久利が去ってから10分もたたないころ。
音もなくドアが開いて、開いた隙間からするりと小さな生き物が通路にすべり込んだ。
大きめのリスのような、小柄なテンのような、長めの胴体に白い巻き毛がふさふさのその生き物は、跳ねるように通路を駆け抜けて隼人たちのいる座敷牢の前の通路へ右折すると、格子の隙間をするりと抜けて、奥の布団で横になっている綾乃へとチョロチョロ小走りに近づく。
後ろ足ですっくと立ち、小さな手をぺたりと綾乃の額に付けようとした、ときだった。
無音で頭上から迫る手が、空間をえぐるようにすばやく獣の胴をつかみ取った。
しかしそれは残像にすぎず、獣は小動物らしいすばしっこさでちょんちょんと数歩先へ逃げていた。
そこで、くるっと振り向く。
「驚いたー。あいさつもなしに攻撃するとか、だめだよー」
「うるさい、獣め。きさまが詞為主の手のものじゃないとどうして言える」
先が少しだけ黒いもふもふの尾を挑発するように振って、当然のように人語を操る獣。そんなものが現れたら、真っ先に山の主の使いを想像してもおかしくはない。
緊迫した一瞬。
声を聞きつけて、綾乃が浅い眠りから目を覚ました。
「ん……、辻さん?」
「そうだよー。アヤちゃん、具合悪そうだねー、大丈夫ー?」
再び枕元へ走り込んだ獣の右手が額にぺたりと貼り付く。
「あ、はい……平気です」
綾乃はとろんとした目で獣を見て、また目を閉じた。
「辻さん、無事だったんですね……」
「僕はねー。あの化け物に3つくらいやられちゃったけどねー。元気元気ー。
でも、タケルのやつがちょっと怪我しちゃってさー」
「澤田さんが? 大丈夫なんですか?」
「へーきへーき。腹にちょこっと穴が空いて、脳振とう起こしたくらいー。
ここへも来たがってたんだけどアレスタさんに止められて、僕だけで来たんだよー」
「アレスタが。
やっぱりお二人に合流してたんですね……良かった」
「ミライちゃんも無事だよー。土蔵に閉じ込められたんだけど、僕が出してあげたからー」
「……未来。……ありがとうございます」
獣の小さな両前足が、綾乃の頭をよしよしとなでる。それを受け入れている綾乃。
親密そうなその光景が、なぜか隼人には面白くなかった。
大きくチッと舌打つ音を聞いた獣は、振り返って隼人を見上げる。
そして次の瞬間、獣は人の姿へと変じた。
「やっはー。ハヤトくん、だったっけ。辻だよー。はじめましてー、じゃないよねー?」
辻は、見た目には隼人たちと変わらないように見えた。
短く刈られた髪、大きな目。背もさほど高くなく、隼人と同じか、隼人より低いかもしれない。今は白シャツにジーパンという格好だが、学生服を着れば、へたをすると中学生でも通りそうな華奢な体格をしている。
しかし目が、決定的に人とは違っていた。
無感情な、何も表していない瞳はまるで
加えて、声も感情というものを感じさせない。先から人の言葉を話してはいるが、はたしてその意味を本当に理解して口にしているのか疑問に思えるほど、平坦なものに終始していた。
「そうか。おまえが辻か。マンションでは世話になったな。また会えたら、ぜひお返しをしなくちゃいけないと思っていたぜ」
すっくと立ち上がり、指の骨をポキポキと鳴らして威嚇行動に出る。
無口、無表情でぼーっと牛乳パックをすすっている、普段の隼人を知る者たちが今の隼人を見たなら完全に面食らっただろう。だがそうなるのも無理はない状況だった。
ここ数日、久利にしてやられ続けていることでストレスがたまり、座敷牢へ閉じ込められて思うように動けないでいる緊迫した状況が隼人をいら立たせ、余裕を奪っている。
「あの女の遺体に化けてたのもおまえだろ、犬神」
「あ、やっぱり気付いてたんだ。でも、僕じゃないよー。僕ではあるけどー」
犬神は
辻が大小数十の魂をその身に隠し持っているのが、隼人の金色に変わった目には視えていた。
(……77ってとこか。こいつも
こんなやつまで機関ってのは飼っているのか。
「じゃあ三度目ましてだねー、よろしくー」
隼人の放っている威嚇など意に介さないといった様子で、トコトコと前までやってきて無遠慮に手を差し出してくる。隼人はさっと手を引っ込めた。
「近づくんじゃねえ。獣くせえんだよ、おまえ」
犬歯をちらつかせる隼人を見て、辻は小首を傾げた。
「そっちこそ狐くさいじゃんねー? お互いさまだよー」
そう言いつつ、今度は少々強引に手を握ろうとしてきたが、またもや隼人は手を逃がした。
「…………」
「…………」
サッ。
サササッ。
手を握ろうとする辻と、それをさせまいとする隼人。
向かい合ったまま、目にもとまらぬ速さで無言の攻防が繰り広げられる。
「握手しよーよ」
「こっちはしたくねえんだよ!」
分かれよ!
だが次の瞬間。
「捕まえたー」
辻の左手が隼人の避けた手首を先回りしてつかんだ。
驚きに目を
「ほらねー、握手ー」
「だから、なんでしたがるんだよ!」
「タケルがねー、ゴネてもとりあえず握手しとけばいいって言ったからー」
犬神には
「俺はおまえらとなれ合う気なんかねえ! 第一、おまえも澤田ってやつも、俺のぶっ飛ばしリストに入ってるんだからな!」
隼人の抵抗をねじ伏せ、有無を言わせない怪力で強引に握手しながら涼しい無表情で、辻はきょとんとさらに首を傾げる。
「なんで?」
「俺を拉致ったの、おまえらだろーが!」
もう忘れたのかこいつ!
「あー。あんな前のこと、まだ根に持ってたんだー。狐ってほんと執念深いよねー」
「うるせえ。俺は何でもなあなあにして忘れたりしねえんだよ」
「もー昔のことじゃんー? 忘れよー、そうしよー。
はい終わりー」
ぱっと辻が手を放した瞬間、隼人は後ろへ飛び退いた。
かばうように添えた左手の下で、右手が赤くなっている。
本来の力を出していないとはいえ、この姿のときに力負けしたのは初めてだった。
無言で辻をにらみつける隼人に、綾乃がため息をついてストップをかける。
「何そんなことで無駄にいきり立っていがみ合ってんの。今はそれどころじゃないでしょ」
「僕はべつにかまわないけどー? タケルから言われたのは握手だけだしー。そっちがやりたいなら、相手してあげてもいーよー?」
「だめです。これ以上騒ぐと人が集まってきますよ。それは、澤田さんやアレスタの望むことじゃないでしょう?」
たぶん、と。賭けみたいな問いかけだったが、意外と当たっていたらしい。辻は少し考えるように視線をよそへ飛ばして、「はーい」と綾乃に完全に向き直った。
「タケルたちに言われたのは、きみたちの様子を見てくることとー、それからミライちゃんをこのまま行方不明にして、アヤちゃんが神嫁になるほうに話を持っていくのはどうかって提案してこいってことだったんだけどー」
「無理だ」
綾乃が答えるより早く、隼人が断言した。
「今のこいつにそんなことができるわけないだろ」
「そんなことないよ! できる! やるよ!」
「だめだ」
今度は隼人と綾乃がにらみ合う。
その様子に辻は、んー、と考えるように頬に人差し指をあてがった。
「僕も今のアヤちゃんには無理だと思うなー。それに――――――あー。今、ミライちゃんがあっちの僕を振り切って、彼女を捜してる村人たちのほうへ走って行っちゃった」
「未来……あのばか」
「彼女、どうしても神嫁になりたいみたいだねー。あんな化け物のお嫁さんなんて、僕ならなりたくなんかないけどなー。おっかないよねー」
無表情、無感情の平坦な声で言いながら、辻は格子に近づいて手をかけた。
「それで、どうしよっか? ミライちゃん捜索に人手が割かれてた今ならここから出られるかもだけど、村の人たち、屋敷のすぐ外にはいるんだよねー。
まあでも、アヤちゃんだけだったら連れ出せるけどー?」
狐は自力でできるよねー、と言う辻は無視して、隼人は少し考えたあと、綾乃を見て言った。
「いや、俺たちは神嫁の神輿が出立してからここを出て山へ向かう。それなら屋敷だけでなく、村中から人がほぼいなくなるからな」
見張りは残されるかもしれないが、それでも少数だろう。
それでいいだろ、との隼人の視線に、綾乃も強くうなずいた。
「あたしも行く。絶対、何があっても」
上掛けを強く握りしめて宣言する綾乃の姿に、そう言うだろうと思ったと、しかし内心では賛成できないでいるといった表情でため息をつくと、隼人は辻を見た。
「ということだ。さっさと帰ってご主人サマに伝えろ、犬」
辻は隼人と視線を合わせたあと。無言で、ぱっと獣の姿に変じて格子の間をくぐる。そして後足で立ち上がり、ちろりと振り返って隼人を見上げた。
「言っとくけど、あいつ、ほんとに強いよー。もし僕の力が借りたいと思ったら、我慢せず言いなよねー、狐。お願いします辻さまって頭を下げて、三遍回ってコンって鳴いたら、2つ分くらいなら力貸してあげてもいいからねー」
「俺は狐じゃねえ!!!!」
カチンときて叫んだが、そのときにはもう辻の姿はそこになく。
後ろで綾乃が、隼人が三遍回ってコンと鳴く姿でも想像したのか、堪えられないといった様子でぷっと吹き出し、腹を抱えて笑っていた。