みは何だ?』

「……わたしの、望み、は……」

 熱に浮かされたように、真っ白になった頭でそこまでを口にして、はっと正気に返った。



「わたしの望みは、あなたが消え去ることです……!」



 素早く口術を唱える。彼を拒絶するために組んだ両腕から白い光が放たれて、隼人を強い力で押しやった。

 そこからさらに間合いをとるように距離を取った隼人の前、未来は身を起こして指で地面にさっと線を引く。


 を違えるこの川は、細き川なりとも強き流れにて、何物をもば渡ることあたわず」


 未来がひふみ祓詞を早口でそらんじた直後、線が光を発してその効力を表す。

 これで一時の間ができたと、未来は正しく座り直し、息を整える。全ての基本は、呼吸にある。

「神の御息はわが息、わが息は神の御息なり」

 ぶつぶつと唱え、顔の前で印を組んだ両手にふーっと息を吹きつける。続いて未来はパンッと両手を打ち鳴らした。


たてまつる此の柏手に、来たりましませ大日大聖不動明王だいにちだいしょうふどうみょうおう

 掛けまくもかしこき不動明王の大前に畏みもうさく。

 かしこくも此の柏手にて、これなる御魂を不動明王の本に帰りましませ」


 両手を合わせ、目を閉じて。一心に言霊を唱える未来を中心に白い線が現れてまたたく間に方陣を描く。

 これは悪しき霊を通さない光の防御陣でもあり、祓方陣はらえほうじんでもある。

 だが未来の言霊に反して、大日大聖不動明王が降りてくる気配はなかった。

 なぜならば――未来はこのとき気付いていなかったが――すでにここは、閉じられた世界だったからだ。


 その様子を見ていた隼人は、まるで幼子の遊戯を見守るように好ましい視線と笑みでくつりと笑うと、颯爽と歩み寄り、ゆうゆうと線をまたぎ越えて、方陣をたったひと踏みで消し去った。


 ぱんっと音をたてたように弾けて一瞬で消失した祓陣に驚愕して声も出せずにいる未来の顎にそっと手をやり、隼人は顔を近づける。


『わが巫女は、本当に愛らしいな。このようなものでわたしを退けられるなどと思うとは。

 今度はわたしの番だ。今の言葉が真の願いであるか、おまえの心に問うてみよう』


 隼人の頭がそのまま下に下りて、未来の胸へと向かう。未来は金縛りにあったように、腕一つ動かせなかった。

 服越しに、唇が触れたとき。

 急速に手足から力が抜けて、視界が大きく反転した。目が回り、体の感覚が失われていく。自分が今、どこでどんな状態でいるのかも分からない。


 手は、地面についていたはずだが、今もそうしているのだろうか?

 足はどの方向を向いている?

 体は? 立っている? それとも寝ている?


 何も見えない、分からない、感じない。

 ただただ脱力とめまいと浮遊感の中で、涙がこぼれた。


 失敗した、と思った。

 こんなにも力量に差がある相手だったなんて。

 彼を封じられる、自分でもできると思った最初から、間違いだった。

 アレスタや綾乃、隼人を裏切ってまで、したことだったのに……。


 ここに来たのが綾乃だったら、こんなことにはならなかったのだろうか。

 彼と対峙したのが綾乃だったなら、きっとこんな、無様なことには――……。


(ううん。綾乃ちゃんならこんなこと、考えたりしなかった。自分の力量も分かっていなかった、わたしがばかだっただけ)


 今となってはもう、流れているはずの涙も、何も、ほおに感じ取れない。

 何もできない。


 己の愚かさとむなしさと。極度の疲労感、そして悔悟の念ばかりが未来を襲う。

 何の光も見いだせない、そんな中で、隼人の声がこだまする。


『おまえの真の望みは何だ? 何を望んでいる?

 さあ言ってみろ』


 未来は嘆息をもらし、つぶやいた。

「……わたしの、望み、は……………………」

 何を言おうとしたのか、未来自身分かっていなかった。


 ただ、そのとき。

 彼女の言葉を遮るように、突如爆音が響いた。


 それは、ダイナマイトが間近で爆発したような感覚だった。

 驚きと警戒から隼人の力がそちらにそれたためか。一気に全ての感覚が戻ってきて、未来はまばたきする。

 彼女は地面に仰向けになっていて、顔を横に傾けていた。


 音は、まだ続いていた。2度、3度と、何かが硬い壁に激突するような音に、空気までが震える。

 未来の視線の先で、空間を揺るがして、ついに岩壁に蜘蛛の巣状の亀裂が走った。

 岩から剥がれた欠片がパラパラとこぼれ、光となって宙に消える中、どんどん亀裂は広がって人が通れるほどの穴となり、うす暗い穴の中に強い斜光が差し込む。


 暗さに慣れていた未来の目に、強い光の輝きでまばゆく映ったその姿は。



「ハッ! なんてことない、ただのナイトフォールじゃねえか」



 ストローを口にくわえて意気揚々と笑う、隼人だった。


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